第4話 墓碑銘ー月のエピグラフ
童話「釘」
「古びた机から取れかかって、今にも抜いて捨てられそうな一本の釘がありました。
しかし、机の持ち主の青年は、釘が傾いてぐらぐらしてて危ないといっても、それを抜いたりすることはありませんでした。むしろ、官吏になって初めて買ったこの売れ残りの机に愛着があったので、取れかかった釘も思い出のひとつとして、大切にしていました。
しかし、少しさびの浮き出たその釘に指をひっかけた青年は、傷から菌が入って思わぬ病にかかってしまいました。
あれほど元気に机に向かって作業をしていた青年が、床について、高熱にあえぐ姿を見て、釘はとても悲しく、傾いたからだをさらにかしげるのでした。
「釘くんよ」
机が気の毒そうに言いました。
「気持ちはわかるが、そんなにからだを浮かせていては、きみ、床に落っこちてしまうよ。そうすりゃ、あの管理人のばあさんがごみといっしょに掃き出してしまう。もう少し落ち着くんだね」
「だってね、机のじいさま」
釘はもだえながらつぶやきます。
「私のせいであの子は病気になってしまったんじゃないか。気になるどころか、からだが破裂しそうさ。ああ、じいさまよ、あの青年をなんとか元気にしてあげることはできないかね」
「そりゃあできるけれども」
年をとった机は気の進まない様子でどもります。
「釘には、不思議なちからがあるからね。からだから抜け出そうな、人間の魂をひっかけてこの世にとどめる力があるのさ。ただ、新しい釘はだめだ。お前さんよりもっとさびた釘がよいのだ。さびで、魂がうまくひっかかるのだね」
「やれ、ありがたい」
釘は嬉しそうに、またからだを揺らしました。
「私がもっとさびればよいのだから」
「しかしね…」
机は青年と釘を交互に思いやりながら虫のようにかすかな声でつぶやきました。
「どちらも幸せにはならないかもしれないよ…」
「かまうものですか。あの青年が元気になってくれることが幸せなのです」
釘は、ぐっとからだを張って、さびやすいように空気に身をさらしました。
釘がさびはじめて一週間、青年は動けるまでに回復しました。釘は、赤茶けて土のような色になっていました。そして、からだを空気にさらそうとぐっと伸ばしたせいで、もう一押しするだけで抜けてしまうくらいにぐらぐら揺れていました。
「なんだい、このみっともない釘は」
久しぶりに机に向かった青年が、さびた釘に気がつきました。やがて彼の病み上がりの顔は、青白さに怒りの赤みが増して紫色に変わりました。
「こんな汚い釘のせいで、俺は仕事にも出かけられないからだになったんだ。書類も貯まっているだろう。減給されるかもしれない。畜生め」
怒りにまかせて、青年は足で釘を蹴り上げると、釘は、ぽーんとベッドの側に音もなく落ちました。悪態をつく彼が、ぐりぐりと踏みにじると、釘のさびや汚れはすっかり取れて、買ったときよりもきれいになりました。それから、道端のくずのように、部屋の片隅に釘を蹴りやった青年は、すっきりしたように汗をぬぐって、また床につきました。
その夜、青年の容態は急変し、田舎からやっと上京した親戚が、開かないドアを破って入ると、変わり果てた彼の魂のぬけがらが、ベッドの上に横たわっていました。
貧しい官吏だった青年にはこれといって財産もなく、遠い血縁にあたる親戚は、出費がかさむのが嫌さに、街でいちばん安い木材で、小柄な青年のからだを横たえる、棺を作り、ごく簡素な弔いをして、ちいさな墓地に葬ったあと、わずかな家具やあの机を売りはらった金をにぎって帰路につきました。礼金が支払われなかったために、墓掘人夫が適当に埋葬した青年の墓は、どこにあるのかすらわかりません。
ただ、新しい釘をも惜しんだ親戚によって、部屋に転がっていた、そう、あの青年が蹴り捨てたあの釘が棺に打ちつけられたということです。
(了)
*****
(あとがき)
親子は他人の始まり。誰にも本名を明かさず、「童話」を残して孤独な自死を選んだ「ウェズ」の運命を、裕福に暮らすという母親は知らないままでしょう。
彼女の生きた証を知るのは、作者である私と、この作品を読んでくださったあなただけ。
月を孕む女 猫野みずき @nekono-mizuki
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