やまない雨

新成 成之

未来の話

 『やまない雨はない』


 そんな言葉は、とうの昔に意味を無くした。



*****



 ドーム内を照らす巨大照明が『月』から『太陽』に変わると、ドームの中に『朝』が訪れる。




 人類が文明を手放して500年が経った。パーソナルコンピューターや、マルチメディア機器は早々にその機能を停止し、世界から電子データなるモノの存在が消え去った。そうなると、電子機器はその意味を果たせなくなり、いつしかそれは文明の遺産ガラクタと呼ぼれる様になっていた。


 世界にガラクタが増える一方で、それまで世界を創っていた建造物も風化していった。その最大の原因が、人類最大の間違いとも呼ばれる、兵器の存在だ。それは世界の半分を一瞬にして灰と化すと、大気にまで影響を及ぼした。そのせいで、世界は何百年もの間、雨が降り続いている。そうなると、地表は徐々に浸水していき、気付けば海が占める面積が全体の90%にまで及んでいた。その結果、人は住む場所を失い、その人口は急激に衰退していった。


 では、残った僅かな人達はどのようにして生き延びているのか。それは、振り続ける雨を凌ぐ為に『ドーム型避難集落』、通称『ドーム』と呼ばれるドーム球場のような施設を造り、その中で全ての営みを行っているのだ。


 ドームは分厚い天井に覆われている為、雨が入ってくる心配はない。しかし、天井があることによりドームには陽の光が差し込む事は絶対に無い。そこで、ドームを建設した当時の人々は太陽の代わりになる光として『人工太陽』を創り出したのだ。しかし、それだけではドーム内は年中日中という、人が生きるには余りにも過酷な環境になってしまった。そこで当時の人々は、夜を生み出すために人工太陽の照度の調節が出来るように改良し、月の変わりにもなる巨大照明を造り出した。こうして、ドーム内には『太陽』と『月』と呼ばれる巨大照明が誕生し、人々は朝と夜を繰り返しながらこれまで生きてきたのだ。


 しかし、ドーム内で生きる人達はそんな過去の歴史など知る由もない。何故なら、それが記された唯一の媒体が本だからだ。かつての人達は、自分達が犯した過ちを二度と繰り返さないようにと、ドーム内に図書館なるものを建設した。しかし時が経つにつれ、文明も廃れていき、遂には、本を読める人はいなくなってしまったのだ。そう、ドーム内には『読み書き』という文明が存在しない。そうなれば、500年前の人が残した本はただの文明の遺産ガラクタに過ぎない。


 つまり、ドームで生きている人は何も知らないのだ。




 ドーム内にはかつての町のような、生活に必要な最低限の施設と、設備が備わっている。


 とある家では、巨大照明の切り替えで目を覚ました家族が一家団欒で朝食を頂いていた。この日のメニューは、目玉焼きにレタスのサラダ。そして、パンだ。


「お父さん、次の収穫はいつなの?」


 パンを頬張る子供が父親に尋ねる。父親はミルクを一口飲むと、こう応えた。


「次か、次は一週間後だろうな」


 収穫とは、野菜の収穫のことである。


 ドーム内では、それぞれの家庭に役職が決まっている。野菜を育てる家庭。米を育てる家庭。小麦を育てる家庭。酪農をする家庭。陶芸をする家庭、等等。ドームに住む大人は皆役割が与えられているのだ。それは、何百年も前に割り振られた役割であり、その家庭に生まれた瞬間から死ぬまでその責務を全うせねばならない。だがしかし、それに対してとやかく言う者はドーム内には一人としていない。その理由は、誰もがそういうものだとして育てられてきたからだ。


 彼らには生まれてからずっと、そうした世界しか経験したことがないのだ。


 上を見上げれば、ドームの天井があり。朝と夜を分け隔てる巨大な照明。各家庭ごとに割り振られた生活に必須の役割分担。そのどれも、彼らにとっては当たり前のことなのだ。


 彼らにとって、何かを不思議に思うことなど体感したことのない感覚なのである。



*****



 ドームの端に建てられた図書館。普段は誰も立ち寄らないそんな場所に、二人の女の子が迷い込んでいた。


「うわぁ、すごい!何かいっぱいある!」


 そう言ったのは、髪を肩で切りそろえた明るい笑顔が特徴的な女の子。そんな彼女の目の前に聳え立つのが、彼女の身長の10倍はあるであろう、巨大な本棚である。数え切れないほどの本棚には、どれもびっしりと本が収納されており、中にはカビが生えたものまで混ざっている。


「ミカ・・・帰ろうよ・・・。こんなところ来ても、何も無いよ・・・」


 そう言って辺りをキョロキョロ見渡しているのは、長い髪を後ろで束ねた女の子。先程の子より背が高く、見たところ臆病な性格の子である。


「リサが勝手に付いてきたんでしょ?嫌だったら、帰れば?」


「えー・・・、なんでミカちゃんはそんな事言うの・・・?」


 人が近寄らない場所に踏み入ってしまったという背徳感からなのか、リサと呼ばれる女の子は酷く怯えている。一方で、ミカと呼ばれる女の子は手の届く位置にあった本を取り出すと、ぺらりと表紙を捲った。


「ねえミカちゃん・・・、ここにあるものって、何なの・・・?私初めて見るよ・・・?」


 リサの言葉が聞こえていないのか、ミカは一枚、また一枚とページを捲っていく。


「ねえミカちゃん・・・、何してるの・・・?そんなの見てもつまらないよ・・・?早く外行こうよ・・・」


 リサは堪らずミカの袖を引っ張る。しかし、ミカは初めて見る本に釘付けになっていた。いくらリサが外に連れ出そうと、ミカの袖を引っ張ろうとも、ミカはうんともすんとも言わない。最早、リサのことが見えてないのではないかと思える程に、本に夢中になっていた。


「ミカちゃん・・・」


 ミカが手にしたのは、当時でいう児童文学と呼ばれる本であり、ページの上半分に挿絵が描かれており、その下に文字が書かれている。勿論、ミカがそれを読めるわけではない。しかし、初めて見る『本』という謎の存在に目を輝かせていた。何故なら、その本にはミカが見たことの無い世界が描かれているのだ。雪で一面銀世界となった山の風景。それは、ドームの中では決して見ることの出来ない風景。ミカはそんな、未知の世界に引き込まれていたのだ。


「ミカちゃん・・・?それ何なの?ミカちゃん、分かるの?」


「ううん。分からないよ。でも、見たこともないものがここにあるのって、すごいと思わない?これ、面白いな」


 絵は見ることが出来ても、文字を読むことが出来ない。ミカはその文字が何かの表しているのではないかと、ふと考えた。すると、それまで手にしていた本を脇に抱えると、本棚の端から順番に本を手に取るとぱらぱらとページを捲っていった。


「ミカちゃん・・・?帰ろうよ・・・」


 その日、ミカは『夜』に変わる手前まで図書館で本を漁っていた。一緒にいたリサは、途中で本棚にもたれ掛かりながら眠りについていた。


 『夜』になると皆作業を止めて、自宅に帰宅する。巨大照明は自動で切り替わるシステムになっており、毎日決まった時間に『太陽』と『月』が切り替わる様になっている。だからといって、ドーム内に『時間』の概念がある訳ではない。あくまでも、彼らは巨大照明に従って生きている。照度が落ちて暗くなり始めたら一日が終わる。ただそれだけを考えて毎日各家庭が仕事をこなしている。それは、ミカの家も、リサの家も例外ではない。どの家庭も、役割があるのだから。




 それからというもの、ミカは日中図書館に行っては、ひたすら本を眺めていた。しかし、彼女が見ていて楽しいのは、絵がある本だけ。小説の様な文庫本は読むことが出来なかった。


 そんなある日、彼女は一冊の本と出会う。それは、『あいうえお図鑑』と呼ばれる、500年前幼児に日本語を習得させるために読み聞かせをした絵本だ。そこには『うし』や、『みず』、『ひと』などミカが見たことのあるものがイラストと、文字で書かれていた。そこで初めて、ミカは文字を読むことを覚えた。


「これが『う』で、これが『し』。だから、これは『うし』って意味なんだ!」


 読み書きの文明が無くても、話すこと聞くことは出来る。ミカは自分の知っている物のイラストを頼りに、文字を覚えていった。すると、彼女は次第に文字が読めるようになっていき、実際に見たことが無い物のイラストの文字まで読むことが出来るようになっていた。


「これが『そら』。でも、そらって何だろ?なんで、ここにはそらがないんだろう?」


 彼女はドームの中には無い、かつての世界の物に触れては、様々な疑問を持ち始めていた。


「ここの太陽と、ここに書かれている『たいよう』は違うのかな?月だって、形が違う気がする」


 こうして、彼女が抱いた疑問はやがて彼女の好奇心へと変わり、いつしか、彼女は疑問の全てを解き明かそうとまで考えるようになっていた。


「ここにあるのぜんぶ見たら他にも分かるのかな?」


 文字が読めるようになった少女は、それから毎日図書館に来ると、来る日も来る日もかつての人々が残していった本達を読み漁っていったのでした。



*****



 それから数年が経ち、彼女は大人になった。背も伸びて、女性らしい身体になり、一人前の人として認められるはずだった。しかし、彼女は今でも図書館に行っては、本を読んでいた。


 ドームで生活していくためには、各家庭に割り振られた仕事を行わなければならない。しかし、彼女はそれを無視しすると、あろう事か文字を覚えたその日から一日も欠かさず図書館で本を読んでいたのだ。これには、彼女の家族も流石に呆れ、友達だったリサも彼女とは関わろうとしなくなった。それでも、いくら周りから何か言われようが、彼女は本を読むことをやめなかった。何故なら、彼女はあることに気が付いたのからだ。


「ここの外の世界は一体どうなっているのだろうか」


 これまで、ドームで生活してきた人にとって、世界とはドームそのものであると信じて疑わなかった。それ以上に、そのような疑問を抱いたことが無かった。そのため、『ドームの外』という概念そのものが生まれなかったのだ。


 しかし、彼女は文字を理解し、本を読んでいくことで、ドームの中にはない、別の世界の存在を知ってしまった。それは500年前、当時の人々が暮らしていた世界。そして、人々が壊してしまった世界。


 彼女は大人になり、ドームの外に出てみたいという欲求に駆られていた。自分が知らない世界。見たこともない世界。それを見たい、知りたいという欲望を持ってしまったのだ。そして、彼女はそれが『知識欲』と呼ばれていたものであることも理解していた。


「何故、ここに暮らす人達は何も欲を持たないのだろうか。何故、あんなにも平然と、誰に割り振られたかも分からぬ仕事をこなしていけるのだろうか。自分達がいる状況を不思議に思わないのだろうか?人間とは、本来そのような生き物ではないはずだ。ここで暮らしている人は、まるでドームを構築する部品みたいではないか」


 ミカはその日も図書館で本を読んでいた。長年本を読んできたことで、彼女はドーム内の人々の生活がおかしいことに気づいていた。誰も気付くことなく500年という時間が流れてきたというのに。


 ミカはこのことを誰かに説明し、現状の改善を試みようとした。しかし、彼女の話に耳を貸す者は誰一人としていなかった。彼女は、既に人になっていたのだ。そんな人の話を聞いてくれるわけもなく、彼女はいつしか独りになっていた。




 そんな孤独な彼女の唯一の居場所である図書館に、とある人物が訪ねてきた。それは、曲がった腰で杖をつき、白いお髭が良く似合うドーム内の人達をまとめる『リーダー』と呼ばれる老人だった。


「リーダー?どうして、貴方のような方がここに?」


 彼女が数年通い続けたこの図書館には、人はおろか、虫すらも姿を見せてこなかった。そんな場所に一人の老人が現れたのだ、彼女が驚くのも無理もない。


「ミカ、お主が町の者に色々言って回っていることはワシの耳にも届いておる。お主がここにいることは町の者の噂にもなっておる」


「そうだったのですか。リーダーはわざわざそれを私に言いに来たのですか?」


「なに、そう身構えるでない。ワシはお主に忠告をしに来たのじゃ」


「忠告ですか?」 


「そうじゃ、いいかミカ、お主はこれ以上ここの本を読んではならぬ」


 腰の曲がった老人は驚くことに、ここ図書館に文明の遺産ガラクタが『本』であると知っていたのだ。


「それは、何故ですリーダー?」


 何故リーダーが『本』の存在を知っているのか、彼女は不思議でならなかった。『本』という言葉はドーム内で生活をしていても決して耳にする言葉ではない。そう、それは失われた文明の言葉なのだ。それにも関わらず、この老人はその言葉を知っていた。その上、彼女に本を読むことを辞めるように忠告したのだ。


「お主はこの世界について知りすぎた。いいか?この世界において疑問を持つことは決して許されることではないのだ」


 老人は曲がった腰のまま、強い口調でそう言う。


「何故です?!何故疑問を持ってはいけないのですか?!」


「それは『知識欲』と呼ばれる、かつての人間が持っていた『欲望』の一つじゃ。お主も『欲望』のことは知っておるのじゃろ?」


「それは、知ってますが・・・」


「じゃったら、尚更これ以上のことは知ってはならぬ。求めてもならぬ。この世界に生きる人間は『欲望』を持ってはならぬのじゃ」


「何故です!かつての人間がそうであったように、私達も欲望を持つのが普通なはずです!何故それを───」


「今の世界の普通はなんじゃ?一体、このドームの中の誰が欲望を持っておる」


「そ、それは・・・」


「よいか?その本に書かれていることは全て過去のことじゃ。今の世界には存在しないものばかりじゃ。そんなものを求めたところで何もならん。今あるものが全てなのじゃ。今起きていることがこの世界の全てなのじゃ」


 ドームの中では、太陽も月も存在しない。あるのは巨大照明の照度の調節で存在する『太陽』と『月』と呼ばれるシステム。そして、その巨大照明が『朝』と『夜』を隔てている。そのことに、誰も疑問を持たなければ、不満を言う者もいない。何故なら、それが皆の普通であって、当たり前だからだ。さして、それを疑わぬことがおかしいと思うことすら思わぬ。これが、ドームに生きる人である。


「そんなの!おかしいじゃないですか!」


「よいか、もう一度言うぞ。誰もそれをおかしいと思ってなどおらぬ。いや、正確には気付いて貰えないのじゃ。実は、ワシも昔ミカのように本を読んでいたことがあってな。ワシもこの世界の異変に気づいてしまったのじゃ。しかし、それを町の皆に言ったところで誰も共感してはくれず。終いには、ワシは異端者扱いされてしまったのじゃ。ワシはそれが耐えられなくての、何とかして元の位置に戻ったのじゃが───。つまりじゃ、この世界において、何かを変えようとしたところで、それは叶わぬのじゃ。この世界は、ただ生きるだけの最早墓場と変わらぬ」


 ミカは図書館で読んだ本の中の『人間は考える葦である』という一節を思い出していた。ドームの人達は一人として考えることを行っていない。つまり、ドームにいる人は誰も『人間』ではないのだ。


 そう、それはドームを維持するための部品であり、動力。『人間』が生き延びるために造られたドームには、もう『人間』は消滅していた。




 雨上がりも、夜明けも存在しないこの世界。そんな世界でも、それでも人は生きている。


 常識を疑うことを放棄して。

 

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