あなたのおなまえ
東 京介
あなたのおなまえ
『佐藤』という名前は日本で一番多い苗字として知られている。『山田』だとか『田中』だとか、もっと多そうな苗字はありそうな物だが、それらを差し置いて自分の苗字が日本一の称号を持っていることに幼心を躍らせたものである。
『
苗字は日本一。名前は上位の数を誇る。
言い方を変えてしまえば平凡でどこにでもある名前なのだが、俺……佐藤 博はこのありふれてどこか古風な——日本的な名前を気に入っていた。
『今、若者たちの間で流行している言葉、「シワシワネーム」について調査しました! シワシワネームというのはキラキラネームの……』
ずずず、と独特の香りを漂わせる細麺をすすりながら、店内の片隅に置かれたテレビに目線を向ける。
テレビからは女性アナウンサーの嬉々とした声が流れ続けており、画面には人名が羅列され、バラエティ的な紹介が行われていた。
「お、「博」だってよ。シワシワなんだなお前の名前」
「うるせえ。お前だって今に……そら見ろ。「
カウンター席の隣に座る男……山田 実 はラーメンを食べながら軽口を叩く。
時刻は真昼間、新卒社員の俺たちは昼休みに行きつけのラーメン屋で昼食を摂っている。
テレビのシワシワネーム……つまり、『若者から見た古臭い名前』特集に自分たちの名前が出た事で山田との会話は盛り上がり、賑やかな昼食となっていた。
「シワシワなぁ。なんか老人扱いみたいで嫌だな」
「でもこれ言ってんの俺らの同世代だろ? 世の中分からないもんだ」
ヘラヘラとした笑みを浮かべながら、山田が演技がかった微笑を漏らす。
自分たちの名前がおかしいように思えてきたが、俺から見ればシワシワネームよりも『キラキラネーム』の方が数倍異常だった。
例えば「皇帝」と書いて「かいざあ」、「美音」で「めろでぃ」。おおよそ見当もつかない当て字で構成されるその名前が近年増えているのだと言う。
彼らの言う古い名前を持つ俺にとっては、その名前は余りに奇抜すぎるのだ。初めて西洋文化に触れた過去の人々もこの様な心持ちだったのだろうか、そう考えると何だか感慨深い気もするほどである。
「山田はキラキラネームってどう思う?」
自然な流れで山田に是非を問う。同じ古い名前を持つ者として、同士は増やしておきたい。
増えたからと言って何もないのだが。
「俺? 別に……何とも思わないな。流行ってるなら流行らせとけば良いんじゃねーの」
淡白な反応。少しは同調してくれるかと期待したが、山田は寛容な男だった。時代の流れを見守るのも重要なのかもしれない、と自分の考えを少しだけ諌め、背脂の浮いた汁を口に運んだ。
『——ニュースの時間です。国会で審議されていた改名手続の条件緩和が承認され……』
「っと、そろそろ戻ろうぜ」
ニュースの音声が流れ始めると同時に山田が席を立つ。それに着いて行く形で会計を済ませ、そのまま会社へと戻った。
午後の業務もいつも通りのデスクワークに終わり、平凡な日常が過ぎて行く。オフィスのドアを抜ければ陽の落ちたネオン街が目を刺し、薄汚れた安アパートのドアをくぐれば慣れ親しんだカビの匂いが鼻を突き、薄い布団の中で眠りに落ちる。
平和で、安定した日々だった。女の一人や二人居てくれれば華やかな生活は手に入るだろうが、安定は得られない。俺にはこれが性に合っているのだ。しみじみと思いを巡らせながら、今日もそっと目を閉じた。
ある朝、目を覚ましてテレビの電源を入れると、信じ難い文章が目に飛び込んできた。
『空前の改名ブーム! 増加するキラキラネーム』
「はあ……?」
改名ブーム、という聞き慣れるはずのない言葉に顔をしかめ、それに続くキラキラネームの単語に目を見開く。
どうやら世間で自分の名前をキラキラネームへと改める人が爆発的に増加しているらしい。そういえば少し前に改名の申請条件が緩和されたというニュースを聞いた気がしたが、だからと言ってこの流れは明らかに異常だった。
スマートフォンを開いてネットニュースを確認してみると、同様の記事が乱立していた。昨日までこんなものは無かった筈だ。
しばらく寝間着のままで思考を巡らせたが、なぜこのような現象が起こったのか皆目見当がつかない。諦めて立ち上がり、アイロンのかかったスーツに着替える。
ぼんやりとしたまま部屋を出て会社へと歩いていると、通学中であろう高校生の集団からこんな声が聞こえてきた。
「ママに頼んで名前変えてもらっちゃった! これからは"てぃあら"って呼んでね!」
なんということだろう。俺は思わずそちらを振り向きそうになった。
ニュースは本当だった。こうも簡単に名前を変えられてしまうものなのか。
嫌な予感がする。もし会社の人々がこんな名前になっていたらどうしようか、もしも同僚が、課長が、社長が——
別にそうであったとしても俺自身に影響はない。理屈ではそう分かっているが、どうしても嫌な感じがした。これを生理的嫌悪と言うのだろうか。
そうこう考えている内にビルの中に入り、目の前にはオフィスのドアが迫っていた。
ごくり、と唾を飲み込み、ドアノブに手を掛ける。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせながら手を捻り、平気を装ってオフィスに突入した。
「おはようございます!」
いつもの笑顔にいつものトーン。完璧だ。俺の挨拶に呼応して挨拶が返って来るが、今日のそれは一つの場所から塊となって向かってきた。
そちらに視線を向けると、ある女性社員の周りにオフィスの人々が群がり、わいわいと談笑しているのが目に入る。群れの中から山田がひょっこりと顔を覗かせ、明るい顔でこちらに手招きをしていた。
「おう、おはよう! こっちこっち!」
呼ばれるままにそちらに歩み寄ると、その中心には女性の先輩社員である加藤さんが佇んでいた。普段も元気な人だが、いつにも増して嬉しそうに見える。まさか、だ。
「加藤さん、名前変えたんだって。花子から"はーと"に!」
そのまさかだった。
「良いなあ、私も変えようかな〜」
女性社員の羨む声が耳に入る。頭が痛くなりそうだった。これ程までに一つのブームに影響された事があっただろうか。
「どうかな?」と加藤さんに聞かれたが、素早い返答は出来なかった。ワンテンポ、いやツーテンポ遅れてやっと「良いと思います」という何の捻りもない感想が絞り出せた。完全に動揺している。
何より解せないのは、俺の他にこの現象に批判的な考えを持っている者がいない事である。一人くらい居ても良いと思うのだが、こうなってみると自分がおかしいという考えが現実味を帯びてくる。
「なんだ佐藤、具合でも悪いのか?」
「あ……いや、平気だ。疲れてるだけだよ」
山田が怪訝な表情で俺の顔を覗き込む。咄嗟に顔を背けて言い訳をし、崩れていたであろう表情をきゅっと引き締めた。
盛り上がりにもひと段落つき、いつも通りの業務が始まる。デスクで書類仕事をし、時間が来れば取引先への挨拶に向かい、定刻通りに仕事を終え、帰宅する。
何の変哲も無い日常の筈だが、俺には空気が重かった。頭の中で疑問符が踊り狂い、普段通りに振る舞うのが苦しくなってくる。「お疲れ様です!」と声を上げ、足早に、逃げるようにして帰宅した。
帰路で聞こえてくる雑踏の響音から「改名」という単語だけが鮮明に聞き取れる。なぜこんなにも意識してしまうのか、それすらもよく分からないままだった。
家へと帰り、糸の切れた人形のようにソファに倒れ込んだ。一日過ごして分かったが、どうやらこの流れに疑問を抱いているのは俺だけのようだ。恐らく周りに居ないだけだろうが、見つからないのなら居ないことと大差無い。
テレビを付けると、おおよそ朝と同じニュースが流れて来る。ネットニュースを確認しても同様だ。一つの記事をタップし、スクロールしながら斜め読みをして行く。最下に辿り着いて画面が止まると、コメント欄のある言葉に目が留まった。留まってしまった。
『シワシワネームダサいから変えられて良かったわ』
ずしり、と身体が重くなるような感覚。自分が貶されたようで頭に血が昇るかと思いきや、不思議と血の気は引いていった。
これだ。そう思った。自分がこの現象を意識し過ぎる理由は恐らくこれが原因だ。
ダサいなんてそんな筈はない。歴史のある、日本的な、素晴らしい名前だ。もちろん自分ではそう思っているが、周りはきっとダサいと思っているのだろう。心のどこかでそんな意識を持っていたと気付いた。
俺はこの名前に誇りを持っている。今更改名するなどあってはならないことだ。そう反復しながらのそりと寝床に入った。その夜はとても暑く、寝苦しかった。
次の日出勤すると、またオフィスに一つの群がりが形成されていた。嫌な予感を通り越してある種の確信が持てた。また誰かが改名したに違いない。
「おはようございます! どうかしたんですか?」
入社一年目らしく、かっちりとした挨拶を投げかけながら群へと近付いて行く。その中心にはいつものヘラヘラとした笑い顔を浮かべる山田が立っていた。
「おはよう! 聞いてくれ佐藤、ビッグニュースだ」
「ビッグニュース?」
とぼけた顔で反応してみせる。どうせ女性社員の改名だ。
「そう、俺今日から"
言葉を失ってしまった。
まさか山田まで改名するとは思っていなかった。山田もシワシワネームを『ダサい』と感じていたのだろうか。
自分がどのような顔をしていたかは分からないが、さぞ間抜けな顔だったことだろう。俺は勢いに任せて山田を廊下まで連れ出してしまった。
「お、おい? なんだよ急に」
「お前、なんで改名なんかしたんだ!? 自分の名前嫌いだったのかよ、なあ!」
昨日昇らなかった血が爆発したように流れてくる。困惑した様子の山田をよそに、俺は早口でまくし立てた。名前がダサいなんて考えたくない。誇りの名前なのだ。
「待て待て、落ち着け。そんなんじゃねえよ。このキラキラネームってやつが良いと思ったんだよ、文字通り輝いてるだろ?」
「輝いてる……?」
山田の言葉に少し気を収め、乱れた呼吸をなんとか整えようとする。それに言い返してやろうと息を吸った瞬間、背後から落ち着きの篭った声が響いてきた。
「おはよう。どうしたんだ? そろそろ就業時間だぞ」
課長の声だった。二人同時におはようございます、と頭を下げ、無言で顔を見合わせる。少し間が空いて、山田が改名の事について課長に話し出した。止めようかと思ったが少し遅かった。
「ふむ……? 佐藤くん、君は改名が非だと思うわけだね?」
「いえ、そういう訳では……」
心の中でその通りだ! と吐き捨てたが、本心は語らないでおく。課長は少し眉をひそめながら俺の目を真っ直ぐ見つめていた。
「……実はね、私も変えてみたんだ。うん、良いものだよ現代の名前と言うのは。明るい気持ちになれる」
課長も改名したと言うのか。ここまで来るともうダメだ。自分が異端であると認めざるを得ない。崖に突き落とされた気分だった。恐らくその失墜感が顔に出てしまっていたのだろう。課長は悟ったように一つ頷くと俺の肩にぽんと手を置いた。
「この風潮はね、君が思うような改悪じゃないんだ。革新……いや、革命に近い。日本文化を払い、新たな風を吹かせたんだよ」
課長が改名の素晴らしさについて熱弁するが、最早熱心に聞く振りをする気さえ起きなかった。肩に置いた手が妙に重く思え、鬱陶しさまで感じさせた。
「一つの考えに囚われるのは辛いだろう」
次に課長が発した言葉が耳を震わせ、心臓をちくりと刺した。
「君は若いんだから、もっと寛容にならねばいかんよ。時代の流れに意地を張りたくなるのも分かるがね」
ただの意地っ張りだったのだろうか。本当は自分も改名に興味を持っていた、と?
否定は出来なかった。ダサいと呼ばれるなら、輝かしい、時代の名前に変えてしまったほうが良いと思っている自分がいることを否定出来なかった。
「まあ、私個人の意見だよ。君が反対するのは自由だが——」
「……課長、そろそろ就業時間ですよ」
課長の話を断ち切り、横で話を聞いていた山田を尻目にオフィスへと戻る。
散々振り回されてしまった、馬鹿馬鹿しい。こんな問題もうどうだって良い。真面目に向き合った自分が馬鹿だった。そう思えた。
後に続いて課長と山田がオフィスに入り、課の朝礼が始まる。会社のことも今この時は頭の片隅まで追いやられていた。ただ終わってからの事を考えている。
さて、どんな名前が良いだろう?
あなたのおなまえ 東 京介 @Azuma_Keisuke
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