第2話 母の「堕胎」

 夢を見た。さび付いた大蛇が、腹の中で縄をなうようにうねり、やがて肉色の子宮を食いつくした。ウェズは、ただぼんやりと自分の身体を、遠くから見つめている感覚に襲われていた。自らの肉体が禍々しいおろちに食われようとしているのに、彼女は一切助けを求めなかった。そして考えた。


 自分が自分を助けないのに、どうして他人が救ってくれるだろう!


 蛇は、ウェズの肉体を食い破る。痛みはない。ただ、孕んだ月が崩れかけた廃墟のような静けさの中で、産声を上げられず、流れていった。その月を、ウェズははっきりと見た。

 もう数十年会っていない、失踪した母親のしわが深く折りたたまれた顔だった。化粧で隠せないたるみ。目じりの小じわ。夜遊びから帰ってくると、置き手紙もなく、ウェズの元恋人の夫と失踪していたあの母親だ。今のウェズとそっくりな顔をしている。彼女は戦慄した。


 ――わたしは、ハハを堕胎していたのね。


 ウェズは自分の深層心理をはっきりと悟った。彼女は、母親を毎月孕んでは、おろしていたのだ。

 母親は、苦し気に声を上げようとした。ウェズに呼びかけるように。

 ――何、ハハ?

 母親は、うめきながら声を絞り出した。二日目の腹部から織りなされる経血のように。


 ――死ね。あたしが死ぬくらいなら。お前が死ね。


 ウェズは、はっと飛び起きた。

 一滴の涙が、零れ落ちた。母親の前では許されなかった、「泣く」という「親への媚」。

 ――そうだ、ハハの口癖だった。ハハは、「死ね」とよく言った。でもわたしは死ねずにここにいる。きっと、ハハをこの世から堕胎したいのだ。

 目覚ましが鳴った。ウェズはのろのろと起き出した。ぬぐってもぬぐっても、涙が零れ落ちる。

 ――今、この部屋では泣ける。ハハはいない。でも、チチもいない。わたしには、誰もいない。わたしは、いらない人間、むしろこの世から早く出ていけと言われている人間。化粧の下は、しわくちゃのシャツのような、靴でぐりぐりと踏みつけられたような、泥の顔。

 それでも、仕事に行くときと、毎朝送られてくる天気予報のメールだけが、ウェズを生かしていた。きつくて薄給の仕事でも、床を磨いていると無心になれたし、世の中に役立っている気がした。そして、お天気メールの能天気な文句が、自分にだけ宛てて、見知らぬ誰かが時間を割いて送信してくれているような気がした。それが、たとえ何億人分の一でも。


「いらっしゃいませ」

 室内に客が入ってきたので、観ていたテレビを消して、ウェズは頭を下げた。

「お久しぶりです」

 この若い客は、常連だった。いつも月ごとに様子を見計らっては、指名してくれる。彼の言うところによれば、元の彼女に似ているのだそうだ。だが、そんなことはどんな客でも言いそうなお世辞だ。ウェズは笑って受け流していた。

「一月ぶりですね」

「ええ、あれの周期上ね」

 ウェズはそんな軽口をたたきながら、既にスカートを履いていなかった下半身から、ピンクの下着をひらりと舞い落ちるように脱ぎ捨てた。そんな小技も、客を引き留めるテクニックである。

「いつものように、シャワー浴びていませんけど」

「それがいいんです」

「でも、汗臭いかも。会社の仕事で、重いもの持ったから」

 ここでは、ウェズは会社員ということで通っている。身分を詐称することで、ウェズは本当に自分がキャリアウーマンとして働き、生きがいを見出しているような陶酔に陥ることができた。

「汗が、またいいんですよ。チーズの臭いがしたら、なおいいかな」

 客は、くすりと笑った。この客は、以前少しだけ語ってくれた昔話によると、牧場の息子らしい。それで、チーズの臭いの汗を好んだ。もっとも、ウェズと同じく、どこまで本当のことを話しているかはわからない。本当は、フリーターかもしれないし、はたまた大企業の息子かもしれない。そんな欺瞞に満ちた世界ではあったが、月を孕んだ女の匂いだけは本物である。


 ウェズは、薄い布団に横たわった。狭い部屋であるし、小さな店なので、ベッドはない。ベッドを置けるくらいの部屋を借りて、女性たちの待機部屋を多く作ることが、今の店長の目標であるらしい。

 客は、スーツの上着を脱いだ。しわが体に添う、サイズがぴったりのシャツを着ている。そして、眼鏡をはずした。舌で唇をなめると、ウェズに近寄ってきて、彼女が股を広げたその間に、顔を埋めた。


「ありがとうございました」

 客が、満足そうな笑みを浮かべて去って行くときに、ウェズは一礼した。今日の彼の懐具合はなかなかで、チップもはずんでくれた。なんでも、汗をかいた陰部の匂いが、外国産の高級チーズのようにかすかにフルーティーで、かつ錆の匂いがよかったのだそうだ。そんな舶来もののチーズなど、口に入れたことがないウェズだったが、ほめられて悪い気はしなかった。

 彼女は、いつも待ち時間にテレビを見るか、童話を書こうとしていた。テレビのチャンネルを切り替えるが、面白いものがなかったので、携帯を取り出した。このメール機能で、少しずつ作品を書こうとして消していた。いや、「書き上げたい」というより、「空想したい」という方が正解かもしれなかった。


 童話作家になりたい。それは、ウェズの少女時代からの夢だった。実父がプレゼントしてくれたウサギのぬいぐるみを主人公に、作品を冒頭だけ書いてみたのが始まりだった。だが、母親がそれをばかにした。

「そんな暇があるなら、身体でも売って稼いできな」

 と言い放ち、夜の街へ消えていく毎日だった。実父が亡くなってからは、遊び癖がひどくなり、男を引っ張り込んでは酒盛りをした。ウェズは、耳をふさいで、ただ夢の世界に飛び込んだ。


 十四の年に、満月を孕んだ。母親は、何も教えてくれなかったので、病気かと思ったが、保健医に相談して、ことの次第を知った。

 月が流れていく一週間を過ごしながら、ウェズは痛みで駆け込んだ保健室で、最初で童話を書き上げた。ベッドの上で、冷えと不規則にやってくる痛みが、死ぬかもしれないという恐怖が、何かを遺したいという彼女を創作に駆り立てたのだ。

 それは、「釘」という童話だった。主人公は、ある青年官吏の机に刺さった釘だった。その釘が、青年の恩義に感じて、自分の体を錆びさせ、病に倒れた青年の魂をつなぎとめる……そんな話だった。

 ウェズは、亡くなった実父を思って書いた。知っている限りの言葉を尽くして、心を込めて書いた。実父の魂をつなぎとめたいという、または母親の離れていく心を、自分のからだと結び付けたいという願いの表れだったのかもしれない。


 ある時期から、母親は急にウェズのご機嫌を取り始めた。彼女は素直に喜んだ。「釘」というあの童話の魔法かもしれないとさえ思った。そして母親は、彼女に恋人を作るように、それとなくうながした。その時から、月に一度胎内に月――母を孕んでいたウェズは、助言にしたがって、ある男性と付き合い始めた。それが彼女の住まいにある、大切なフレームの写真に写っている男性である。

 しかし、それは母親の巧妙な罠であった。色香の衰えで、男を篭絡できなくなった母親は、娘に恋人を作らせて、その彼を奪ったのだ。具体的には、一時の浮気と見せかけて、情欲の時間を持った。そして、避妊グッズに穴を開け、彼女は妊娠した。のっぴきならない立場に追い込まれたウェズの恋人は、仕方なくウェズを捨てて、母親と再婚した。そして、母親は自分を「ハハ」と冷たく無機質な言葉で呼ばせるように。娘の元恋人で現在の夫を、「チチ」と呼ばせた。半ば脅しだった。


 ハハとチチの子供は、死産だった。ウェズは、心のどこかでほっとした自分を責めた。痛ましく流れた子供は、女の子だった。月を孕む種が、一人断たれた。そんな気がした。ウェズは、心の中に、妹の魂をとどめる釘を打ち、葬送とした。

 その月の赤い流れは、妹だった。

 それからすさんだウェズは、「やんちゃ仲間」と共に転落していった…




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