しゅわしゅわ

鹽夜亮

しゅわしゅわ

 祖母の月命日だった。祖母は、もう四年も前に癌で他界していた。

 幸い、田舎の本家であるだけあって、自宅から墓地までは近い。徒歩で数分の距離にそれはある。集落を見下ろす位置にある墓地は、その傍らにささやかな山の神の祠を伴っている。青年は、大きな挫折を前にすると、ただ一人この祠に上り、どうか助けてくれと祈ったものだった。そんなとき、いつも温かい風が吹いていたようだったと思い返すのは、青年の傲慢なエゴかもしれない。

 ぼうっと寝転びながら、視線を台所へ向けると、母親が小さい丸形のお握りを作っている背中が目に入る。祠に供えるのだという。こぢんまりとしてかわいらしいそれは、山の神というよりも座敷童が喜び勇んで飛びつきそうだ、などと青年は思った。

「そろそろ行くよ。」

「お酒は?お清めに持って行かなくていいの?」

 支度を終えた母親は、青年に支度をするよう促す。だが、祠に供える神酒をすっかり忘れているようだった。

「無いからいいわよ。神様にはお握りで満足してもらいましょう。」

 青年も記憶をたどるが、数週間前に手を付けて半分も呑み切っていない安物のどぶろくしか思い当たらなかった。一瞬、それを持って行こうかと提案しようとしたが、なんともなしにどこか不躾な感じがし、黙っていた。

 バブル期に祖父が作らせた豪華な玄関の扉を開け放つと、排ガスの混じり気のない冷たい空気が肺に入り込む。庭で飼い犬が吠えていた。鳥達が驚いたとばかりに一斉に飛び立つ。肺に入る冷たさと裏腹に、肌寒さは感じなかった。むしろ、1月の終わりという季節を考えると、温暖な方だろう。

 墓地は、自宅を出て左手の丘の上に佇んでいる。母親の後ろ姿を追いながら、ゆっくりと歩く。道の左側には、水の溜まった小さな土堀がある。ふと目をやると、そこにはぽつぽつと穴が空いていた。

「ザリガニの巣かなあ。」

「かもしれないわね。でも、こんなにいるのかしら。」

 なるほど、見回してみるとそこら中に穴は空いている。こんなにザリガニだらけだとしたら、子ども達にとっては楽園だろう、と一種の懐かしさを思いながら通り過ぎた。

 坂を登って右に曲がると、墓地へ続く急坂の下にたどり着く。幼い頃から何度も登ったことのある坂ではあるが、見るたびに息が詰まる程の急勾配だ。父や、祖母や親戚と大勢で墓参りをする日には、いつも幼い頃は張り切って息を切らせながら駆け上がり、誇らしげに家族の到着を一番上で待ったものだった。

「優は早いねえ。きっと次のかけっこも一番だねえ。」

 脳裏に優しい言葉と祖母の笑みが過る。四年という月日は、長いようで短いものだ。この四年で、少年は青年になり、スーツを着るようになり、自分の車をもって、そしてこの急坂を登ると息切れするようになった。

 墓地に到着すると、母親は水を汲みに奥へと歩いていった。青年は、墓地の入り口からすぐ右手の小高い丘にある祠へと向かう。周辺の枯れ草は地元の人たちによってよく整備されており、足下に気をつける必要はあるものの、不自由するほどではない。祠の前の、お供え物を置く平らな石の上に、お握りを二つ乗せる。小さいそれは、幼稚園の時分、小食だった青年に母親がなんとか少しでも多く食べさせようと、工夫に工夫を重ねたお弁当の中に入っていたものに似ていた。

 お祈りを済ませると、背後から幼い女の子の声が聞えた。

「しゅわしゅわがくる!いるよ!」

 青年は、何か動物でも出たのかと思いながら、丘を下りる。下りた先はすぐに墓地の入り口と繋がっている。入り口に立つと、ちょうど正面に先ほど何かがくると言っていた女の子が、父親に向けて駆け寄って行くのが見えた。青年の母親は、そのさらに奥で水をくんでいる。

「しゅわしゅわのひと!しゅわしゅわ!」

 青年を指差しながら、女の子は嬉しそうに言葉を紡ぐ。しゅわしゅわ、とは彼のことらしい。女の子と少し困ったような顔をしたその家族は、そのまま青年の横を通り過ぎて、楽しそうに坂を下っていった。

「しゅわしゅわ、だってよ。」

 水を汲み終えた母親は、思案顔の青年に微笑みながら振り返った

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しゅわしゅわ 鹽夜亮 @yuu1201

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