2.


 今から一年ほど前、人間最後の都市であるこのエリュシオンで、記録として残る出来事があった。


 一つは『蛇』と呼ばれた肉体のないドラゴン(?)によって起こされ、蛇に乗っ取られた状態になったエディ・シェフィールドが俺の教え子でもある柳井やないわたるを刺傷。また、エディの両親は蛇による無理心中という形で自決。

 他者に精神を宿すことのできる蛇は人にとってもドラゴンにとっても脅威ではあったが、蛇による被害はここで終わる。

 かつて、無残に夢を殺され、それでも本当は夢を見たかった蛇は、俺という人間を拠り所とすることで他者を破滅へと追いやることをやめた。

 一般的には『エディ・シェフィールドの暴走』として片付けられているこの事件は、蛇は、隠し続けなければならない。弱い人間があることないことすべてを蛇に押しつけ、追い詰めてしまわないように。


 そして、もう一つは、昔話として見聞きしたことのあるあの『八岐大蛇ヤマタノオロチ』が時を越え姿を変えてこの都市に襲来したこと。

 おそらく、『櫛名田姫くしなだひめ』の子孫に当たる櫛名田いのりに櫛名田姫を感じ取って覚醒したのだとされる八岐大蛇は、様々な死骸を利用しながらこの都市にまでやってきて、祈の中に残留していた櫛名田姫の魂と一つになると、海へと落ちて還っていった。

 俺はこのとき八岐大蛇の瘴気しょうきに当てられて気を失っていて、重要な場面にいたのに話の流れを知らなかったりするんだけど、コウの投げやりな説明はそんな感じだった。

 八岐大蛇、櫛名田姫について書くなら、合わせて『富士の噴火』『ファスィリティ・フジの消滅』、櫛名田祈、櫛名田幸人ゆきとの姉弟についても書かなくてはならないだろう。


「まとめて、どうするの? それ」


 横から手元を覗き込んでくるエディによく似た顔立ちのハルモニアに、俺は苦笑いを返す。

 彼…いや彼女? とにかくハルがもともと蛇であったと知るのは極少数だ。俺と、コウと、ろいろと、おうと、青玄せいげんと、吉岡さん。

 夢見ることを思い出したハルは、もう誰も破滅へ導くことはしない。


「俺も歳だから。忘れないように日記みたいに記しておこうかと思って」

「危なくない? 流出しない?」

「だからわざわざ紙を選んだんだ。保存する金庫のパスはコウでも解けないくらいの面倒なやつにする」


 今では読み書きできる人間も限定されるだろう日本語で、ノートに記した文章を見直す。話の内容はわかるから、これでいいだろう。

 ノートの表紙に戻り、何も書いていない表紙を前に腕組みする。…タイトルとかあった方がいいかな。『エリュシオン 2128』とか? 去年の出来事だけで終わるにはノートのページは余っている。今年の大きな出来事もきっと書くはずだ。なら、年号はいらないか…。どうしようかな。

 考えてみて、適当なタイトルが思いつかず、結局表紙には何も書かないままノートを金庫にしまった。

 長すぎて考えることが面倒になるパスワードも、右目の義眼、小さなコンピューターの力を借りればサックリ終わる。

 文字数にして32文字。これならコウでもそう簡単には突破できまい。

 別に、エロ画像を保存するわけじゃないんだから、見られてもいいんだけど。

 前々からしたいと思っていたことがようやく終わって、頭の中が少しスッキリした気がする。

 天井に向かって腕を突き出して伸びをして、視線に気がついた。ハルとコウ。二人にじっと見られている。「…え、何?」歳を自覚して日記をつける俺がそんなに変だった?

 いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せていることがデフォルトのコウにいたってはなぜか真顔だ。

 コウがああいう顔をするとき、俺にとってよろしくないことを考えていたりする。経験上で具体的に言うなら、こういう顔のコウは薄い本のネタとか、ネタとかを考えている。


「明日、あたしも同席したいんだけど」

「はぁ? 明日って、エディの補習のこと?」

「そう、それ」


 真顔で何を言い出すかと思えば。

 俺は溜息を吐いてコウの申し出を却下した。「エディがいらん緊張するだろ。そうでなくても、勉強に身が入らない。ダメ」チッ、と舌打ちしたコウがいつもの不機嫌顔に戻り、眉間に皺を寄せつつも手元のタブレットへと意識を戻していった。

 なんなんだ、と首を捻る俺の袖をハルが引っぱる。「じゃあオレは?」「ん?」「その…」言いにくそうに口ごもったハルがどういう顔をすればいいのかわからない、と笑う。


「エディにちゃんと謝ってない。謝って許されることじゃないけど…だから謝らないっていうのも違うと思う」


 どうやらハルはエディに今までのことを謝っておきたいらしい。

 それは良いことだと俺も思う。思うけど…。

 緩く頭を振って、ハルの申し出も却下する。「エディにちゃんと聞いてみてからにしよう。受け止められないことをふいにされても、本題の補習ができなくなりそうだし。それとなく俺から話はしてみるから」「…そっか。まぁ、そうか」ハルは残念そうに眉尻を下げて、でも頷いた。人やドラゴンの心に長く触れてきただけあって、ハルは物分りがいい。

 視界に入った壁掛け時計が深夜0時になった。そろそろ寝ないと。

 一番近い地上の時間がエリュシオンでの時間となっているけど、エリュシオンは度々空路を変更するから、時間もその度にズレる。時計の時刻は参考であって、絶対的に合っているわけじゃない。

 人は空に住むようになってから、時間という概念からも切り離されつつある。

 すでにベッドでうたた寝しているろいろの歯磨きをすませ、自分の歯磨きをすませてベッドに腰掛けると、そういうのが必要ないハルはすでに布団の中だった。「お前も寝るの?」「今日は寝ようかなー」人形に宿っているハルには睡眠も食事もとくに必要ない。完全に気分次第で、今日は眠るらしい。

 ハルがいるとそれなりに狭いベッドに潜り込んで、俺、ろいろ、ハルという川の字が完成。…それを真顔で見つめてくるコウがいる。

 はい、キニシナイ。気にしたら負けだ。俺は寝ます。おやすみ。




 翌日、三連休の一日目。天気は晴れ。光エネルギー充填率は九十五パーセント。この充填率なら今日は電気の使用を制限されることはないだろう。

 空の只中にある街は晴れていようが強い風で寒いので、しっかりと着込んでから、タブレット相手に黙々と作業を続けるコウと見送るハルにろいろを預けて寮を出た。

 外は冬の澄んだ空気みたいに冷たくて、清涼で、天蓋のように都市を覆う防護壁の隙間から射し込む陽射しが心地いい。

 寮まで迎えに行くと、寒いのにエディは律儀に寮の外で俺を待っていた。中で待っててよかったのに。


「エディ」


 少し遠かったけど、手をメガホンして声をかけると、風の音がうるさい中でも俺の声が聞こえたらしいエディが顔を上げる。

 その瞬間のエディの表情をなんとたとえたらいいかわからなかった。…なんか、嬉しそう、かな?

 駆け寄ってきたエディが「おはようございます」と頭を下げるから「おはよう」と返し、携帯端末のマップを呼び出す。「ここへ行こうか。予約はしてあるから、個室でのんびり勉強できる」予約すれば個室を提供してくれるカントリー調を意識したカフェの看板を指で弾く。

 エディがなんともいえない表情で眉間に皺を寄せてみせた。「個室…」「…イヤだった?」エディはまだ人の目が気になるだろうという俺なりの配慮をしたつもりだったんだけど。

 緩く頭を振ったエディが「行きましょう」と張り切って歩き出した。

 急に張り切りだしたエディに首を捻りつつ、あとに続く。

 今日は三連休の初日。プラスでいえば、天気も良い。午前中からメインストリートはそれなりの人で賑わっている。

 お目当てのカフェは一般階層で一番大きな公園の隣にある。

 そう緑が多いわけではないけど、遊具と土がある数少ない場所の一つでもあって、公園は小学生以下の小さな子供を連れた親子の姿が多い。

 公園を横目にカフェに入り、予約している旨を告げて個室に案内してもらった。

 二人用の個室は日本の飲み屋を連想させるこじんまりとした感じだ。ただし、飲み屋のような畳と座布団じゃなく、簡素なテーブルとチェアが二組だけど。

 分厚いコートを脱いでハンガーにかけ、エディの分と並べた。重いコートは肩が凝る。

 個室を予約した手前、とりあえずドリンクだけはオーダーしておく。「エディは何がいい?」「え、」「俺が出すからいいよ。何がいい?」木目の表紙のメニューを渡すと、忙しなく視線を動かしたエディがドリンク欄のホットウォーターを指した。

 遠慮してるなぁ、と思わず苦笑いする俺である。


「せっかくの休みを勉強で潰すんだから、もっといいもの頼みなさい」

「それは、先生も同じですよ。俺の勉強のために休みを返上するんですから」

「え? あー、なるほど。それは考えてなかったな…」


 エディの視点で見ると俺はそういうふうに映るらしい。

 ふむ、とぼやいてメニューを見直す。「じゃあ…おやつでも食べようかな。カフェに来たんだし」たまには贅沢をしようってことで、ホイップクリーム付きのスコーンを頼むことにする。

 エディはホットウォーターからホットレモネードにして、テーブルに備え付けのタブレットからオーダーする。

 店内にはカントリー調を意識しているにふさわしい、癖がなく、ゆったりとした音楽が流れている。

 エディがさっそくドラゴン学の教科書を取り出し、携帯端末の画面をノートに切り替えた。ノートにはすでに何かメモ書きがしてあるのが見える。

 …電話で予習復習をしておくって言ってたけど、本当にしたのかもしれない。真面目だなぁ。



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凋落のエリュシオンⅡ 龍の別れ詩 アリス・アザレア @aliceazalea

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