第3話 「月の香り」をもう一度

「ウェズさん、ご指名です」

 メールで童話を書こうとしていると、待機部屋に店長がやってきた。

「どなた? 」

「新規の方。かなり裕福そうですよ」

 店長はほくほくしていた。これは、かなり上客なのだろう。ウェズも、わくわくしてきた。

「お通ししてください」


 通されてきた客は、五十がらみの紳士だった。頭頂部は薄く、白いものが混じっている。スーツをぱりっと着こなしてはいるが、どことなく品がない。ブランドもので固めているので、金持ちとわかるものの、そうでなければただのはりぼてのようなものだ。二重あごで、涙嚢が垂れ下がってきている。彼の、老眼鏡の奥の小さな目がきらりと光った。

「ウェズと申します」

「どうも、今日ははじめまして」

 話してみると、人当たりのいい初老のおじさんだった。口調からは、とてもこのような趣味の男性とは思えない。

「ここでは、その……女性の局部を堪能できるとうかがいましたが」

「ええ、まあ。それも、あれの最中の」

 ウェズは笑って見せたが、紳士は笑わなかった。

「私も、このような趣味には覚えがあります。若いころですがね」

「皆さん、そうおっしゃいます。それが元で恋人に振られたとか、よくうかがうお話ですよ」

 彼女は、場を和ませようと冗談めいて話すが、紳士は表情を変えない。

「あなたのパネルを拝見して、探していた女性に出会ったと思いました」

「まあ、運命の女性? 口がお上手ね」

「そう、運命です。あなたは、もしかして○○ではありませんか? 」

 紳士は、ウェズの本名をずばりと当てた。彼女の月はおののいて、子宮の奥に隠れた。

「なぜですか」

「ずっと探していた女性に、あまりに似ていて。私の妻の娘さんです。元恋人でした。しかし、事情があって、一緒になれず……。悔いて、出張のたびにこうした店をのぞいていました。彼女には、『月のもの』に対する執着があり、それが手掛かりになるのではないかと……。妻も、そうなのです。今は閉経しましたが、それまではあれの度に、私を脚の間へ誘い込んだものです。そして、この店であなたを見つけた。あなたは、妻にそっくりなのです。四十半ばだったころの妻に。今更一緒にはなれません。失うものが、お互いに大きいことでしょうから。だが、一言謝りたくて」

 紳士は、一気に語った。ウェズは、何も言わなかった。ただ、手を差し伸べた。

「わたしは、別人です。でも、どうか私の匂いを味わってください。それで、あなたの気が済むと思いますよ」

「どうしてです」

「○○は、死んだのです」

 ウェズは静かに言った。ごく自然に、「死んだ」という言葉が舌に乗った。


 ――そうだ、あの若かった私は死んだのだ。ハハが望んだとおりに。


 紳士は節くれだった手で顔を覆った。

「奥様は、今どうなさっていますか」

「私の事業が成功して、今は裕福に暮らしています。孫に囲まれて」

 紳士はそう言うと、素直に布団へ向かった。ウェズは、いつもの小技は見せず、ただ黙って下着を脱いだ。そして、布団に横たわった。

「どうぞ」

 紳士は――チチは、顔を陰部に近づけた。生ぬるい鼻息が、ふわりと陰毛にかかってくすぐったい。


 ――ああ、わたしは愛した人に、もう一度あれを見せている。


 ウェズは、今までどんな客にも感じたことのなかった、性的興奮に酔った。

「……あなたのあれは、透明な香りがしますね」

 唐突に、チチが言った。ウェズは聞き返した。

「透明? 」

「ええ。水晶のような、月の光のような」

 月――ウェズは微笑んだ。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「さっきのお客さんは、チーズだって」

「いえ、断じて。私にとっては、初恋の香りです」

 チチ……初めての恋人は、顔を上げると、ひそやかに笑った。


 ――ハハは、チチと幸福に暮らしているのね。私は、本当にいらない子になっちゃった。でも、チチに初恋の香りと言ってもらえるだけでも……。臭いでなく、「香り」と。月の香りがしたのだ。


 ウェズは、脚の間にチチを挟み込んだまま、遠い少女時代に戻り、再び全てをやり直せるような気がした。だが、それが脳の生み出す、生存本能に基づく幻想だとも分かっていた。彼女は、ある決心を抱いて、チチの頭を抱いた……。


 その日の深夜、ウェズは古いノートを引っ張り出していた。昔書き上げた「釘」という童話だ。その話の最後に、数行付け足して、彼女はペンを置いた。

 そして風呂に入った。

 風呂は、ユニットバスなので、めったに湯を張らないが、今日はバスタブをゆで満たした。そして、彼女はゆっくりと湯船につかった。

 ――ハハ。もう、わたしのことは覚えていないよね。チチと、孫に囲まれた生活……わたしと妹には、縁がない生活だった。でも、ハハが叶えてくれた。月が流れていくように、わたしたちの時間も、縁も流れてしまって、もう届かない。

 ウェズは、零れ落ちる涙をこらえようともしなかった。赤い月が、湯一面に薄く膜を張る。

 ――「子供は親を選べない」と言うけれど、「親も子供を選べない」よね。悪い子で、ごめんね。幸せになってね。そして、気が向いたら、許して。昔の、ハハの願い通りにするから。

 ウェズは、風呂場に置いてあった、すね毛を剃るかみそりを手にした。そして、手首に当てて、湯の中で一気に刃でかすめた。


 月と共に、ウェズの四十数年の記憶と、命が流れていく。思ったよりもゆるりとした死神の行進に、彼女は白銀の笑みを浮かべた。

 ――わたしの月、ハハのこころとチチの想い、それからわたしの魂を結んで……。釘にかけられた、花を束ねた後の赤いリボンのように。


 その日の月は、禍々しくもすがすがしい紅の微笑を浮かべていた。


数日後、変わり果てたウェズの遺骸が発見された。連絡が取れないことに不審を抱いた清掃業者が、アパートにやってきて見つけたのだ。

 片づける場所がなく、年中出しっぱなしだったこたつの上では、ウェズが最期に書き上げた童話「釘」が置かれたままだった。ウェズは、源氏名のほかには本名を使わず、通称を用いて仕事をしていたことが判明した。その意図は定かではない。

 ここに、童話「釘」を掲載して、偽りの名前で、酷な現実を生きた一人の女性の墓碑銘とする。




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