顔を剥ぐ
三島 至
顔を剥ぐ
この顔も、もうダメだ。
ぼろぼろになって剥がれかけた皮膚に爪を立てる。頬の下に食い込んで、ぺり、と乾いた音がした。
今回の顔は、崩れるのが早かった。
やはり急ごしらえは上手くいかない。じっくり時間をかけて、一生使うつもりで探さないと、また面倒な工程を一から踏む羽目になる。
指に力を入れる。
ぺり、ぺり、ぺり。
両手を額に移動させて、掌を擦り付けながら、顎まで移動させた。
乾いた土のように、ぱらぱらと、地面に古い顔が落ちていく。
積み重なる皮膚をぼんやりと見つめながら、自分だった物が消失していく感覚を受け入れた。
また、新しい顔を探さないと。
それまで僕は、誰にも、何者にもなれない。
生きた人間が望ましいのだが、急いで適当に選ぶと、馴染まず、またすぐダメになる。古い顔が落ちてしまった今は、急がねばならなかった。それに、使い捨てるつもりで、生きた人間の顔を剥ぐのは、もったいない。だから、死体を漁る。
毎日どこかで交通事故が起きている。交差点で息をすることを辞めた者を探して、顔をもらっていく。新しい自分を見つけるまでの、仮の皮膚。
いい死体があった。今日はついている。
落ち窪んだ眼の若者や、くたびれた中年、眠る事の出来ない大人、骨だらけの子供。いつもはそんなのばかりだが、一つだけ、生き生きとした顔が死んでいた。
今時珍しい、生きた心だ。
希望いっぱいで、生きることに不安なんて無くて、心地よい疲れしか知らない、死へ逃げる事なんか、考えた事もない心だ。
残念だなあ。これで生きていれば、言うことないのに。
最近は生きていても、死んでいる人間ばかりだ。
生き生きと死んでいる、若者の顔を剥いだ。
自分の顔に被せる。
隙間から空気が抜けていって、ぴったりと張り付いた。両手でぺたぺたと触る。眉、瞼、鼻筋、頬骨、唇。顎から両耳にかけて、指を滑らせる。完全に馴染んだ。
顔が作られると、やっとこの世に姿を現す事が出来る。ふわふわと浮いて、不明瞭だった存在が、地に足をつけて、重力がかかり、息を吸って、意思を持った。
気づくと雑踏の中に立っていた。
急に世界が音で溢れる。救急車やパトカーが集まって、騒がしい。立ち止まっている人や、集まっている人々は、皆手に小さい機械を持って、無感情に事故現場を眺めている。
見向きもしないで通り過ぎていく人も多い。誰も彼も、死んでいる。
たった今死んだ“俺”は、生きていた。
さようなら、生きていた君。僕は新しい“俺”になります。
同じ顔をした死体はもう無い。あるのは、顔が剥がれて、判別のつかなくなった死体だけ。僕が剥がすと、その顔は僕の物になる。だから、この顔はもう、彼の物ではなくなったのだ。
その場を後にして、死んだように流れていく大勢に紛れる。
歩き出すと、“俺”になる前の僕の事は、忘れてしまった。
※
確か今日は、沙英子の誕生日だ。父ちゃんが早く帰ってくる。
今何時だ? まずいな、もうこんな時間か。家族全員揃っているだろうな。多分俺が最後だ。
父ちゃんはもう家に着いたかな? 電話をしてみるが、繋がらない。
しょっちゅう充電を切らしているから、今日もそうだろう。
電話を切って、ポケットにしまう。
家まであと少し。人通りのない住宅地を駆け出した。
家の前で、鍵を開けようとする父の後ろ姿が見えた。
「父ちゃん、今帰ってきたの?」
声をかけると、父が振り返る。「おお、康太、遅かったな」
「誰もいないの?」
父は面倒くさがりで、帰ってくる時はいつも、自分で開けないでチャイムを鳴らす。
もう夕方で辺りは薄暗いが、我が家の明かりはついていなかった。
「電気ついてないからなあ、チャイム鳴らしても誰も出ないし、出掛けたのかな? 父さん、電話の電池無いんだよ。康太、なんか聞いているか?」
「なんも聞いてない……父ちゃんには電話したけど、母ちゃん達には電話してないよ。してみる?」
「ああ、頼む」
携帯電話を取出し、母親の番号を押す。耳にあてて、呼出し音を聞いて待った。
自動音声に切り替わる直前まで、電話に出なかったので、妹にかけ直そうかと思った所で、呼出し音が、無音に変わる。
相手が電話に出たようだ。だが、音はしない。
耳をすませると、微かに吐息のようなものが聞こえた気がした。
「……母ちゃん?」
電波でも悪いのだろうか。そう思いながら、呼ぶと、向こうで息をのんだのがはっきりと分かった。
『こ……康太……本当に康太なの……』
「ん? 康太だけど。何、詐欺じゃないよ。父ちゃんもう帰って来ているけど、今何処?」
電話越しの母親は、『だ、だって……康太は今……』と言うと、それ以上声が出てこなくなる。
様子がおかしいので、父に「ちょっと、父ちゃん」と言って電話を渡す。
「なんか、母ちゃん動揺しているっていうか……変なんだけど」
父も怪訝な顔をして、電話を代わる。「どうした、加代子、何かあったのか?」
ぼそぼそと、母親の声が漏れ聞こえてくるが、何を言っているかは分からない。やがて父は、「はあ? 何言っているんだ、康太はちゃんとここにいるぞ」と言った。
何の話をしているのだろう。俺がどうかしたのだろうか。
「康太が事故で死んだ……? 待ってくれ、加代子。今どこにいる?」
その後も幾らか会話して、父は電話を切った。
「……母さん、疲れているみたいだ。康太が死んだ、ってそればっかり言っている。認知症には早すぎるよな……病院に迎えに行くけど、康太も一緒に来てくれ。顔を見れば安心するだろう」
俺が死んだって? 母ちゃんは何を言っているんだ。
一体母の身に何があったのだろう。
不安に思いながらも、頷いて、玄関の鍵をかけ直す。
「分かった。沙英子も母ちゃんと一緒にいるの?」
「ああ。沙英子には代わらなかったけど、一緒にいるらしい」
父も、母の様子から只事では無いと思ったのか、沈んだ表情で顔を見合わせる。
「それに、妙なことを言っていた。顔が無いの、って……」
聞かされた母の不気味な発言に、急に背筋が寒くなる。「母ちゃん、頭を打ったの? 事故?」深刻な事態なのかと、思わず聞いたが、父も俺も状況は変わらないのだから、分かるはずもない。「康太が事故に遭った、と本人は言っているから、そうかもしれない。頭が混乱しているんだ、きっと」父もそれらしい理由を見つけて、せめて自分は冷静でいようとしているようだった。
俺と父はタクシーを捕まえて、急いで病院へ向かった。
事故に遭ったのは、母ではなかった。妹の沙英子でもない。
交差点で事故があり、死傷者が出た。死亡した男性の持ち物から、身元を割り出そうとしたが、それが俺の学生証だったらしいのだ。
火傷と言っていいのか、分からないが、顔だけが只々真っ黒で、判別のつかない死体が、俺だと思われていたらしい。
連絡を受けて、病院へ向かった母と沙英子は、服装や持ち物を見て、俺だと判断した。しかし、俺はここにいるのだから、その死体が俺であるはずがないのだ。
「康太!!」
「兄ちゃん!!」
母と妹が、俺の姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
今朝見たときは元気そうだったのに、半日でこんなにやつれるのかというくらい、疲れた顔をして、母が泣きついてくる。「康太、本当に康太なのね、幽霊じゃないわよね」普段なら恥ずかしがって抱擁などしないが、この時ばかりは俺も母の背中を優しく叩いた。
「一体どういう事なんだよ」
俺が聞くと、沙英子が赤くした目で俺を見て、「そんなのこっちが聞きたいわよ。どうして兄ちゃんの学生証を、他人が持っているのよ。服だって、どう見たって、兄ちゃんが持っていたのと同じものだし、顔が分からなくても、もう、決まりだって思うわよ」と言って、耐え切れなくなったように目を擦った。緊張の糸が切れたように、「良かったよ、兄ちゃん、生きていた……」と泣き出す。
俺は何も悪いことをしていないのだが、申し訳なく思った。
「それにしても、俺、学生証どこかで落としたかな……」
それしか考えられない。
父も同意した。そして付け加える。「落としたか、盗まれたって可能性もあるかもしれないな。死亡した男性が知り合いかどうか、分かるか?」
「俺とそっくりな知り合いなんて、心当たりないよ。背格好どころか、服装まで一緒で、顔を隠したら家族にまで間違われるなんて、何だか怖いよ。どこの誰なんだよ」
「それもそうだな……」
その後警察の事情聴取を受けたが、有力な情報は提供できず、また、こちらも得られなかった。
すっかり夜が遅くなってしまい、沙英子の誕生日のお祝いは、言葉だけかけて、料理は翌日に持ち越す事となった。家族全員で家に帰る頃には皆くたくたで、次の日も学校だったり仕事だったりで、とにかくすぐに寝たかったのだ。
母と沙英子は、家に着いてからも少し泣いた。俺も貰い泣きしそうだった。こんなにも家族に思われて嬉しく思い、心配をかけた事を心苦しく思った。元はといえば、俺が学生証を無くしたのが悪いのだ。これからは気を付けなければ。
結局、身元不明の彼は誰なのだろう。
偶然俺の落とし物を拾っただけの、いい人だったら、何だか不憫だ。彼にも、俺のように心配してくれる家族がいたかもしれない。だが、彼は身元不明のまま、ひっそりとこの世からいなくなる。その死を、彼の死を、誰も知らないまま、肉体は存在しなくなる。
それはとても恐ろしい事だ。
彼が成仏できるように、せめて俺だけは祈ろうと思った。
顔を剥ぐ 三島 至 @misimaitaru
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