取るに足らない、けれども幸福な日々を過ごす

1.


 黒い椅子、黒いテーブル。対象的に白いメニューと白い食器。

 色を排除したようなそのカフェはぼんやりと記憶にあった。

 ここで二人が和やかに過ごしているのを寒空の下で恨めしく見ていた俺が、一年と少し前、ここにいた。この路地裏に。

 くらい目でじっとこちらを見つめるかつての自分。そんなものを幻視する。

 その場所で一瞬足が止まって苦い気持ちがこみ上げたところで「こっちよエディ」とアウェンミュラーの軽やかな声に呼ばれ、一歩、踏み出す。

 歩き出してしまえば、俺のこの現在いまが現実だということがわかる。吹き抜ける冷たい風で実感する。俺は今ここにいる、と。

 路地裏からこちらを見ていた昏い目の自分。

 あれは過去の俺で、もう消すことも変えることもできない過ぎ去ったもの。忘れ去っていいものではないが、囚われるべきものでもない。

 先にカフェに入った二人を追って店内に入り、金髪蒼眼のアウェンミュラー、緩いパーマの黒髪と眼鏡が目印の柳井やない先輩、二人のいる四人席へ。

 どちらに座るべきか迷って、先輩の隣の席に落ち着く。


「今日の授業内容も興味深いものでしたね」

「うん。でも難しいね…ドラゴンの文字かぁ」

「この連休、少しでもドラゴン文字を憶えることに費やした方がいいかもしれませんね。ルーン文字みたいにややこしいですから」


 二人はドラゴン学の教科書を取り出し、さっそく話を始める。内容は今日のドラゴン学でかじったドラゴン文字についてだ。

 俺も二人に習ってテーブルに教科書を広げた。今日習ったページには、解説されても読み解くのに時間のかかるドラゴン文字が並んでいる。

 葉山はやま先生が言うには、ドラゴン文字を使うのは、何百年も生きているような賢いドラゴンくらいらしい。ドラゴン内でもこの文字の普及率は低く、もっぱら口伝が多いとか。

 教科書に並ぶドラゴン文字を読もうと頭を回転させていると「注文は」と低い声がした。カフェの店主だ。


「ホットレモネードをください」

「僕もそれで」


 即答したアウェンミュラーと柳井先輩。目つきがいいとは言えない中年の店主にジロリと視線を向けられて口ごもる。「同じく、それで」なんとか口にして返すと、店主は不機嫌そうにカウンターに引っ込んでいった。

 アウェンミュラーがテーブルに身を乗り出して「気にしちゃダメよ。あの人、この子が気に入らないの」声を潜めてそう言うと、膝の上にのせている子供ドラゴンの小さな頭を指で撫でる。

 アウェンミュラーが片時も離れず一緒にいる子供のドラゴン…リーベは今日も元気だ。相変わらず育て親であるアウェンミュラーがいる前では大人しく、彼女の指に撫でられて機嫌がよさそうに目を閉じている。

 ……アウェンミュラーがドラゴンを連れているから、俺は少し、気が楽だ。アウェンミュラーとドラゴンがいたら、人の注目は自然と彼女とドラゴンに向けられるから。

 両親は一人息子の暴走に無理心中。

 堕ちた資産家の息子はどこへ行ってもヒソヒソと陰口を囁く対象だ。

 そんな俺でも、アウェンミュラーも柳井先輩も、そばに来ることをいとわない。葉山先生も、こんな俺の後見人として面倒を見てくれてる。

 彼らと過ごせることを、俺は毎日感謝している。

 少ししてドンッと乱暴に白いカップが三つ置かれたが、店主は何も言わなかった。不機嫌なオーラはそのままに、カウンターの奥へ引っ込んでいく。

 アウェンミュラーはカップの一つを手元に引き寄せてさっそく口に運んだ。そのすまし顔は、そうしようと決めているから、何があっても崩さない。

 彼女は人の視線もオーラも、跳ね返すと決めている。彼女は強く在らねばならない生き方を自分で選んだ。…その姿勢を俺も見習わないと。

 柳井先輩もカップを引き寄せてホットレモネードを飲んだので、同じく、あたたかい飲み物をからだに流し込んで一息吐く。

 ホットウォーターにそれらしい味のする粉を混ぜただけのような代物でも、一般階層ではそれが普通だ。この味にはだいぶ慣れた。


「このお店、他にお客さんがいるところ見たことないんです。貴重な利用客である私達を追い出せるはずがありません」

「なるほど」

「だから、エディももっと胸を張りなさい」


 指摘されて、思わず苦笑いがこぼれる。

 厚生施設送りになった人間が胸を張るのにどのくらいの踏ん張りが必要か。

 それはきっと、ドラゴンを連れ歩いているアウェンミュラーも同じで。だからこそ彼女は俺に胸を張れと言うのだろうけど。



 陽射しが弱くなってくる前に、柳井先輩とスーパーの前で別れた。

 明日から三日間まるっと連休で、学校は休みに入る。寮も簡単な朝食以外は食事が出ない。俺もアウェンミュラーも先輩も、とりあえず明日の食事をスーパーで購入した形だ。

 アウェンミュラーはドラゴンを抱きかかえるので手が塞がるから、俺が彼女の分の紙袋も抱えて歩く。


「風、冷たいままね」


 彼女の呟きは、独り言のようでもあり、俺に語りかけたようでもある。

 吹き抜ける風はアウェンミュラーの言うとおり冷たいが、陽射しがなくなれば、この倍は冷たくなる。空中に浮かんでいるこの都市では冷たい風だけはどうしようもないことだ。

 今はヨーロッパの上辺りを漂っているエリュシオンはこれから南下していく。南半球に入るまで、風の冷たさは厳しいままだろう。

 エリュシオンの軌道予定表を思い出しつつ「今月中には南半球に入るよ。そうすればもう少し、過ごしやすくなる」アウェンミュラーの独り言にこちらも独り言を呟くようにして言葉を返し、風にあおられる紙袋を抱え直す。

 冬が訪れる前に、毎年エリュシオンは南下する。

 ただでさえ寒い空の中で冬を過ごすのは難しい。だから、大気が少しでもあたたかい南へと移動するのだ。

 ただし、南半球には同じことを考えて移動してくるドラゴンも多数存在する。

 南へ行くほど、そういったドラゴンと遭遇することも多くなってくるから、南半球へ行くということは、ドラゴンとの闘争も避けては通れない…ということになってくる。

 そうなったら、葉山先生は悲しむんだろうか。ドラゴンのことを肯定的に見ているあの人は、苦しむんだろうか。

 そんなことを考えていると、見慣れた寮が見えてくる。

 建物の中に入って、寒さから解放された俺は学校指定のマフラーを取り払った。手袋を外し、アウェンミュラーと別れて自室に戻る。

 パタン、と扉を閉じて、暖房の入っていない部屋で一人になったとき。他に誰もいない一人の空間に、誰も気遣わなくていいと安堵を覚えるのと同時に、泣きたくなるくらいの苦しさも感じて、いつも、胸が痛い。

 部屋という空間が想起させる、かつての家の、なんでもない風景。日常。失った両親のこと。

 厚生施設にいた頃は、毎日のスケジュールが決まっていて、忙しくて、余分なことを考える暇も余裕もなかった。

 厚生施設の外に出てみて、学生として生活し始めて。考える頭と心が残っている毎日の繰り返しが、こんなにも、苦しいなんて、想像していなかった。

 自由って、苦しいものなんだ。生きるって、こんなにも辛いものなんだ…。

 俺は部屋の扉に背中を預けたまま、着替えもせず蹲っていた。

 しばらくしてからようやく顔を上げ、なんとか部屋着の簡単な格好に着替え、明日の昼食であるサンドイッチとアイスでもホットでも飲めるレモネードを冷蔵庫に放り込む。

 今では貴重な紙でできたドラゴン学の教科書だけは丁寧に鞄から取り出し、間違っても傷つけることがないよう、勉強机の上に置いておく。

 受講するなら、と先生が用意してくれた新品だ。傷つけたくない。


(…せめて。今日の授業内容の復習でもして。限りある時間を有効的に)


 心ではそう思うのに、体は動こうとしない。

 電子書籍として教科書が詰め込まれている携帯端末には『葉山かいり』の文字と顔写真、電話番号が表示されている。

 …電話をかけて、どうする。

 聞きたいことがあるわけでもない。話したいことが、特別あるわけでもない。今日だって授業で顔を見た。声を聞いた。

 かけてどうする。

 先生は確かに俺の後見人だけど、あくまであの人は先生であって。俺は生徒であって。その一線は守るべきで。だから。

 とりとめのない思考が堂々巡りを繰り返していると、携帯端末が着信を知らせた。…『葉山かいり』の表示でコール音が鳴っている。なんてタイミングだ。

 おそるおそる通話ボタンを押すと『エディ?』と先生の声がした。

 たったそれだけで、なんだか泣きたくなるくらいに胸がいっぱいになる、この感覚はなんだろう。


「せんせぃ」

『三連休で一日空けておいて欲しい日が…って、どうした? 泣きそう?』

「いえ。ぃえ…だいじょぅぶです」


 拳を握りしめて、手のひらに食い込む爪の痛みで泣きそうな自分をごまかす。「一日、空けておけばいいですか?」『できれば、ね。…本当に大丈夫か?』端末の向こうで、先生はきっと眉尻を下げた困った顔をしているに違いない。

 先生に余計な心配をかけたくない。ただでさえ複雑な立場の人なんだ。俺のせいで、先生の負担を増やしたくない。

 俺は大丈夫ですと空笑いをして、話題を逸らすことにする。


「何をするんですか?」

『ドラゴン学の授業を受け始めたの、エディが一番最近なんだ。みんなに追いつくためにはちょっと補習をした方がいいかなと思って』

「そうですね。わかりました。大丈夫です、行きます」

『じゃあ、明日でもいいかな。寮まで迎えに行くよ』

「えっ」

『え?』

「いや、そこまでしてもらわなくても…一人で行けますから」

『俺が迎えに行くって言ってるんだから、待ってなさい』

「でも…」

『何か不満?』

「いえ、全然。不満とかじゃなくて。面倒を、かけるわけには」

『面倒ではないので心配いらないです。はい、決まり。俺が行く。エディは待ってなさい』

「…はい」


 結局俺が折れて、明日は先生が寮まで迎えに来るということになってしまった。

 なんだか申し訳ない。一人で出歩くことにはまだ慣れないけど、行こうと思えば行けるのに。

 …連休。とくにすることもないし、どうしようかと思っていたところだったけど。先生は貴重な休みの日を俺なんかに割いていいんだろうか。ドラゴン学の教科書で自習だけですませている部分は多いから、先生に教えてもらえるなら、俺にはありがたい話だけど。


『じゃあ明日、十時には着くようにするから。勉強道具一式と、外に出られる格好をしててね』

「わかりました」

『用件はそれだけだよ。エディからは何かある?』

「…いいえ。大丈夫です。明日までに、勉強の疑問点はまとめておきます」

『真面目だなぁ。そこまで気を張らなくていいよ』


 先生の笑った声。不思議と落ち着く声を聞きながら、最後におやすみと挨拶しあって、通話が途切れた。

 我ながら阿呆みたいな顔で端末の画面を眺め続け、そのうち画面が自動的にOFFになった。

 暗くなった画面に映った自分の顔といったらない。

 先生から電話がくるまで感傷に浸って泣きそうになっていたくせに、なんだその顔。自分の顔ながらムカつくぞ。

 携帯端末に罪はないが、これ以上自分の顔を見ていられなくてベッドに放り投げた。「…現金すぎる」さっきまで何もしたくないと思っていたくせに、今は何かしなきゃいられなくなっている。

 とにかく、復習だ。明日先生とスムーズに勉強ができるようにしないと。

 そうと決まれば行動するのみだ。

 椅子に座って教科書を開き、放り投げた端末を持ってきてノートを呼び出す。

 ドラゴン文字はカフェでもさんざんやってきたから後回しだ。まずは俺が習っていない基本的なところで、教科書の文面だけじゃ理解できないところをまとめて、と。


(明日、先生に会える)


 そう意識するとなぜだか胸騒ぎがする。それがなぜかは、わからないけど。


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