凋落のエリュシオンⅡ 龍の別れ詩
アリス・アザレア
プロローグ
誓いの灯火
他の何と引き換えてでも、やらなければならないことがある。
ただそのためだけに、人間最後の都市エリュシオンに従属するドラゴンとなることを決めた俺は、風に暴れて鬱陶しい髪を頭の後ろで一つにくくった。それでもバサバサと風に遊ばれる髪はやはり鬱陶しい。
自分がドラゴンであるから、ということを除いても、吹きつける風を冷たいとは思わなかった。むしろ、目的に一歩近づく段階にきたことに高揚する
ようやくだ。ようやく、一歩、未来に進める。
「本当に行く気?」
耳元でうるさい風に負けないよう張り上げられた声に視線だけやると、日本人らしい黒髪をした男子が一人立っていた。その後ろには、恐れ、という感情を隠すことのできない目に、白衣の上に分厚いコートを着込んだ男女が数人、やはりこちらを見ている。
富士の一件での生き残りの一人、
俺はそのすべてに気づかないフリをすることでそれらの感情を黙殺する。
いちいち答えることが鬱陶しかったし、考えるまでもなく、自分の答えは決まっていた。
まだ朝陽の一片も差し込まない暗い空の中、遥か下方を見下ろす。
ドラゴンである俺は、目を凝らせば、ここからでも地上の様子が薄く見える。
「あの辺りはそれなりの標高があるんだろう」
目を通したタブレットを放り投げて返すと、キャッチした櫛名田弟は浅く頷いた。「オーストリアとイタリアの間にあるブレンナー峠の辺りだから、標高は1370メートルだと思う」タブレットの地図にピンを打たれていた場所はかつてはそういう名前だったらしい。今現在でもかつての姿を留めているのかは、行ってみなければわからない。
「調査を始めるには少し高い気もするが、問題ない。下っていく。100メートル刻みで言われたとおりサンプルも採取してきてやる」
「それはありがたいけど…」
櫛名田弟はまだ何か言いたそうにしていたが、どうせわかりきったことしか言わないだろう。
應の許可は取ったのか。
どちらも否だ。話してもいないし、知りもしない。話せば反対されるとわかっているし、知れば顔を曇らせるだろう話なんてする必要はない。それでもやると俺が決めたんだ。これはそれだけの話だ。
『瘴気の調査』
背に翼などない人間では無謀な、身を滅ぼすだけのその行為を、ドラゴンである俺ならば代行してやることができる。
むしろ、ドラゴンの力を借りなければ、その研究はこれ以上の進展がない段階にきている。
俺の協力がなければ研究は進まない。自力でこの空中都市を出入りすることができ、かつ瘴気に対してもある程度の耐性のある協力者など、ドラゴン以外にありえない。
だから櫛名田弟は白衣とコートを着てそこに立っている。
富士にあった施設から持ち出してきたのだという瘴気の研究資料。それをもとに設立された瘴気の研究機関。頭のいい櫛名田弟は学校には通わず研究者の一員となり、この都市で生きるにふさわしい人間だという評価を得るため、暇があれば研究に取り組み、頭がいいとは言えない姉の分まで努力している。
その指にはまだ躊躇いのようなものが残っていたが、櫛名田弟は結局俺の出立にサインをした。タブレットをしまうとやはり何か言いたそうな顔でこちらを一瞥する。
「気をつけて」
結局、櫛名田弟はそれだけ言って口を閉ざした。
それが研究所を代表しての挨拶となった。
都市の端。ドラゴンの襲撃を警戒し定期的に灯台の光が照らす、見渡す限りの空を覆う防護壁。唯一その守護のない都市の真下に向かって、欄干を乗り越え、俺は落下した。
身を切るような凍える風も、本来の龍の姿になってしまえば、どうということもない。
應に気づかれる前に、葉山に知られる前に、コウにぼやかれる前に、俺は俺の判断で、瘴気の研究に手を貸すために空中都市を発った。
俺には、誰にも言っていない、心の内にだけ秘めている目的が、願いがある。
すべてはそのための過程にすぎない。
人間最後の都市、エリュシオンに従うことも。應のもとでドラゴンとしての力を磨くことも。瘴気の研究に手を貸すこともそうだ。
彼女を取り戻すことだけが、俺のすべてだ。
そのためにはどんな禁忌にも手を染める覚悟はできている。
俺はすでに一度失敗した。
二度目は絶対に許されない。そんな自分は、俺自身が許せない。
そのために力を使う術を学び、身につけ、様々な秘術の記された書物に目を通し、すべてを血肉としてこの身に蓄えたのだ。
学ぶことに時間はかけた。
あとは実践していくだけだ。
ミドリを見つけて、取り戻すだけだ。
(絶対に、取り戻す)
それだけが、俺の生きる意味。
セイ、と笑って手を差し伸べる姿が鮮明すぎて、それなのに透明すぎて、ずっと、胸が痛い。
どんなに想い出を辿っても、記録映像を見返しても、ミドリの姿は少しずつ遠くなっている。
ほんの少しでも彼女が遠ざかることが、俺にはとても耐え難い。
静かに痛む胸を抱えながら、それなりの時間飛行を続けて、かつてブレンナー峠と呼ばれた場所に下り立った。
思えば、久しぶりの地上だ。砂の感触が懐かしい。
俺はすぐに人の姿に戻り、長い髪を背中に払った。
こっちの姿の方が落ち着く。動き回るのにドラゴンの姿は小回りがきかなくて面倒だ。やはりこの姿で行こう。
暗闇に沈んだままの景色を見渡して、鞄から特殊な素材でできているのだというカプセルを取り出し、しゃがみ込む。土と砂、雑草をそれぞれひとつまみずつ、仕切りのあるカプセルの中に入れて蓋をする。
鞄につけられている高度計に表示される数字は、櫛名田弟が言っていたとおり、ブレンナー峠の標高1370メートル。
高度計とカプセルを専用のコードで繋ぐと、カプセルの表面に『1370m』の表示が出た。高度計とカプセルをリンクさせることで、客観的にも、この採取物が1370メートル地点のものだ、という証明になるらしい。
人間は基本的にドラゴンを信用していない。すべて疑ってかかっている。面倒だが、これは必要な作業だ。
カプセルと高度計をポケットに入れ、改めて辺りを見回す。
…動物の気配はない。人の気配も。ドラゴンの気配も。
この辺りからは生きる者の気というのが感じられない。この標高なら瘴気はまだ届いていないだろうって話だったが…。
鞄を背負い直して少し歩いてみると、アウトレットセンターと書いてある赤い建物を発見した。
そこでも何者の気配もしないまま、ほぼすべてのものが空になってゴミだけが散乱している建物内を歩き、ショーウィンドウのガラスが散らばっている床を蹴飛ばす。
商品がなくなっているということは、ここに誰かが来たことは確かだろう。エリュシオンへ行くことの叶わなかった人間達が、少しでも生き延びるため、服から食料まですべて強奪していったのだ。
建物の中央辺りまできて、足を止める。
そこはちょっとしたフードコートと小さな子供の遊び場が一体になった場所だった。
明かりもなくがらんどうとした寒い空間に、子供の遊び場に、人の形がたくさん転がっている。どれも動かず、騒がず、随分前に息絶えたものばかりで、皆一様に痩せ細っていた。
本来なら和気あいあいとした憩いの場であるはずのその場所に、物言わぬ死体が静かに転がっている。
体力のない子供と老人は、生き残りをかけたサバイバル生活では足手まといだ。おそらくここに捨て置かれたのだろう。このアウトレットセンター内に食べる物がなくなり、ここで緩やかに死んでいった…。
首から提げたカメラを掴んで、迷ったが、俺は一枚だけその光景を写真に残した。
このカメラは『地上の様子を知るため撮影してきてほしい』と渡されたものだ。夜では大して何も映らないだろうと今まで一枚も撮ってこなかったんだが…最初の一枚がこれか。
「……これが現実だ」
噛みしめるように、言い聞かせるように、そう口にする。
エリュシオンにいれば忘れそうになる、これが地上の現実。
標高が低くなればなるほど、瘴気の影響で、ここより酷い景色に腐るほど出会うことになるだろう。わかってるさ。それでもやると決めたのは俺だ。
一瞬風に吹かれて揺らいだ心の湖面も、ミドリのことを思い出せばすぐに静かになった。
透明な笑顔。
すべては、彼女のため。
どんな現実にも耐えてみせる。どんなことでもやってみせる。人に顎で使われることも、瘴気の中を歩くことも、死体を前に写真を撮ることも、全部やってやる。
ミドリさえ取り戻せたなら、俺は他には何も望まないのだから。望むことなど、もうそれしかないのだから…。
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