斜陽の苦悩

鹽夜亮

斜陽の苦悩

 勤労は、人生を豊かにするためにあると誰かが言っていた。私は、暮れかけた西日を丸めた背に受けながら、その言葉を噛み砕いていた。心身に異常をきたしてから、既に一週間近くが過ぎていた。

 生活とは、残酷なものである。そう厭世主義に意味も無く蠢いてみたくもなる。生活をするために、時間を削りながら我々は金を稼ぐ。生活に必要な金を稼ぐために、我々は志向する自由な生活を犠牲にする。なんと滑稽であろう。なんと残酷で、馬鹿らしく、そして無益であろう…。そして、それを粛々とこなす事のできる人間の、なんと強いことであろう。

 すべきことは何か、なすべきことは何かと問われ、明瞭は解答を担ぎだせる人間はいない。少なくとも、私の知る上では。目の前のコーヒーは香しく、煮えたぎるように熱く、書類で乱雑としてテーブルの上に静かに佇んでいる。彼は、私に飲み込まれ、取り込まれ、いずれ知らぬうちに排泄される。彼のなすべきことは何だったのだろう、と私は首を傾げた。もしかすると、苦悩に身をやつす哀れな男にわずかばかりのカフェインを供給するためだったのかもしれない。もしそうだとすれば、彼は実に忠実に、その任を全うしたと言えるだろう。

 テーブルの上の、私が職場で必ず身につける安物の腕時計に目を向ける。これは安物の上、さらに貰い物であったが、私はシンプルなそれを気に入っている。彼は今も静かに時を刻んでいる。本来居るべき持ち主の腕ではなく、早くも酸化しはじめたコーヒーの隣で。私の労働時間を告げ、時に残酷にその残り時間を示し、時に救い主のように甘い夢をみさせる彼は、今も淡々と時を刻んでいる。彼は彼の命が尽きるまでその任を全うするだろう。たとえ、彼の唯一の存在意義である時の経過を、彼自身の持ち主が望まぬとも。

 私の両耳を塞ぐヘッドフォンからは、ギターの轟音と共にどこかの誰かの咆哮が響いている。

「死ぬ事は恐ろしい。明日を真っ当に生きることの次に恐ろしい。」

 同意を禁じ得ない。差し支えなければ膿んだ声帯から万歳三唱さえ贈ろう。

 日が沈む。また一日が終わる。明日が訪れる。時計は音をたてながら、その病的なまでに神経質に尖った秒針を、冷酷に私の心臓へと進めていく。

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斜陽の苦悩 鹽夜亮 @yuu1201

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