月下美人が散る

馬田ふらい

月下美人が散る

 夏の暑さもひと段落し、風も涼しくなってきた頃、風の噂で、“あの人”がまたここに帰って来ていると耳にしました。

そして今日、それは確信に変わったのです。


・・・・・


 “あの人”は私の中学の同級生でして、明るい性格ですが軽薄な感じではなく、根っこでは誠実で不器用なところもある、素敵な方でした。友達づくりの苦手な私に、初めてできた気の置けない相手でもあります。彼は休み時間や放課後に時々私に話しかけてきてくれました。私が彼に惚れるのは時間の問題であったのだと思います。


 そうして私の中学生活の半分ほどを彼への想いを発散できず、心のうちでぶくぶくと肥大させることに浪費しました。お恥ずかしい話ですが、私は彼に自発的に声をかけに行く勇気がなく、二年とも同じクラスだった幸福に甘んじてただ教室で今日は来るかな、来ないかな、とただただ祈るばかりでございました。


 そんなある時、休日に彼の方から私を呼び出すことがありました。率直に言って私は気乗りいたしませんでした。その神妙な口ぶりから私は話が深刻であることを思わざるをえなかった、端的に言うと、どこかの誰かと恋仲になったからもう私とは話せない、といったようなことを言い渡されると思ったからであります。


 当日、私たちは波の押し寄せる砂浜で待ち合わせました。夏の痛い日差しを浴びて、彼の顔は心なしか鉄が灼けているように見えました。“あの人”は出会い頭に、幽霊を信じるか、と問うてきました。あまりに予想外の質問でしたので、その本意などは全く考えず単に、いいえ、とだけ答えました。彼はなぜ信じないのか、と問いかけました。私は、眼に見えないものだから、と返します。すると彼は語調を強めて、眼に見えなくたって在るものはあるのだ、幽霊はいるはずだし、恋の心だって存在の否定はできないのだ、と主張しました。突然話が飛躍するのは彼が緊張したときによくあることでした。それから彼は、彼の恋愛観をつらつらと述べ始めましたが、失礼ながら内容なんて記憶の彼方でございます。

 というのも、私にとって重要だったのは、最後に語られた私への好意のみだったからです。全くの予想外の話で、彼の顔の火照っている理由をこのとき初めて知ったのです。

 私はといえば、願ってもないことで、当然一も二もなく承諾いたしました。

 かくして私たちは恋人になりました。


 その後、関係は円満で、いささか人に申し上げるのが気恥ずかしいような、自分の中に匿っておきたいような、ほの甘い幸せをしっかり堪能いたしました。私も彼もこのまま永遠に続くものだと思っておりました。

 しかし世界はそう都合よく回ってくれないのであります。

彼は叶えたい夢があるとのことで、県外の高校へ進学しました。他方、私も彼の跡を追うつもりでしたが学費や一人暮らしの点で頑固な親を説得することができず、この街に残りました。


それでもまだ、高校に上がってすぐの頃は彼はお手紙を寄越してくれたものでした。しかし、高校二年になろうとしていたとき、確か夏祭りの日でした、私は交通事故に遭ったのです。私はずっと意識がなかったので自覚はないのですが、どうやら相当ひどい怪我だったようです。ただくらい記憶の奥底に、両親や親戚がむせび泣く姿、普段よりわずかに高くなった枕、花瓶に広がる百合の花といったような、雑多で掠れたフイルムが幼稚園児のおもちゃ箱周辺のように乱雑に転がっているのでした。

そんな中でも私は、自分の身の上よりも彼からの報せがないのが気になって仕方がありませんでした。長い時間昏睡状態でいましたので、返事ができず、腹を立ててしまったのでしょうか。申し訳なく思いながら、しかし私は結局のところ自分からお手紙を差し出すことはなかったのです。


それからもう何十年経ったのでしょうか、私はまだこの街に残っておりました。“あの人”が帰ってくると信じて。


・・・・・


ですから、私が夏祭りで屋台の毒々しい灯りに照らされる“あの人”を見かけたとき、思わず胸が跳ね上がる、懐かしい感覚を覚えました。そして、今度は私から彼に声をかけました。よく思えば初めてのことでした。仰天した彼の顔に私は少し意地悪な満足感を得ました。


彼は白地に水玉が散りばめられた浴衣姿で、白い大型の犬を連れて歩いていました。どうも旅行ではなく転勤でこちらにやってきたようです。


彼は元々この騒乱にノスタルジーを感じて足を踏み入れただけらしく、出店にはそれほど興味を示しませんでした。その代わりに私たちは、神社で行われている神事や昔のまま残っているところ、あるいは変貌したところを探して周辺をふらふら歩きまわりました。久々の再会にもかかわらず彼はかつてのように気さくで、私は少し安堵いたしました。


祭りの雑踏を分けて進む私たちの足は、やがて海浜にたどり着きました。

私たちの付き合い始めた、思い出の地でもあります。

大きな満月が夜空に輝いておりますが、あいにくどこかしらの部分が吹き流される薄雲に隠れてはっきりと輪郭は見えてきません。

私たちはただ黙って歩き続けます。会話がなくとも不思議といやな感じはしません。むしろのどかで心地よいのです。ときどき浜に優しく乗り上げる小波の音も、ししおどしのように作用して、かえって世界を静謐さで満たします。

世界。今この世界にあるのは、美しい風景と私たちだけ。なんとも夢のような時間であります。


彼の横顔をうっとりと眺めながら歩いていますと、穏やかな空気を破壊して、突然彼は「綺麗だな」と発して、窓の灯りがたくさんぽつぽつと漏れる市街の方を指差しました。続けて「対岸のいっぱいの暖かな光の中に幾つもの家庭があって、それぞれの幸せを紡いでいるんだぜ」と言いました。同時に月が薄雲のぽっかり開けた部分に嵌って、力強い月華が水面に映し出され、彼の薬指のリングも嫌味に輝きを放ちます。


私ははっと気づきました。

彼は彼の幸せをもう掴まえているのだ、と。そして、私はもうこの世にはいられないのだ、この初恋の呪縛から、解き放たれるべきときが来たのだ、と。

突きつけられた真実は、心苦しい現実のはずなのに、不思議と気分は穏やかなままで、私の心に冷たく浸透してきました。内心ではいつかこの時が来ることは薄々感じていたからかもしれません。

私はだんだんと透明度を増し、身体を形成していた情念の欠片がぽろぽろと剥がれて月の光に混じっていきます。


ああ、お月様。


あなたが再び薄雲に隠れるまでは、あなたが“あの人”を煌々と皮肉混じりに照らし出す間は、どうかこの世界に、この恋に、心酔させてくださいな。


・・・・・


空が翳り、犬が吠えた。

振り返ると、紫の波紋模様の浴衣姿の、亡くした彼女に似ていた女性は跡形もなく消えていた。

そして、どうしてだろう。俺はそのことに対して、彼女の事故以来心にぽっかり空いた隙間が埋まったような、安堵にも似た感覚を覚えたのだった。

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月下美人が散る 馬田ふらい @marghery

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