黒瞳を染む
幾瀬紗奈
黒瞳を染む
人間を辞めたい。
人間誰しも一度くらいは、そんなことを思ったことがあるのではないだろうか。
弥生は、手に持った書類を眺めながら、道を歩いていた。森に近い田舎道は、舗装されておらず、足を進める度に砂利の音がする。空は、彼女の気持ちを反映させたかのように、どんより曇っていた。冷たい秋風に、ひだのある制服のスカートが揺れる。
この間受けた模試の結果が、悪かった。志望大学の判定は、人に言えないくらい酷い。そもそも、自分の成績に対して、志望大学のレベルが高すぎるのだ。それでもその大学を志望しているのは、弥生の意思ではなく、家で彼女の帰りを待っているだろう親の意思だった。
こんな成績だと、また叱られる。学校で担任教師に、お前には無理だと散々貶されたのに、また家でもチクチク言われるのだろう。目に見える数時間後の未来に嫌気が差して、友人に八つ当たりまでしてしまった。そこから喧嘩になってしまったので、また仲直りをしなくてはならない。
鬱屈した感情が、弥生の中で渦巻く。何もかもが面倒くさい。一人で苛々していた彼女は、ふと頬にあたった冷たい雫に気づき、空を仰いだ。今にも落ちてきそうな分厚い雲から、雨粒が降ってくる。
「え、嘘っ……」
思わず独り言が飛び出た。天気予報では、曇りで雨は降らないだろうと言っていたため、傘を持っていない。周りは田と森に挟まれていて、雨宿りできるようなところはなかった。
雨は、どんどん激しくなっていく。家まではまだ距離がある弥生は、おろおろしていたが、ハッと近くに小さな神社があることを思い出した。頭上に手をかざして、彼女は駆け出す。数十メートル行った先に石段を見つけ、登っていく。
毎日通る道の側にあるにも関わらず、一度も来たことがなかった神社は、不気味なほどに静かだった。人の気配はない。石畳は落ち葉に覆われており、境内にある灯籠はくすんでいる。
屋根の下に入った弥生は、ほっと息をついた。持っていた鞄を足元に置いて、体についた雫を払う。筋になって見える土砂降りの雨を、眺める。やみそうにないと思った弥生は、社殿入口の階段に腰掛けた。
ぼんやりと、誰もいない境内を見つめる。このまま雨が振り続けたら、家に帰らなくて済むのではないか、という思いが首をもたげた。膝を抱えた弥生は、顔を膝頭に押し付けて、重たいため息をつく。
そのとき、
「ただでさえ雨が鬱陶しいっていうのに、隣で辛気臭い顔しないでくれるかしら」
不機嫌な様子を隠そうともしない声に、弥生は飛び上がった。顔を上げて右隣を見ると、いつの間にやら一人の女性が座っている。赤を基調とした、艶やかな文様の描かれた着物が、長い黒髪に映えていた。その身なりは無論人目を引くが、それよりも、弥生は彼女の顔立ちを見て、驚きに目を見開いた。
「え……」
掠れた声が漏れる。その小さな声に、弥生と同様境内を眺めていた女性は、弥生に目を向けた。視線が交わる。そして、女性は微かに目を瞠った。
「……貴方、私が見えるの?」
「同じ……顔……」
首を傾げる女性に答えず、弥生は呆然と呟く。
同じ顔。ただし、正確には異なる。黒瞳の弥生とは違って、彼女は金色の瞳をしているし、顔立ちも弥生より大人びていた。しかし、それ以外のパーツは、まるで機械で作られたように一寸も違わない。
まじまじと見つめ合う二人のうち、先に口を開いたのは、女性の方だった。
「同じ顔で呆けた顔をされると、気持ち悪いわね。……まあ、私の方が断然美人だけど」
ふっと弥生を嘲笑うように口角を上げて笑んだ女性は、さらりと長い黒髪を払う。金色の瞳が、弥生を値踏みするように細められた。
「そう……貴方、私が見えるのね」
その妖しげな雰囲気に、ぞくりと肌が粟立つ。
見える、とはどういうことなのか。言い知れぬ不安が胸を覆い、弥生はそろりとお尻をずらして、彼女から距離を取ろうとした。
そういえば、彼女が隣にいるのに気づいたとき、気配を感じなかったことを思い出す。神社という場所、そして得体の知れない女性。その二つを結びつけた弥生は、まさか……と浮かんだ可能性を呟いた。
「妖怪……物の怪…………」
「失礼ね」
震える弥生に答えた女性は、辛辣な声音で否定する。
「私は桐花。運を司る神よ。最近この神社に住み着いてるの。数千年生きてきたけど……神である私を見ることができる人間は、初めてだわ」
「私は……弥生」
名乗ると、桐花は「そう」と優しく微笑んだ。同じ顔なのに、その笑みが酷く艶美なものに見える。神という存在ゆえの妖しさなのだろうか、というよりも、本当に彼女は神様なのだろうか、などと勘繰っていると、「それで?」と何の脈絡もなく尋ねられた。
「こんな雨の中、湿った空気よりも重たいため息をついてたのは、何故なの?」
「え?」
神との邂逅という現実離れした状況で、忘れかけていた悩みを思い出さされた弥生は、言葉に詰まる。
神にとっては小さいだろう自分の悩みを吐き出すことが恥ずかしく、そもそも自称神なだけで、得体の知れないことに変わりはない彼女に相談するのも憚られた。黙りこくる弥生を、強い雨音が急かす。
ちらりと隣にいる桐花を見ると、彼女は愉しげに弥生を見ていた。神の戯れ、ってことか、と仕方なく彼女は口を開く。
「人間を辞めたいの」
ピクリ、と桐花は身じろぎをした。光を放っているようなその瞳に、一瞬影が走ったように見える。しかし、弥生は瞬間的な彼女の異変に気づかず、続けた。親のこと、教師のこと、友人のこと。
最近あった不安不満悩みを打ち明ける彼女に、桐花は相槌を打ちながら耳を傾けていた。
そして、その全ての吐露を聞き終えてから、言い放つ。
「小さいわね、貴方」
ばっさりと切り捨てられて、弥生はむっと頬を膨らませた。
「私も神としての仕事をしてるけど、そんな悩み、小さすぎるわ。もっとしたたかに生きなさいよ」
「な……それができないから、困ってるのに……」
「いいじゃない、好きにやれば。私も仕事でヘマして叱られることがあるけど、上官には年上の男が多いし、ちょっとたらし込めば……」
「え」
「っと、これ以上は秘密よ。まあ、私は基本仕事のできる神だし、この美貌があるから大抵のことは上手くいくのよねぇ。そこら辺の人間と違って」
「悩みがなさそうでいいですねー」
今にも高笑いしそうな桐花に、弥生は棒読みで返す。自分の顔で高飛車な発言をしないでほしい。悩んでうじうじ苛々している自分と、同じ顔を持つのに性格が正反対そうな彼女を比べると、虚しくなってくる。
顰め面で降り注ぐ雨に視線を戻した弥生を見て、桐花は小さく笑った。
「私の仕事は、運を人間に散りばめることよ。平等にしなければならないけど、暗い表情をした人間より、明るい快活な人間に注ぎたくなるの。わかる?」
「わからない」
拗ねたように即答する弥生に向かって肩を竦めた桐花は、自分で答えを述べる。
「鬱々としてるんじゃなくて、悩みなんてどうにかなるわ! って前向きに考えなさい。笑う門には福が来るのよ」
「本当に?」
「えぇ。だって、私の友人に福の神がいるけど、彼女も前向きな人に福を与えたくなるって言ってたわ」
じゃあ、明るくするから、私にも福をくれたらいいのに……とぼやく弥生は、話半分に聞いていた。「傲慢なこと言わないの。というより、正直言って、自分と同じ顔でそんな暗い顔されると腹が立ってくるのよ」と本音を言った彼女に、笑う。
神社に来る前よりも、少しだけ気持ちが軽くなった弥生は、桐花に尋ねた。
「運の神がいて、福の神がいて……他にもいるの?」
「たくさんいるわ。貴方たちが、八百万というようにね」
「神様も、仕事大変なの?」
「私はそんなことないけど、豊穣の神は時期によって忙しそうねぇ。でも、彼は秋に人間から感謝を受けて褒美を貰ってるから、羨ましいわ」
「あー、秋祭りかぁ」
「私なんて、都合のいいときだけ、ありがとうって言われるだけよ。でも、ずっと幸運な人間から運を奪って、不運な人間に渡して、幸運だった人間が地獄に落とされるのを見るのは、楽しいわ」
神が地獄などと言っていいのだろうか、と疑問を持ちながら、神々の話を聞く。
天上に住まう神々の御殿が最近古くなって、建て替えてほしいとか、知り合いの地の神が人間と恋仲になって上官に叱られていたとか、壮大そうでどこか小さな愚痴や噂話は、地上で暮らす人間と大差ないようだった。
「一人の神は、一つのものを司ってるの?」
「いいえ、表裏一体、一つの正と、一つの負の二つを司ってるわ」
「じゃあ、桐花も?」
「私は、運を司っているのが正、そして、負は……」
言いかけた彼女は、口を噤む。「また今度教えてあげるわ」と告げられた弥生は、次があるのだろうか? と思いつつ、曖昧に頷いた。
徐々に小雨になっていった雨がやんだのは、日が暮れた頃だった。灯籠の明かりが灯り、暗い境内を赤く照らす。桐花との話も一区切りつき、弥生は帰ろうと、足元に置いていた鞄を手にとった。立ち上がる彼女に合わせて腰を上げた桐花に、礼を言う。
「ありがとう。桐花と話せて、楽しかった。悩まずに、とりあえず親に自分の気持ちを言ってみるね」
「頑張りなさい」
桐花は、腰をかがめて傍においていた錫杖のような杖を取った。身の丈ほどの長さである杖は、美麗な装飾がなされている。持ち主である桐花の瞳と同じように、金色に輝いていた。
彼女が階段をおりて地に足をつけると、ぶわりと強い風が吹く。赤い着物の裾が翻った。落ち葉が舞い上がる。
巻き起こった風に、思わず顔を手で覆った弥生を、微かに首だけで振り向いた彼女は、「また会いましょう、弥生」と、宵闇に溶けるように、消えた。
「……本当に、神様だったんだ……」
残された弥生は、呆然と呟く。夜風が頬を撫で、落ち葉が小さな音を立てた。
夢でも見たかのような心地で、彼女は家に向かって暗い夜道を歩き始めた。
◇◆◇
数日後、両親と話をつけて、志望大学を弥生自身が望むところに変更し、友人とも仲直りができた弥生は、すっきりとした気分で帰路についた。澄んだ空は、青と橙がグラデーションになっていて、夕の到来を示している。
神社がある階段の前を通りがかり、ふとこの間会った桐花のことを思い出した。彼女は、いるのだろうか。悩み事が解決したと報告したくなった彼女は、石段に足を掛けた。
境内に辿り着き、社殿を見ると、桐花がこの間と同じように階段に腰掛けている。
「桐花!」
弾んだ声で呼ぶと、彼女は杖を手にとって立ち上がった。
「弥生……また来たのね」
「あのね、前に相談したことが解決したの。桐花のおかげだよ」
「そう」
駆け寄った弥生は、彼女の顔が無表情であることに気づく。
「どうし……」
どうしたの、と言い終える前に、杖の頭部で胸を突かれた。それほど強い突かれ方ではなかったにも関わらず、ふらりとバランスを崩した弥生は、尻餅をつく。わけがわからず、桐花を見上げた彼女は、目を見開いた。
陽光に、鋼が煌めく。
「え……」
桐花が持っていた杖が、刀に変化していた。
「弥生」と静かな声で呼ばれるが、返事ができない。逃げなければ、と本能が危険信号を発するが、弥生の体は動かなかった。
「私の正は、運の神。そう言ったわよね」
金色の瞳を細めた桐花の唇が、妖艶な弧を描く。
「私の負を教えてあげるわ」
高慢の神。
耳元で囁かれると同時に、刃が弥生の首筋を狙う。すんでのところで、寝転がるように上半身を倒した彼女は、逃げ遅れた自分の髪が斬られるのを感じた。汚れた石畳の上に仰向けになった彼女は、落ち葉まみれになりながら、地面の上を転がって距離を取る。無様によろけながら立ち上がり、獲物を逃して残念そうな桐花を見た。
「何……どうして……何するの!?」
混乱する頭で、問いかける。刀を構えたまま近づいてくる桐花から目を離さずに、弥生はじりじりと後退る。地面を転がったときについた足の擦り傷が、ずきん、と痛んだ。
「高慢。神である私は、貴方よりもずっと高潔な存在なの。美しく、気高いのよ」
「それと……何の関係が……」
「だから、そんな私が、貴方みたいな人間に神を乗っ取られることなんて、あってはならないの」
乗っ取る?
唐突すぎる言葉に、弥生は眉根を寄せる。「私は、神を乗っ取ろうなんて……」と否定しようとするが、それを遮るようにして桐花は続けた。
「貴方の意思は関係ない。私は、貴方の存在自体に危惧を抱いてるのよ。……私たち神の間で、昔から言い伝えられていることがあるの」
同じ顔をした人間に会ったら、気をつけろ。神を乗っ取られるぞ。
「人間風情が、高尚な神を乗っ取ろうなんて、おこがましいにも程があるわ。そんなことあり得ない。そう思ってた……。でも、数百年前、友人だった美の神が……乗っ取られたの」
吐き出すように言った彼女の顔は、苦々しげだった。「同じ顔を持つという理由で親しかった人間に裏切られて、乗っ取られて……彼女は消えたわ。私は、ああはなりたくない」と告げた後、彼女は笑みを浮かべる。
「貴方と会ったとき、ぞっとした。それと同時に、ほっとしたの。だって、乗っ取られる前に、貴方を殺すことができるんだから」
桐花の姿が消え、次の瞬間、彼女は弥生の眼前に来ていた。細身の刀が振られる。身を反らして躱した弥生は、駆けて再び桐花と距離を取った。
二度も彼女の攻撃を避けられたのは、奇跡だ。否、避けきれていない。切り裂かれた制服のスカートが、風に揺れる。
桐花の話は、にわかには信じがたかった。そもそも、人間がどうやって神を乗っ取るというのか。それに、弥生には桐花を乗っ取ろうという考えなど、微塵もない。
話せばわかる、そう思いたかったが、今の桐花が話を聞いてくれるようには思えなかった。
逃げるしかない。脱兎のごとく森に駆け込んだ弥生を、「待ちなさい」という声が追う。木々の間を擦り抜けるように駆けていくが、森の中を走り慣れていない弥生は、木の根に躓き、枝に頬を引っ掛かれ、足がもつれそうになった。
ちらちらと後ろを振り返る目の端に、赤が見える度、桐花が追ってきていると感じる。
人間が神に太刀打ちできるはずがない。人がいる町に出たら、あるいは――と、方向がわからない中、とにかく走る。
そのとき、弥生の体を熱いものが貫いた。
「っあ……」
俯いて、自分の腹の辺りを見る。赤くぬれた切っ先が、自分の腹から飛び出ていた。「神から逃げられると思ってるの?」という冷たい声が、耳の奥に響く。
刀を引き抜かれた弥生は、地面に膝をついた。白いセーラー服が、みるみるうちに赤く染まっていく。気を失いそうな、いや、失ってしまった方がマシだと思うような鋭い痛みが、熱さとともに彼女を襲った。
傷口をおさえると、今まで触れたことのないようなどろっとした感触がする。脂汗を滲ませながら、彼女は桐花を振り返った。
金色の瞳が、冷たい色を帯びている。艶やかな黒髪は、駆けたせいなのか、微かに乱れていた。
同じ顔なのに、ここまで違うだろうか。痛みと恐怖で涙を浮かべている自分と、麗しい神気を纏って冷たい表情をしている桐花と、一体何が違うのか。
神と人間。存在の違いか。
「桐花……。っ!」
きっと殺される。どう足掻いても殺される。人間が神に勝てるはずがない。
その気になれば、きっと神なんて人間をすぐに滅ぼせるのだから。
そのネガティブな思考が、弥生に最後の勇気を与えた。どうせ殺されるのなら、最期まで足掻けばいいんだ。桐花に悩みを聞いてもらって、折角その悩みが解決して、人間辞めようなんて思わないようになったのに、ここで殺されるなんて……嫌だ。
震える足を踏ん張って立ち上がり、桐花に体当たりする。
弥生はもう動けないだろうと油断していた彼女は、背中から倒れ込んだ。同様に、桐花に覆いかぶさるように倒れ込んだ弥生は、その衝撃で一際酷く痛んだ傷に、声にならない声をあげる。
そのとき、二人の視線が同時に、側にある木の根元に飛んだ。倒れた拍子に、桐花の手から弾け飛んだ刀が、転がっている。
「しまった……!」
桐花が短い悲鳴をあげた。二人の手が、転がった刀身に伸びる。弥生の下敷きになっていた桐花より、弥生の方が早かった。
刀の柄を握った弥生は、無我夢中で刀を振りかざす。刀の扱い方なんて知らない。上半身を起こしかけていた桐花の瞳に、恐怖が宿る。
ねぇ……神なんだから、大丈夫なんでしょう?
「っああああ」
桐花の肩めがけて、刀を振り下ろす。
袈裟斬りを受けた桐花の体は、キィン、と耳の奥に残る金属音と共に、ヒビ割れて、散った。金色の欠片が、飛散する。
肩で息をする弥生は、膝から崩れ落ちて、消えた桐花に目を瞬かせた。
逃げたのか、倒してしまったのか。……殺して、しまった?
降り注いでくる欠片を仰ぐ。その瞬間、両目に鋭い痛みが走った。
「っつ──」
欠片が目に入ったのか、と慌てるが、痛みは瞬間的なもので、目を擦った弥生は、静かになった辺りを見渡す。そして、自分の体に痛みがないことに気づいた。
腹の傷と制服の裂け目は消えており、体中についた細かな傷も、初めからなかったかのように癒えている。桐花が消えたから、なくなったのだろうか。そう思いながら、手にしている刀を見つめた。
これは、桐花のものだ。どうすればいいんだろう……と思案していると、突然刀は杖に変化する。どうしようもなく、その杖を握り締めたまま、弥生は荒れた息を整えた。
先程の戦いを思い返す。殺されなくてよかった、と安堵すると同時に、最後の瞬間、桐花の瞳に走った恐怖の色が、忘れられなかった。
戦いなんて学んだことのない弥生が思うのも変な話だが、きっと桐花は戦い慣れしていなかったのだ。
「ああ……運が良かった」
ぽつりと呟く。立ち上がった弥生は、神社に戻ろうと歩き出す。どこをどう走ってきたのか覚えていなかったが、勘を頼りに歩いて行くと、境内が見えた。ほっとして、森を抜け、境内に足を踏み入れようとしたとき、ふっと周りが闇に包まれる。
「え?」
闇に包まれた空間で、巨大な木造の門扉が目の前に現れる。その両脇に控える門番のような人物は、平安時代の狩衣のような服を来て、冠から垂れた布で顔を隠していた。
非現実的な状況に、え? え……? とたじろぐ弥生は、手に持った杖をぎゅっと握り締める。
「おかえりなさいませ。運と高慢を司る神、弥生殿」
一糸乱れぬ声で言われて、困惑した。「運……それは……桐花じゃないの?」と恐々尋ねるが、「いいえ」と否定される。
一人の門番が近づいてきて、どこからともなく丸い鏡を取り出した。すっと差し出されて、覗き込んだ弥生は、息を呑む。
桐花が、そこにいた。
「違う……これは……私?」
弥生とそっくりの顔をした鏡に映っている人物は、金色の瞳をしていた。先程、桐花の欠片が入ったに違いない。
「で、でも、私は人間で、神様なんかじゃ……」
「いいえ、貴方は神。桐花殿の代わりとなった、神なのです」
断言された弥生の前で、荘厳な扉が開かれる。闇に包まれたこちら側とは異なり、向こう側は明るい陽光に照らされていて、奥には、寝殿造りの御殿が見えた。
そこで、弥生はようやく気づいた。
自分は、桐花を殺したのだ、と。桐花という神を、乗っ取ってしまったのだ、と。
「天上へようこそ、弥生殿」
彼女を促す門番の厳かな声が、闇に響いた。
了
黒瞳を染む 幾瀬紗奈 @sana37sn
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