完全版 ガラス瓶越しの恋

十五 静香

1

 僕には好きな人がいる。

 毎日、朝と晩に彼女が理知的な瞳で、僕の体の隅から隅までを観察する度、僕は全身が激しく躍動するのを止められない。


 男子中学生みたいな助手を伴い、彼女が出て行った途端、隣のおじさんが歌い出した。

 おじさんは、手術の後遺症なのか、精神が壊れてしまっている。何度か試みに話しかけたことはあるが、通じなかった。眠っている時間が長いが、目覚めると調子外れの『ああ、甲国』の2番サビをエンドレスに口ずさむ。

『ああ、甲国』は僕らの国の国歌だ。大昔、初代甲国王が率いた革命軍の軍歌だったと教えられた。


 我らは進む 心臓が止まるまで

 ああ、神の国甲国、甲国

 我が祖国


 うるさい国粋主義者を黙らせてくれる人はいない。疲れて眠ってくれるのを待つしかない。

 僕の声もおじさんの声も、聞き取れる人はごくわずかなのだ。熱心に観察している彼女にすら、僕らの声は届かない。


『うるせえよ、クソジジイ!』


 新入りのカンナギという名の同居人が怒鳴ったが、歌はやまない。

 彼は甲国で配管工をしていたが、徴兵され、転戦中に乙国の捕虜になり、研究所に連行されてきた。

 いつも苛立っていて、何で自分がこんな目に遭わなくてはならないのかと、自己の不運を呪い、乙国や研究所の人達への憎しみを露わにする。

 何度、僕らは人間の最終形態への進化を許された特別な存在だったからだと説いても、受け付けない。毎日、飽きずに同じ愚痴を繰り返す。

 そして、言葉を理解できないおじさんに向かって怒鳴り、歌を止めようとする。

 彼もまた、故障している部分があるのかもしれない。


 ああ、神の国甲国、甲国

 我が祖国


 歌声は止まない。心臓だけになっても、愛国の炎は消えないらしい。



 ある朝、僕らが暮らす標本室に研究員達や乙国の憲兵達が忙しなく駆け込み、怒鳴り合いながら、生体標本の瓶を次々に運び出し始めた。

 国歌を歌っているおじさんも憲兵に瓶ごと抱えられ、どこかに連れて行かれた。

 ただならぬ状況に、僕もカンナギも不安になり全身が収斂した。


『おい、何が起きているんだ? 俺たちをどうする気だ』


 小声でカンナギが尋ねてきた。


『多分、甲国がもうすぐこの研究所に攻め込んで来るんだと思う。だから、まずい研究の証拠となる標本を処分しようと慌てているのさ』


『待てよ! 俺達は……心人類しんじんるいは生きているんだぜ』


『僕らが、およそ許されない非人道的な人体実験の証拠であることに変わりはない。覚悟はしておいた方が良いね』


『……』


 心人類とは、心臓だけになっても、栄養補給のできる特殊な装置がついた瓶にさえ入れておけば、生命活動を続けられてる希少人種のことだ。

 詳しい仕組みは分からないが、脳を始めとした他の器官と切り離されても、心人類は五感を維持し、思考し、人格を保てる。心人類同士若しくは、僅かな人間とは、言語での意思疎通も可能だ。

 乙国は捕虜として捕まえた甲国人から素質のある者を選抜し、心臓のみを切り離し生態を調査していた。


 男たちの怒号が飛び交う標本室に、青ざめた顔の彼女が入ってきた。

 一直線に僕の瓶の前にやってくると、白く華奢な手がガラス瓶を撫でる。

 瓶の中の僕を愛撫するかのようなエロティックな手つきに、僕は彼女と初めて会い、恋に落ちた瞬間を思い出す。


 解剖台の上で麻酔をかけられ意識を失い、目を覚ました時、最初に僕が認知したのはゴム手袋をはめた微かに暖かい掌の感触だった。続いて、手術用帽子とマスクの間からこちらを見下ろす女の双眸が見えた。

 その目は熱っぽく、じっとりと潤んでいた。

 きっと、彼女の白衣の下の下の、そのまた下くらいにある下着はぬるぬると湿っているに違いないと思った。

 淫靡で背徳的な女の性を、剥き出しの体にぶつけられ、僕は興奮し、大きく脈打ったのだった。


 暫し、瓶を撫でた後、彼女は意を決した表情を見せ、行ってしまった。

 その後、僕もカンナギも瓶ごと木箱に入れられ、どこか遠くに運ばれた。




『あなたはどうして私を許すどころか、愛してくれるの?』


 隣の瓶から乙国訛りの女の声がした。僕は優しく答える。


『初めて会った時、君が僕に惚れたように、僕もあの時から君にぞっこんだからさ』


『私はあなたに非人間的なことをした不道徳な女よ』


『そうだね。君はいつか死んだら地獄に落ちるだろう。けど、神様が許さないからって、僕が君を愛してはいけない理由にはならない』


『……解らない』


『構わないよ、こうしてずっと隣にいられるのだから、それで十分だ』


 甲国内の軍事研究所の最奥部。僕たちは、乙国の非人道的な生体実験の証拠として、何十年も並んで安置されている。

 乙国の研究所が陥落する直前、彼女は同僚に頼み、自らも心人類となり、ここに運び込まれた。

 心臓だけになっても、彼女だとすぐに分かったので、僕は再会を喜び、歓迎した。

 最初は戸惑っていた彼女が徐々に心を許してくれるようになったのは、当然の成り行きだった。彼女もまた、僕を掌に乗せた時から、僕に恋をしていたのだから。

 だが、たまに不安になるようで、今みたいな僕の愛情を試す質問をしてくる。

 国歌を歌うおじさんや死んでいる標本がどこに行ったのかは知らないが、カンナギが甲国一の大学の研究室で健在だという話は聞いている。



 資料室のドアが開き、背広姿の初老の男が入ってきた。


『甲国大統領のくせに、こんなところに通って良いのかしら』


『彼は元は医学者だ。平気だよ』


 彼がいるのに、彼女は無防備に疑問を口にする。

 まあ、彼が貴重な、僕らの声を聞き取れる人間だというのは知らないので仕方がない。

 そして、彼が自分の助手だったことも、分かっていない。


 僕は研究所にいた頃から、彼の正体に気づいていた。

 僕らは偶然にも面識があった。下っ端の兵士と甲国特務機関員として。

 僕は乙国人医学生に扮していた彼に、捕虜収容所から研究所に送られ、心人類になるまでで集めた機密を流し、甲国軍による襲撃を中から手引きした。

 朝晩、彼女が美しい顔に一瞬だけ浮かべる、心人類への憧れの色を信じ、僕は彼女が肉体を捨て、ルビーの如き鮮やかな肉塊になり、隣の瓶の中に浮遊する日を夢想し、そのきっかけ作りの為だけにスパイの真似事をした。


『不道徳はお互い様さ。僕は未だに君が鼓動する度に興奮する』


 あけすけな告白に、彼女は嬉しそうに身を震わせた。



 了

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完全版 ガラス瓶越しの恋 十五 静香 @aryaryagiex

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