月を孕む女
猫野みずき
第1話 赤い月が流れる夜
赤い月が流れる水曜日であった。わびしいワンルームのアパートに備え付けられた、小さな窓の外には、真っ赤な呪わしげな月が、曇った空からその顔をのぞかせていた。
そして、この女――ウェズも、月を孕(はら)んでいた。
正確には、孕んだ月が、真っ赤な鮮血で流れていったのだ。ウェズは、女子寮では月の周期に合わせて月のものが来る、という話を小耳にはさんでから、ずっと自分も子宮の中に小さな月を育てているように感じてきた。
だが、その彼女の嬰児(みどりご)のような月は、男性の遺伝子と結びつくことなく、むなしく流れ去って行く。
彼女には、その血がなぜかいとおしかった。一週間ほど前から、薄茶色をしたおりものが排出される。そして初日には鮮血がほとばしり、鼓動のように打つ腹部の痛みを押さえながら、四日目以降にはどす黒いどぶ色をした血へと変わる、その自分の分身が。
ウェズは、先ほどから、お気に入りのサニタリーショーツと布ナプキンを、生地を傷めないように慎重に洗っていた。この下着類には、洗濯機は使わない。自らの手で洗い、月の葬送とするのだ。そして、仕上げにきちんと広げてしわを取ると、ハンガーのピンチに挟んで乾かした。その時初めて、惰性でつけていたラジオの、懐メロが流れているのに気付いた。それほど彼女は集中して洗濯していたのだった。
携帯が鳴った。この音は、店長である。彼女はため息をついて、ラジオを消すと、電話に出た。
「もしもし」
「ウェズさん? 今日はお疲れ様。まだあれは最中? 」
彼女の月のもののことである。
「はい」
「じゃあ、明日も出てくれないかな? シフトが回らなくて」
本来なら、彼女は水曜日の当番である。だから、源氏名も「ウェズ」――ウェンズデイ、即ち「水曜」である。
「でも、明日はスナックのバイトが」
「お願いしますよ。ちょうどよく、あれが来ている人がいなくて、困っているんです。ウェズさんだって、もしかしたら、『水曜』以外にあれが来て困るかもしれないし」
「……わかりました」
ウェズは仕方なく同意した。マネージャーは簡単に礼を述べて、通話を切った。
静寂が広がった。夜の赤い月を流した彼女は、腹部の痛みをこらえた。
彼女が「本業」としているのは、「月のものの最中の、女の陰部を嗅ぐ」フェチズムにとらわれた男たちの相手である。
この仕事は、昼間の仕事である清掃業で、仲間の女子清掃員から漏れ聞いた。彼女は「気持ち悪い」と笑っていたが、もともと自分の「月のものの血」に異様な関心を持つウェズは、すぐに「店」に連絡を取った。
「店」は、こぢんまりとしたマンションの一室にあった。ぎりぎり合法的なのであろうか。風俗業に近いというのに。
店長は、四十半ばの彼女から見れば、「小僧」であった。二十代前半くらいの、大学を卒業したて、といった小柄な青年だった。
彼の説明を聞くと、「月のもの」に関心を抱く男性は意外にいるらしい。中には、女子トイレのサニタリーボックスから、使い捨てナプキンを盗んでいく者もいるという。そこに目をつけて「企業」したのが、この店長であった。
風俗と違い、いわゆる「春をひさぐ」必要がないため、登録している女性は意外にいた。もちろんウェズも早速登録した。そこそこのバックももらえることも決め手となった。
源氏名は、「ウェズ」にした。なぜか、彼女の月は水曜日に零れ落ちることが多々あるからである。それで、特別に「水曜担当」にしてもらった。店の客の指名用パネルには、首元のたるみを隠し、目もとの小じわを消してもらった。まあまあ満足のいく写真であった。
そうして彼女はこの店「ブラッドムーン」で働き始めたのだ。いつもは、清掃員、スーパーのパート、スナックのホステスを掛け持ちして、生活している。
彼女は独身で、生活は苦しかった。皮肉なことに、自分の「分身」を売ることで金をもらい、ようやく生活は成り立っていた。客がくれるチップもかなり役立った。
ウェズは元犯罪者であった。家庭が複雑で、夜に出歩いては、いわゆる「やんちゃな」若者たちと付き合っているうちに、傷害と窃盗で捕まった。二十を越していたので、少年法は適用されなかった。それでも、数年の刑期をつとめ上げたが、娑婆に出た彼女に職はなかった。かたぎの人間でも職にあぶれる時代である。どうして元犯罪者を好んで雇う会社があろうか。それで、彼女はアルバイトを転々としてなんとか生計を立てた。保険料も、年金も支払えなかった。ただ、今を生きているので精一杯だった。
ようやく見つけた清掃員の仕事でも、彼女の罪の噂はどこからか広まり、友達ができなかったウェズは、孤独に耐え兼ね、携帯のフリーメールに多く登録した。そのアドレスに届くメールが、たとえいかがわしい金儲けに誘うメールであっても、怪しげな出会い系メールであっても、彼女は喜んで読んだ。それが、社会とつながり、誰かと絆が結ばれているような気がしたからである。
ねっとりとした流体が、腹から絞り出された。ウェズは、あわてて狭いトイレに駆け込み、先ほど替えたばかりの布ナプキンを確認した。夜用でなかったような気がしたのだ。
だが、それは気のせいだった。赤く黒みがかった粘質の液体は、じんわりと愛らしい布にしみこんでいた。彼女にとっては、できるだけかわいらしい柄のナプキンを買うことが、ささやかな楽しみであった。そう値段も高くないので、手ごろな趣味だ。そして、彼女が異常な関心を持つ「月のもの」が、少しでも楽しいものになるように、という女心でもあった。
日々の苦しい生活ですさんでいく心のよりどころが、遠い昔の少女心をときめかせるモチーフがプリントされた布ナプキンと、サニタリーショーツであった。それを洗濯するとき、彼女は過去を思った。実父がまだ生きていたころの、かすかではあるが幸せな思い出。彼女が覚えていたのは、クリスマスに実父から、リボンを結ばれたウサギのぬいぐるみをもらったことだった。それが、彼女の生きる支えであった。自分をかわいがってくれた父、愛情のしるしとしてのぬいぐるみ。ゆえに、彼女のナプキンコレクションも、リボンとウサギのモチーフが多かった。かつて愛されたという証……。
――思い出にふけっていても仕方がないわ。楽しい記憶ではおなかいっぱいにならないもの。
ウェズは、スナックのママに電話をして、体調が悪いので明日の夜は休むと伝えた。ママは、疑いつつも了承してくれた。
そして彼女は、明朝の清掃の仕事のために、目覚ましをかけた。明日は早番である。企業の出勤時間の前に、清掃を済ませてしまうのである。
ウェズは、いつものように、タンスの上に立てかけている、安物のフレームを手に取った。品は百円ショップで買ったが、中に収めた写真は金額に換えられないものだ。
――今でも愛している男性。短い期間、恋人として付き合った人だ。ふちのない眼鏡がよく似合う、短髪で少し筋肉質な人。いとしい人。今では、もう会えない。
……失踪した実母の夫になったから。
彼女はあかりを消した。ぼんやりと、まだひかりの残る室内に、今はもう戻れない過去を見ていた。
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