狐の嫁入り

 悲鳴が聞こえた気がして、目をうっすら開けた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん……!!」

「皐月!!」

 かつてないほどに切迫した母と依舞の顔が自分を見ていた。

「依舞……お母さん……?」

「よかった……!」

 堪えきれなかったように母が皐月の体の上に泣き伏せた。離婚してこのかた、決して涙なんて見せなかった母の嗚咽をこらえても漏れてしまう泣き声に戸惑って、同時に胸の奥に熱いものがこみあげた。

「もう……、なんなのよ……そんな泣いて……」

 半身を起こしながら、辺りを見回した。薄暗いけれど、和室にいるらしいことは分かる。前方から光が射し込んでいて、薄茶けた緋毛氈が光の道をつくっていた。

「ここ、」

「古宇里山の神社よ。散歩って出てったきり戻ってこないから」

 母が鼻を少し鳴らしながら体を起こして、皐月の顔を覗きこんだ。

「私、」

「まさか拝殿の中で倒れてるなんて。心臓が止まるかと思って……」

 思い出したのか、ぶるりと体を震わせた母の肩に安心させるように触れた。

「お姉ちゃん、体は?」

「大丈夫、なんともない……」

 見回すと、隅の方には、何か祭りにでも使うらしい道具や神輿が雑然と置かれていた。

「……なんで、こんなとこ……」

 言いながら振り返った。

 奥にお供え物を前に並べた扉が固く閉ざされてあった。

「お姉ちゃん?」

 立ち上がり、扉のそばに近づいた。素朴でも見事な金で装飾された本殿へと通じる観音開きの重たげな扉だ。その上で紙垂が人の動きが巻き起こした空気の流れに揺れた。

 その扉の向こうにあるものがひどく気になって、おもむろに押した。

 びくともしない。

 自分は、もう、向こうには行けない。

 突然そう悟って、その意味がわからずに開けようと必死だった自分の手を見つめた。

「お姉ちゃん?」

「この先がどうしたの? 禁足の地だから入れないわよ?」

 依舞と母が隣にきて、本殿への扉と皐月とを交互に見た。

「なんだか、この向こうで、とても幸せで、……哀しい夢を見ていた気がするの……」

 どちらに言うわけでもなく呟いた。

 目覚めて、夢だと知った時のぽっかりとした喪失感が、けだるく皐月を覆っている。

「葬儀の手伝いで働きすぎたのよ。仕事も残業続きだったんでしょ? ……皐月?」

「お姉ちゃん」

 依舞がハンカチを差し出した。それを怪訝な顔で見返した皐月に、依舞も母も不安そうに皐月を見つめた。

「涙」

「え、」

 慌てて頬に手をやって初めて気づいた。熱さも冷たさもなく、静かに皐月は泣いていた。

「なんで」

 自分に混乱して、ハンカチで?の涙を拭った。

「どっか、痛む?」

「全然痛みなんてないんだけど……」

 本殿の扉をもう一度見た。

 さっき何かを思った気がしたけれど、何を思ったのか、すでにぼんやりとして、もう泡沫のように消えかけている。たいしたことではなかったのだろう。

「よく分からない」

「自分のことなのにぃ……」

 少しからかうような口調になった依舞を軽く諌めて、母が言った。

「そういうことだってあるわよ。きっと、山の神様が皐月を呼んだのかもしれないわね」

「山の神様?」

「そう、ここで祀られている女の神様よ。この辺一帯をお守りくださるの」

「へえ……知らなかった」

「真っ白なお狐さんをしたがえた、慈悲深い神様よ。興味があるなら、小里のおばさんが、縁起絵巻を保管してたから見せてもらえると思うわ」

 母にはなじみがあるのだろう。どこか敬虔な面持ちで本殿を見つめた。

「どんなご利益があるの?」

 パワースポットには俄然興味をもつ依舞が期待をこめて母を見た。

「基本的には農耕の神様だから、五穀豊穣とか商売繁盛、それから家内安全とかだったと思うわ」

「なあんだ、もっと恋愛とかさ、こうイマドキの……」

「罰当たりなこと言わないでちょうだい」

 明らかに興味を失った依舞を軽く叱り、母は手を合わせて「皐月を無事にお返しいただき、ありがとうございます」と目を閉じた。つられて、依舞も皐月も手を合わせた。そうしながら、皐月はもう一度本殿への扉を見つめた。この拝殿で倒れていた理由は自分でも分からない。

 でもたったひとつだけ、ずっと皐月の胸の奥を占めている。

 大切な何かをどこかに置き去りにしてしまった喪失の強い痛みだった。


 僧侶の読経がようやく終わり、あちこちで身じろぎする衣擦れの音が聞こえた。皐月もようやく顔をあげ、遺影を見上げた。微笑むその表情は穏やかで、かつてよく見た優しい笑顔だ。葬儀の時よりは初七日の法要の今の方がだいぶ祖母の死を受け止められているかもしれない。葬儀の時には後悔ばかりだった時間も、その経過とともに少しずつ、少しずつ和らいできている。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 隣に座っていた依舞が立ち上がりながら、皐月を心配そうにのぞきこんだ。

「うん、大丈夫」

 安心させるように笑みを浮かべ、少し痺れている足に気合いをいれるように立ち上がった。参列した法要も、残すは精進落としの会食のみだ。

「手伝いをしなくちゃね。依舞、手伝ってくれる?」

「え、お姉ちゃんは、休んでた方がよくない?」

「そんなこと言ってられないでしょ。これだけ親族が集まって、用意だけでも大変なんだから。お母さんたち、てんてこ舞いしてるじゃない」

 依舞の心配をなだめながら土間の方向に廊下を歩いた。

「あ、皐月ちゃん。ちょうど呼びに行こうと思ってたの。母が土間の方手伝ってって」

 土間の方からやってきた歳上の従姉妹が、立ち止まった。風子伯母の娘で、歳が近いせいか、よく話をする相手だった。

「ごめんね、うちの母、人使い荒くて」

「そんなことないよ。むしろ足手まといになってなければいいんだけど」

「ううん、すごく助かってる。おばあちゃんが亡くなって、家の中をとりしきんなきゃなんないのに、なんか勝手がまだ掴めないみたいで」

「おばあちゃん、急だったから……」

「そうなの、いろんなしきたりがあるみたいで。小里のおばさんがいてくれるから、母も護おじさんもなんとかやってられるんだと思う」

「しきたり?」

 それまで黙っていた依舞が首を傾げた。

「依舞ちゃんは若いからあんまり知らないかな。本家って昔から続く旧家じゃない? だから、いろいろと決まりごとがあるの」

「そうなの? どんな?」

「そうねえ、例えば、古宇里山の神さんにまずご報告にいって、それから決められた順番に、屋敷周りの神棚やお社に報告していく、とか、その時は必ず、その年の新米で作ったおいなりさんを供える、とか」

「えええ、何それ、メンドくさそー!」

「依舞! 口を慎む」

「あ、ごめんなさぁい……」

 依舞の素直な反応に、従姉妹が苦笑した。

「まあ、普通はそう思うわよね。でもそうすることで、本家の結束を固めてきたんじゃないかな」

「この精進落としのふるまいも変わってるしね。普通、一般の方も一緒じゃない? でもわざわざ、一般の方用の精進落としがあって、その後また別に遺族だけの精進落としがあるなんて」

「そうよね。倍かかるから、もう訳分かんなくなってくる。でもだからこそ、結束強いんだよねえ……」

「そうね。うちの親族って、人の話聞いてると他より強いみたいね。うちの母が離婚した時だって、就職口とかだいぶ世話してもらったみたいだし」

「うん、いざという時、頼りになる。だから一概に大変とも言えないのよね」

 そこまで話をした時、土間の方から従姉妹の名前を呼ぶ風子伯母の声がかすかに届いた。

「わ、マズイ。皐月ちゃん、ちょっと急ぎめで土間行ってくれる?」

「うん。わかった」

 慌てて従姉妹と別れて、依舞と土間に早足で向かった。


 薄暗さをわずかに残しながらも、最近コンクリートの床を板間に改装したばかりの土間では、風子伯母が忙しなく立ち働いていた。その背中に声をかけようとした時、ごく近いところから誰かに呼ばれて「はい?」と、横を向いた。

 土間と座敷を行き来する他の伯母や従姉妹たちの中に立ち止まる人はなかった。皐月に気を配る余裕さえないほど、バタバタしている。

「お姉ちゃん?」

「……うん。なんか呼ばれた気がしたんだけど、気のせいだったみたい」

 土間を仕切る風子伯母に改めて声をかけると、風子伯母は手を休めずに振り返った。

「依舞ちゃんは料理を座敷に運んでくれる? 皐月ちゃん、悪いけどちょうどお酒切らしたから、土蔵からとってきてもらえる?」

「土蔵?」

「やだもう、忘れたの? 裏のよ。小さい頃、よく1人で潜り込んで遊んでた」

 風子伯母がおかしそうに笑って、なんとなく古びた蔵を思い出した。

「ああ、あそこの。で、なんか指定の銘柄ある?」

「どれでもいいわよ。あけてない日本酒の一升瓶があるから、それ適当にこっちと座敷の両方に一本ずつもってってくれる?」

 了解して、土間の勝手口から外に出た。

 空は雲ひとつない。母屋の小高いところからは、長屋門の向こうで伸び盛りの青い波が、風に揺れているのが見えた。のどかで、祖母を送り出すにはふさわしい光景に見えたけれど、その清々しさが逆に淋しく感じられた。

 その空に呼応するように、山の方から動物が甲高く鳴く声が聞こえた。土蔵に向かいかけた足を止めるほどもの哀しい響きだ。この辺りにはキツネが多いというから、きっと山に棲む野生のキツネだろう。

 視線が古宇里山の猛々しい山容にいったのも束の間、身を翻しかけて、黒いスーツ姿の男性が長屋門を潜るのが目に留まった。

 そのまま目が釘づけになったのは、自分と同年代の若い男性だったからでもなく、頭が真っ白、いや銀髪だったからだ。近づいてくるにつれ、明らかに身内ではない美貌の持ち主だということも分かった。あれだけ目立つ容姿なら印象に残っているはずだけれど、葬式で見かけた覚えはなかった。

 男性が皐月に気づいて、軽く会釈した。

 皐月も頭を下げると、男性は一瞬ためらってから、皐月の方に歩いてきた。

「すみません、八重野光子さんがお亡くなりになったと聞きまして、お線香をあげさせていただきたくてきたんですが……」

「ああ……。ちょうど初七日の法要は終えたところですけど、ご焼香くらいなら……」

 そう言って玄関の方に案内に立った。一歩後ろをついてくる男性にちらりと見て、首を傾げた。なぜか見覚えがあった。記憶を探っていると、男性がかすかに笑った気がして、振り返った。

「気になりますか? 僕の髪」

「えっ、あ、いえ」髪も気にはなっていたけれど、そうではないことをうまく伝えることもできず、皐月は言葉につまった。

「いいんです、慣れてますから」

「いえ、その……、気にさわったらごめんなさい」

「謝る必要なんてないですよ。自分でも変だとは思うけど、生まれつきなんです、これ」

 苦笑しながらやんわりと言われて、皐月は少し困ったように口をつぐんだ。かといって、前に会った気がするというぼんやりしたことを伝えるほどの距離感でもなく、沈黙が落ちた。

「……あの、僕はお邪魔ではないでしょうか?」

「たぶん大丈夫だと思いますよ。でも祖母とはどういった……?」

「仕事のことでご指導いただくことが多くて。本当にお世話になったんです」

「そうですか……」

 祖母の仕事というなら、それは農業しかない。モデル並みのスタイルと美貌をもつ男性が農業というギャップに驚きながらも皐月は微笑んだ。彼と同世代の従兄弟の中に、農業に興味をもっている人はいない。そのことを終始嘆いていた祖母には、きっといい刺激になっていただろう。

「あの間違いでしたらすみません、皐月、さんでしょうか?」

「え、あ、はい。そうですけど……?」

 驚いて立ち止まると、男性は少し嬉しそうに笑った。深い森の木々の間に漂う光のようにやわらかく笑う人だと思った。

「光子さんがよく話してくれました。僕と同い年の孫がいて、とてもおてんばだって」

「ええっ! 何、……もう勝手なこと……」

 思わず空に向かって、歯噛みした。祖母が空の上でにんまり笑っているような気がした。

「他になんか……言ってました?」

「いろいろ……ですね」

「いろいろって、そんなに?」

「蔵に閉じ込められて泣き喚いて、とか、座敷中、かくれんぼのつもりで走り回るのはいいけど、疲れてどっかの座敷で眠りこけて、家人が探し回るハメになる、とか」

 聞いてるうちに顔から火が出るような恥ずかしさに襲われ、皐月は視線をさまよわせた。

「もう……」

 初対面の相手に、自分さえもうろ覚えの子供の頃を話されるといたたまれない。

「でも、なんか光子さん、それを話してる時とても楽しそうだったから、だからずっと、いつか会えたらいいなと思っていたんです」

 美貌の持ち主に微笑まれて、さらに頬の温度があがった。

「それは、その……ありがとうございます……」どう返したらいいのか分からずにいるうち、天の助けのように玄関に着いた。土間をのぞいて、風子伯母の姿を見つける。

「おばさん、なんか外からおばあちゃんに線香あげたいって方が」

 勝手口から声をかけると、手を拭きながら伯母が出てきた。

「あら、誰……って、もしかして、白彦くん?」

「ご無沙汰しています。八重野です」

「あらあらあら、ずっと海外いってたんじゃなかったの?」

「光子さんの訃報を聞いて急遽、帰国したんです」

「まあまあ、それはそれは。おばあちゃんも喜ぶわ」

 知り合いだったことにホッとしつつ、後は任せようと立ち去ろうとした時、白彦と呼ばれた男性が「皐月さん」と呼びとめた。

「僕、八重野です、八重野白彦といいます」

「水澤皐月です」

 改めて自己紹介されて、頭を下げた。

「あら皐月ちゃん、白彦くんと初対面なの?」

「うん、でも八重野さんは私のことおばあちゃんから聞いていたみたい」

「でしょうねえ」

「でしょうね、って」

「だって、おばあちゃん、皐月ちゃんを目の中に入れてもおかしくないくらい可愛がってたから」

「でもだからって、知らない相手にあることないこと……」

 少し拗ねたように言うと、風子伯母は「いいじゃないの。さあさあ白彦くん、あがってちょうだい。おばあちゃん喜ぶわ」と言いながら、彼を屋敷に、皐月を土蔵へと追い立てた。


 久しぶりに足を踏み入れた裏庭は、きれいに手入れされて、記憶の中の土蔵よりさっぱりしていた。小さな頃は雑草が伸び放題で、その丈の高い草の間に隠れて遊んだような気もする。

 そして古びた土蔵が昔と変わらずに建っていた。こみあげてきた懐かしさの中に、喪失感が混じる。何か大事なものを忘れてきてしまったような、途方に暮れた夕方のような気分がひたひたと押し寄せて、涙が滲みそうになった。

 そんな自分を訝しく思いながら、皐月は土蔵の重たい扉を開けた。錆びてきしんだ音が響く。

 電気をつけると、白色の蛍光灯がこうこうと蔵の中を照らし出した。遊んだ記憶の中で、土蔵の中はもっと広かった気がする。しかもさまざまな家財道具が所狭しと雑多に置いてあったけれど、今はだいぶ整理され、すっきりしてしまっている。ただ変わらないのは、埃とカビの入り混じった湿っぽい匂いばかりだった。

 目当ての棚を見つけて、適当な一升瓶二本に手を伸ばす。腰をかがめた時、ひんやりした風が素肌を撫でた。顔を上げると、奥の方でぼんやりと白く浮かび上がる神棚があった。きちんと掃き清められ、そこだけ明るく見えた。普段は気にもとめないのに、なぜか手を合わせないといけない気がして近づいた。

 祖母が安らかに眠れますように。

 神棚の前でそう祈った時、ふと背後から呼ばれた気がして皐月は振り返った。

 誰もいない。気のせいだったと前を向きかけ、また呼ばれた。

 耳朶をくすぐる、低く、柔らかな男の人の声だ。

 気になって、土蔵の扉の方を見た。

 その向こうに広がる裏庭。

 穏やかな午後の光の中に、影がさした。

 逆光の中、誰か、立っている。

 そのシルエットに、胸の奥がひどくざわついた。

 風がまた吹き込んできて、背後の神棚の紙垂や神札が擦れ合う音を立てた。

「誰?」と聞くと、「皐月ちゃん」と答えた。その声は遠く、はっきりとは聞こえない。でもとても甘く優しく、誘うようだった。

 無意識に扉の方角に足を踏み出した時、ふいに大きな音をたてて、風が吹きこんだ。巻き上がった髪を慌てて抑え、皐月が顔を上げた時にはすでに扉に佇んでいた人の姿はない。一瞬にして、風に攫われてしまったようだった。思わず駆け寄るように扉の外に出て、辺りを見渡した。

 裏庭は来た時と変わらず、隅に生える草がかすかに揺れているだけで、誰の姿もない。

 でも、その人が誰か分からなくても、皐月がずっと会いたい誰か、だった気がして、たまらなく切なくなった。


 八十畳近くはあろうか、座敷には長方形の座卓が整然と並び、そこに喪服の人たちが頭を寄せ合うように集まっていた。テーブルの上の大皿料理をつついて、酒を酌み交わしている。皐月は依舞や従姉妹の姿を目で探しながら、酒が足りない卓に徳利を置いて回った。つい二、三日前にも顔を合わせた親戚が呼び止めるのをやんわり断っていると、ふと視界に、八重野の銀髪が飛び込んできた。護伯父と向き合って、何か話をしている。その両隣で本家に近い親族が頷いたりしているところを見ると、皐月が知らないだけで、風子伯母のように親交のある人も多いのだろう。彼がなじんでいることになんとなくホッとした時、こちらを向いた護伯父とばっちり目が合ってしまった。

「お、皐月ちゃん! ここ、ここ!」

 護伯父が大きく手を振って皐月を誘った。

 内心気が引けて、逃げる口実を探す。施主の護伯父が座るところは上座近くだということもあるけれど、その隣に八重野がいたのもその一因だった。

「なーにしてんだ、いいからこっちこっち!」

 護伯父の大声につられて周りの親族もそっちに行くように言い出す。親族の注目を浴びて、皐月は仕方なしに護伯父のそばへと近づいた。

「さきほどは、ありがとうございます」

 そばにきた皐月を見上げ、八重野が丁寧に頭を下げた。八重野の前には、数本のビール瓶だけでなく徳利と猪口が置いてある。だいぶ飲んでいるのだろう、その顔はかすかに赤らんでいて、男性なのに色っぽく見えた。

「主役の登場だっぺ。ほら、ここ座れ。ばあさんが可愛がっていた皐月ちゃんがいなきゃ話になんねえべ。手伝いばっかしてっから、もうだいぶ座も過ぎちまった」

 護伯父が八重野との間をあけて、軽く座布団をたたいた。

「女衆はそうそう腰を落ち着けてられないんだから仕方ないじゃない。おじさん、飲みすぎじゃないの?」

 軽く皮肉を言いながら腰をおろした。

「これで、ばあさんが可愛がっていた二人が揃ったべ」

 その言葉に、皐月は思わず八重野を見た。

 八重野は少し肩をすくめた。

「さ、皐月ちゃんも飲め飲め。そんでぇばあさんをしっかり送ってやれ」

 護伯父がビール瓶をとりあげて、慌ててグラスで受けた。ホップの香りが鼻先をかすめ、さわやかな苦みが喉をぬけた。知らないうちに喉が渇いていたのか、一気に半分ほど飲んでしまう。

「おお、おお、いい飲みっぷりだっぺなぁ」

「護おじさん」

 返すビールで、護伯父のグラスにも注いだ。そして八重野にもビールを傾ける。

「ありがとうございます」

 護伯父は、感慨深げに皐月と八重野のやりとりを目を細めて見つめていた。

「それにしても、皐月ちゃんはきれいになったなあ」

「もう冗談ばっかり。おじさん、だいぶ酔ってるでしょ」

 笑いながら受け流すと、護伯父はおもむろに八重野の方を見て同意を求めた。

「んなことねえっぺ。な、白彦くんもそう思うべ?」

「はい、とてもきれいです」

 思わずむせた。護伯父の世辞をまじめに返した隣を見ると、八重野は、静かに微笑んだ。あまりに人間離れした美しい顔だと嫌味など感じないのだと思った。

「やめてくださいよ、八重野さんまで。みんな、昔はお転婆だったとか、そんなことばかり言うくせに」

 照れ隠しになじると、護伯父はしばらく八重野と皐月とを見比べるように見て言った。

「昔は昔。今は今だべ。そんなんで、結婚もまだっつうんだがら、なあにが悪いんだべ」

「あのね、おじさん。今どきアラサーだからって皆が皆、結婚するわけじゃないの」

「でもばあさん、皐月の結婚こと、気にしてたかんなぁ。せめて彼氏の一人でも連れてこねえがって」

「おじさん!」

 慌てふためく皐月に、隣の八重野が堪えきれないように小さく吹き出した。初対面の八重野の前で、結婚だの彼氏だの持ち出されて、皐月は穴があったら入りたい気分だった。

「そういや二人とも同い年だしな、まあせっかくだし、ここは若いもん同士だな、交流深めてみたらどうだべか」そう言うと、護伯父は掛け声とともに腰を上げた。

「えっ、ちょ、ちょっとおじさん? もう行っちゃうの? まだ」

 護伯父を思わず引き止めた。

「他にも挨拶まわんなきゃなんねえんだ、残ってっがらよ。ま、仲良くやんなさい」

 満面の笑みを浮かべて皐月に笑いかけ、護伯父は去りしなに八重野の肩を軽くたたいた。

 困惑を隠すように、皐月は八重野に「なんかごめんなさい」と謝る。

「いいえ、護さんはたぶん僕に気を遣ってくれたんです、皐月さんと話したがってたの知ってるから」

「え、あ、……そう、ですか」

 戸惑って、つい間持たせに目の前の徳利に手を伸ばした。

「お酒、強いんですね?」八重野が横から手酌を制するように徳利を先にとりあげた。

「ええまあ……。あ、ありがとうございます……」

 恐縮しながら猪口で受けて、一口含む。ガツンとした辛口の日本酒が喉から胃へと焼くように落ちていく。今度は皐月が八重野に徳利を傾けた。地酒の美味しさが、つい精進落としだという場を忘れさせて、杯を重ねさせた。

「あの、もともとおばあちゃんとは仕事でってことでしたけど、どういう?」

「僕の家は、古宇里山のそばなんですけど、目の前がこちらの田んぼなんです。で、小さな頃からいろいろと米づくりを見てたりするうちに、僕もだんだん興味をもって」

「じゃあ……農業を?」

 なんとなく予想はしていたけれど、やはり八重野の雰囲気からは意外だった。

「ええ。家は普通のサラリーマン家庭なので、光子さんから指導いただく形で。学生の時に、農業がさかんな地域を巡ったりもしたんですけど、やっぱりここでできる米も野菜も味の濃さや栄養価が別格なんですよね。調べてみたら、どうやら気候だけでなく、地質や水質の条件が、ここで昔からつくられてきた米や野菜にとても適しているみたいで」

 八重野は猪口を傾けながら、穏やかにこの地での農業のことを話し始めた。その口調は、熱っぽすぎず、だからといって突き放しているわけでもなく、自分の生まれた地で生き、死ぬという当たり前のことを優しく愛しげに見つめているようだった。その語り口に、胸の奥にぬくもりを灯されたみたいに、いつのまにかひきこまれていた。

「有名な人が確か……言ってるでしょう? 人は土から離れては生きていけない。僕にとって、農業は、人そのものを生かしも殺しもする根源的で、とてもクリエイティブな仕事なんです」

「クリエイティブ、ですか?」

「ええ、どう捉えるかは人それぞれですが、より良いものを求めて手をかけた分だけ相手からの反応というか、応えてくれるんですよね。それに二度と同じものはできないんです。天候なんて毎年違いますし、それに伴って水質だって土だって、変わってきます。僕ら人間ができることなんて、自然の力に比べたら本当に些細なことだけなんですけど」

 話しながらも、八重野には日本酒の香りを嗜むような品の良さが漂う。

「農業って、実は繊細なんですね……」

「そうですね……、繊細というより、どうしたって自然は人智をこえたところにあるので……。米や野菜って人を直接つくるものでしょう? その日だけではなく、毎日毎日積み重ねて、それは五年、十年、その先にも人の体に影響を与え続けるものだから。それって、子どもを持つ女の人にとってはさらに大きなことで、自分が口にしているものが間接的に産む子にも受け継がれる。そういうふうにして、昔から人の体はつくられてきたんだと思います。だからできるだけ人間という動物に備わった自然に近い形で、体をつくる食べ物を口にするのが理想だなって……。遺伝子工学も医学も情報技術もあれだけ進んでいるのに、人体が本当に欲しているのは、最後には山や川や海が育んだものなんです。それが僕にはすごく興味深いんです」

 そう静かに語る八重野の姿に、既視感を覚えた。こういうふうに、語る人を皐月はどこかで知っていた。

「……私、祖父母が農家なのに、そんなこと考えたこともなかったです」

「僕はまがりなりにも農業でなりわいをたてていますし、なにより光子さんから教えをいただいている身ですから」苦笑しているけれど、皐月が得られなかった祖母との濃密な時間を過ごしてきたであろうその八重野の笑みは眩しかった。

「おばあちゃん、嬉しかったでしょうね。八重野さんみたいな方が農業を志してくれて」

「だと良いですけれど、よく怒られもしていたんですよ。そのやり方はここの土では米をだめにするとか、土の養分を生かしきれてないとか。もっとおおらかに捉えろ、とも……」

 怒られるというのは、それだけ相手のことを思わなくてはできないことだ。祖母は本当に、八重野に心を砕いていたのだろう。人生で培ってきた、あるいは先祖代々受け継がれてきた知恵やノウハウをすべて注ぎ込もうとしていたのかもしれない。でもそうしたくなる気持ちは、八重野の農業への想いの片鱗に触れただけでも分かった気がした。

「農業がお好きなんですね」

「そうですね。僕には、自然の循環に寄り添った人間らしい営みだと思いますから」

 祖母の眼差しを思い出した。自分の信じるものを真っ直ぐに見つめている強さと、そして深いところから世界を見つめる清澄さが、今の八重野の眼差しととても似ていた。

 祖母にとって、農業は大事なものだ。それが生きる糧だったということもあったろう。でもそれ以上に、八重野が言うように、人の営みから分かちがたいものとして捉えていた。

 人は、人以外の命で生き、そして人そのものに支えられて生きる。

「……うらやましいです、なんだか。私はおばあちゃんとは疎遠になっていたから」

 ぽろりと本音がこぼれた。こうして祖母に想いを馳せると、同時に苦い痛みも思い出す。

「でも、皐月さん。光子さんのことをひと時たりとも忘れてなかったでしょう?」

 忘れるはずがない。忘れることなんてできない。あまり良い別れ方をせずに、この世での別れになってしまったのだから。

 八重野は黙ってしまった皐月を優しく包むような眼差しで言った。

「その時の事情や背景、そこに渦巻く感情がどうあっても、心にかけているだけで違うと思いますよ」

「そうでしょうか?」

「相手を想う、というのは人の武器だと、光子さんがよく言っていました。例え会えなくても望んだ結果に繋がらなくても、それは巡り巡って、相手に通じるのだと」

 八重野の表情から、慰めるとか同情とかは感じられない。本当にそう思っているのだと分かり、皐月も本当にそうなのかもしれないと思い始める。

「光子さん、だから、折にふれて気にされていましたし、ことあるごとに、皐月は元気でやってっかなあとか、会いにいく時間があればなあと……。想っていれば、いつか皐月さんが帰ってきた時、例え自分がいなくなっても、この土地の稲や草木や鳥や、そういうものが……そして、僕みたいな他の人が、その心を伝えてくれるんじゃないかって……皐月さん?」

 気遣う声音が低い声にまじって、ハッとした。いつのまにか皐月の頬を涙が流れ落ちていた。止まらない涙を振り切るように慌てて天井を仰いだ。

 祖母はいつだって、自分を想ってくれていた。

 こうして、八重野という男性を介して、祖母はまたそばに寄り添ってくれている。

「……ああ、もう。私ってば情けない」涙をぬぐって立ち上がった。

「飲み過ぎました。ごめんなさい、少し外の風に当たってきます」

 八重野の反応を待たずに座敷を足早に出た。足元がおぼつかないけれど、玄関に向かい、外へとおりた。そのまま坂を下り、長屋門の前の道路まできて、歩をゆるめた。

 風が田んぼを渡っている。稲が揺れ、音を立てた。古宇里山は、昔も今も変わらず険しさと懐の深さをあわせもちながらそびえている。

 この景色を思い出すといい。そう言った祖母の言葉を思い出した。祖母の心が、この土地のあらゆるものに宿って、大きな腕の中に皐月を包んでくれている気がした。


 長屋門の下に佇んでいたのは、ほんの数分だった。でもぽつりと頰に冷たいものが当たって、皐月は天を見上げた。なにか予感を秘めたような青い空にはうっすらと掃いたような雲があり、ゆっくり流れている。

 またぽつりと、顔や腕に落ちた。

 雨だ。

 晴れ渡る空のどこから雨が落ちてくるのか、不思議に思ううちに静かに雨が降り始めた。

 めったにあわない天気雨が珍しくて、濡れないように長屋門の内側に身を寄せた。

 絹糸のように降る雨は、まるで祖母の死を悼んでいるかのように淡く優しい。目の前の世界が雨の色に染まり、濡れて命を輝かせている。それはこれまで知らなかった世界との狭間に沈んでいくかのようだった。

 でもその淵に沈む前に、細く高い音がきこえてきた。

 ひどく懐かしく、哀しいそれは、祭の囃子で聞く篠笛の音だ。目の前の光景とその音が胸の奥にひたひたと迫り、名づけられない感情が湧き上がる。思わず両腕で皐月は自分の体を抱きしめた。

 自分は、この光景を前にも見ている。この音を前にも聴いている。

「皐月ちゃん」

 後ろから低く柔らかな男性の声で呼ばれて、振り返った。

 誰もいない。

 でも優しく皐月のことを呼んだ、誰かがいた。

 そこに、いてほしかった誰か。

「皐月ちゃん」今度は近くで呼ばれた気がして振り返ると、八重野が早足で皐月に近づいてくるところだった。でも彼が、皐月をそんなふうに親しげに呼ぶとも思えず、まして離れたところから大声で呼ぶような感じでもなかった。

 戸惑う皐月に気づかず、八重野は皐月の前に立つと髪やジャケットの肩に落ちた水滴よりもまず心配そうに「大丈夫ですか?」と尋ねた。

 皐月の内面をのぞくように静かな深い瞳をしている。

「はい。なんだか雨が優しくて」頷きながら、軽く八重野の肩の雨粒を払った。

「ありがとうございます」

 八重野は少し驚いてからやんわりと微笑んだ。そして視線を皐月から長屋門の外に移した。皐月も再びその雨が降る光景に目を移した。

「お天気雨、ですか」

「そうみたいですね」

「……確かに、優しい」

 隣を見上げた。その横顔は、どこか張りつめていて美しく、また目眩のように既視感を覚えた。そんな自分に、小さな不安が胸の奥で生まれた。

「狐の嫁入り」雨を見つめたまま、八重野が呟いた。

 その瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。狐の嫁入りという単語が、耳の奥で谺している。

「お天気雨のこと、そう言います」

 八重野は、どこかもの問いたげに皐月を見た。

「狐の、嫁入り」鸚鵡のように無意識に返して、その気配を探すように皐月は雨の中に目を向けた。

 あの田を縫うようなあぜ道を葬列のように、古宇里山へ、彼らはいく。この世とあの世を行きつ戻りつしながら、人の世とは離れた存在の、狐の姿をした彼らは。

 そうぼんやりと思って、どきりとした。

 彼らとは、誰のことだろう。

 考えるほどに雨の匂いに閉じこめられて、次第に現実が薄い紗に包まれて曖昧になっていくようだった。

「変な話を、していいですか?」

 皐月の沈黙を破るようにして八重野が問いかけた。皐月が頷くのを待たず、八重野は雨を受けとるように長屋門の外に向かって手を差し伸べた、その動きを皐月は目で追った。

「僕の中には、この僕以外に、もうひとつ、別の、僕のだとは思えない……分からない記憶があるんです」

 雨はずっと繰り返し、八重野の手のひらをしとどに濡らし、水滴をしたたらせる。

「その僕は、……」八重野が言い淀んで、濡れ続ける手のひらを開いては閉じた。言おうかどうか激しく迷っているのが分かった。その沈黙は重く、皐月まで息苦しくなる。

 雨の音はやまない。

「……その僕は、人ではなくて」

 八重野の声が掠れている。そこで、八重野は自分の濡れている手のひらを見た。雨が彼の手のひらを打ち、涙のように地面へと流れ落ちている。八重野がひゅっと、息を吸い込んだ。

「狐、なんです。しかも普通のではない、その、なんていうか、特別な力をもった妖怪みたいな」

 そこまで言って、八重野は皐月に向き直った。皐月は、冗談かと笑おうとして、笑えない自分に気づいた。

 八重野の目が、嘘をついている目ではないことくらい、分かる。でもその先を聞きたいような、聞きたくないような、自分でもよく分からない感情が奔流となって出口を求めている。

「人ではないその僕は、あなたを、皐月ちゃん、と呼んで、」

 八重野は口がからからに乾いているように、軽く唇を舌先で湿らせた。

「あなたは、僕を、」

 ーーきよくん。

 降って湧いた誰かを呼ぶ言葉は、耳の奥で激しく反響して、皐月は動揺のあまり目眩を覚えた。

「きよくん、と呼んで。それで」

 どこか苦しそうに切なそうに、うわずった声で、八重野は続けた。

「それで、僕は、皐月ちゃんと呼ぶあなたを、とても……」

 八重野を見上げた。皐月の視線を受け止めるように、八重野は深く黒々とした瞳で皐月を見つめ返した。

「愛していました」

 愛してる。

 囁く声がよみがえった。

「……どうして……どうして、」身が強張り、一歩後ずさった。

「きよくん」そう口をついて滑らかにこぼれ出た呼び名は、とても愛しくて、口の中で甘く、淡雪のように溶けた。

「……知ってる。あなたのいう……、その彼を」

 声が震え、さらに指先の震えをとめるようにして皐月は自分の両手をにぎりあわせた、自分の人生に重なるようにして、初めて意識した、自分ではないもう一人の想いが流れ込んでくる。

 そのあまりにも強い想いに、ショックを起こしてパニックに陥りかけた。足元が覚束なくて、慌てて八重野が腕をのばして、皐月を支えた。

「皐月さん、大丈夫ですか?」

 思わずその腕にすがり、八重野を見た。

 いったい自分の中にいる、このもう一つの記憶は、誰のものなのか。

「混乱するの、分かります。僕もそうでした。僕は人間の八重野白彦として生きてきたのに、いつからか、もう一人の記憶も想いも知らないうちに重なっていて。僕は誰だ、この記憶はなんだ、と、繰り返し問いかけて問いかけて……」

 葛藤で苦しむこともあったはずなのに、それを見せない穏やかな声音と手から伝わるぬくもりに、逆に彼がどれだけの長い時間、そのことと向き合ってきたのかが垣間見えた。そう思うと激しく動揺する気持ちが少しずつ和らいでいく。八重野は、皐月が鎮まるのを待って、そっと囁くように言った。

「……僕がいます」

 八重野の手にかすかに力が入って、顔をあげると、八重野は何かを抑えるように張りつめた顔で皐月をまっすぐ見ていた。

「僕なら、きっと、分かってあげられると……」

 知らず息をつめた。

「正直、今は本当の僕がどちらなのかとか、どちらがどうとか、もう分からない……。分けられるものじゃないと、ようやくそう受け入れられるようになったのは最近です。でも」

 八重野は腕をつかむ皐月の手の上に、一瞬ためらってから自分の手を重ねた。

「いつだって、あなたに会いたかった。小さな頃からずっと。光子さんに皐月さんの話を聞くたびに、本当は会いたくて仕方なかったんです……」

 八重野は堰き止めていた気持ちを言葉にすると、視線を重ねた手に落とした。

 ずっとこの人は、独りで、待ち続けていた。抱えた想いの出口を見つけられないまま。

 自分の中にあるもう一つの記憶や想いがあふれ出して、涙になって頰を伝い落ちた。

「きよくん」呼ぶと、八重野がハッと皐月を見た。

「そう、呼んでいたんですね、私」

 八重野が待ち続けてきた時間の、その孤独を、皐月の中の皐月は、知っていた。皐月の中のもう一人なら八重野の痛みを感じとれた。

 その孤独を、その痛みを、その哀しみを、皐月だけが受け止められる。

 それが愛と呼べるものなのか、今はまだ分からない。

 でも皐月の中のもう一人が、どうしようもなく会いたかったと泣いている。

 そのことが、ただ苦しく切ない。

 重ねられた八重野の手をとった。

 このしなやかな指先がひんやりと、皐月の頰に愛しげにふれていたことを思い出す。語る言葉の裏に、孤独な戦いを知る人の、いつも相手を穏やかに優しく包みこむ眼差しがあった。自分で選んだ道の険しさを、独りで背負おうとしていた弱さも思い出した。

 仲間を失い、古巣を失い、それでもいつか会いたい人に会えると信じて一人生きてきたその強さが、その淋しさが眩しかった。

 そっと八重野の手を握り返した。八重野の瞳が揺れて、さっと顔を俯けた。

 今はもう、その瞳は金色には輝かない。

 これからどうなるのか、そんなことは分からない。白彦に皐月ちゃんと呼ばれた皐月は、今の皐月でもあり、違う皐月でもある。白彦もまたそうだろう。だから同じ道を通らないかもしれない。でも通るかもしれない。

 どんな未来が待っていても、今はこの人のそばで、この人が見つめるものに寄り添いたいと、皐月は一抹の喪失感とともに思った。

 何かを堪えるようにして顔をあげた八重野が、すべての力をぬいたようにして、皐月に柔らかな笑みを向けた。よく見知ったその静かで優しい表情に、皐月の胸の奥がつまる。

「……触れても?」

 ささやいて、八重野が一歩近づいた。

「もう、触れてます」

 思わず小さく笑って、重ねられた手をわずかにあげて見せた。

 八重野も「確かに」と小さく笑い、そして皐月の手を引き寄せ、それから体を抱きよせた。

 懐かしく、切なく、哀しい。胸の奥を揺らす、遠い想いが満ちてくる。

 八重野の腕の中で目を閉じた。

 遠くで、キツネが鳴いた。まるで呼ぶように長くこだまする、哀愁のある鳴き声。

 八重野は淋しげに、古宇里山の方を見つめていた。視線を追うと、その裾野の辺りで白く雨煙の中に揺らめく、横に並んだ黒い点々が見えた。

 一列に並ぶ、複数の人影。

 ゆっくりとそれは増えて、長く、とても長く横一列に並んだ。そしてゆっくり動き出して、古宇里山をぐるりとまわる農道を歩き始めた。

 まるで葬列のように、しずしずと、しずしずと。

 すぐにその列は、濃く立ちこめた靄が隠されていく。

 あれがなんなのか、今の皐月なら分かる。

 狐の嫁入り。

 もしかしたら人よりも人らしいかもしれない、人が見なくなった闇のそばで呼吸する、異界のものたち。いつも傍らに控えて、ふとした瞬間に交差するかもしれないものたち。

「いつか……会いにいきましょう」

 八重野を見上げて、言い聞かせるようにはっきりと言った。八重野は少し驚いたように皐月を見つめ、それからおもむろに「……そうですね」と目を細めて微笑んだ。

 古宇里山から続く田んぼの景色にもう一度目を転じた。そこにはもう靄も、もちろん狐の嫁入りもなかった。ただ茫漠と広がる青い波が、雨に濡れて、きらきらと光っている。

 いつのまにか雨がやんでいた。

「雨、」

「やみましたね」

 あぜ道や舗装された農道のところどころに空を映した水たまりが光っている。その光景をつくってきた人も獣も、虫も草木も、そして人でないものも、すべてが身近に感じられる。聞こえないはずの命の呼吸さえ肌で感じられるほどに、いつも本家に来れば見慣れてきたはずの光景が、今はとても鮮やかだった。

「……とても、きれいだ」

 八重野が小さく呟き、人と自然とが何百年何千年と受け継いできた景色に感動する皐月をさらに抱きよせた。その腕の力強さに、皐月は心の底からホッとしたように体から力を抜いて、身を預けた。それがすでに自分になじんでいることを、皐月はもう不思議とも思わなかった。

 話すべきことも、語るべきこともたくさんある。

 でも二人には時間もまた、たくさんあった。どんな形でも、二人はまた出会い、また手を繋ぐことができた。その奇跡が、これからの道を指し示しているようだった。

「……本当に、きれい……」

 この地の、そして日本のどこにでもあるあたりまえの田園風景。はるか昔から、たくさんの命が築いてきた、そしてそれを受けとった今を生きるものたちが繋いでいく営み。

 その尊さを胸に抱いて、皐月は寄り添う白彦とともに生きていく。

「八重野さん」と呼ぶ皐月と、「きよくん」と呼んだ皐月と。

 いつかまた狐の嫁入りが二人を呼ぶ時まで。



(了)

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狐の声がきこえる ゴトウユカコ @yukakogoto

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