愚かさと幸福

夜雨

愚かさと幸福

「きみはどう思う」


 彼は笑って、わたしに問いかけた。その笑みがあまりにも強張っていたから、わたしは率直に言ったのだ。ふん、と鼻も鳴らして。


「愚かですね」


 彼を嘲っているつもりなのに、血溜まりの中映ったわたしの顔は心なしか哀しそうだった。




 きゃあきゃあ、と甲高い声で騒ぎながら子供達が勢いよく走ってくる。お祈りの時間を終えて教会から出たところらしい。ぶつかりそうになったわたしは慌てて身を翻し、彼らとの接触を回避した。


「走ってはいけませんよー」


 気の無い声だ。我ながら「とりあえず言っとくだけ言っとくか」という雰囲気が透けて見える。それほど大きな声も出さなかったので案の定子供達は―――聞こえていないのか無視しているのか―――そのまま駆け去った。

 明るい日差しの中わたしは一つ嘆息をして、けれども楽観的な性格ゆえに気にせず教会の中へ踏み込んだ。


「神官さまー」


 建物の中は冷んやりとした空気で満たされている。外を照らす眩しいお日様と違って教会の中は薄暗いから、余計に日差しを浴びるステンドグラスがきらきらしているのが見えた。綺麗だな、と単純な感想をいつも抱く。

 この教会は村の規模に合わせて小さめだ。だからステンドグラスも小さくて比較的しょぼいものなのだけれど、それでもわたしは感動に似た何かを胸の中に納める。

 床を叩く、こつこつというブーツの音は少し鈍くて「これは買い替えどきか」なんて思った。


 ふと、手を伸ばす。神さまと、天使と、悪魔。天使は白くて、悪魔は黒い。黒のステンドグラスなんてあったのか―――どうでもいいことを考える。だって違うのだ。悪魔の色は、もっと綺麗な。



 うつくしい、黄金きん色。



「アザリー」


 反射的に手を引っ込めた。振り返れば、入り口に逆光になって見えにくいが、見間違えるはずもない人。


「神官さま」

「もう帰ってきていたのか。僕も早めにとは思っていたんだけど」


 神官さまが歩いてきてわたしの頭をくしゃりと撫でた。あったかくて大きな男の人の手だ。乱暴、と音に出さず呟く。


「遅いですよ、お昼ごはん食べ損ねちゃったんですけど」

「うん? わざわざ僕を待ってたのか?」

「あったりまえじゃないですか」

「あちゃあ」


 笑いながら言うが神官さまには反省の色は含まれていない。全くこの人は、と軽く彼の体を殴る。相変わらずかたい。鋼の肉体と雖も、こんなに鋼っぽい人ってそうそういないだろう。


「反抗期か、アザリー」


 榛色の目が笑っている。ニヤッと歪めた口元が明らかに笑っている。勿論、言葉の調子も笑っている。彼は温もりをもって、愉快愉快と笑うのだ。

 また子ども扱いをして。これでもわたし、そこそこ生きているんだけどなあ。神官さまがわたしより年上だからって、その年数はちゃんとあるのに。


「もう反抗期の歳じゃありませんー。幾つだと思ってるんです」

「……十二、とか」

「結構本気で子どもだと思ってるじゃないですかっ!」


 信じられないぞ、この男。身体だって彼と出会った時よりかは成長している。

 据わった目でじっとり見上げてやると、折角優しげな顔を持っているのに全部台無しになる悪戯心いっぱいの笑顔を浮かべるのだ。子どもっぽいのは神官さまの方じゃないか。……でもこの顔をされると、なんだか許してしまいそうになる。


 ええい拗ねてやる。おろおろして困ってしまえ。

 口に空気を詰めて頰をぷっくり膨らませる。栗鼠みたいだと前に笑われたことを思い出す。あの時は仕返しに貰い物の栗をたんまり食べてやったんだっけ。

 さあどう出る、とちょっぴり身構えたら、頰を勢い良く挟まれる。神官さまの両の手で。ぷひゅ、と間抜けな音が口から漏れた。


「頰が膨れてると不細工だと思ったけれど……凹んでても不細工だ!」


 けらけら笑いながら、数年前から変わらず女の子に言ってはいけないことを言う男だった。余計なお世話だ。


 手を狭められ、頬骨を皮膚の上からぐりぐりされる。痛くはないが変な感じというか骨がうまくはまらないようなヘンテコな感覚に陥るからやめて欲しい。

 神官さまの手にわたしの手を添えると、やっぱりわたしの手のちいささを実感する。あったかい温もりに、なんだか安心するのはなんでだろうな。沈黙が落ちた。黙っていても、わたしたちは何ら気まずい雰囲気にはならない。それは多分長い時間を付き合ってきたからなんだと思う。ああ、けれど数年だ。わたしより長く生きている神官さまにとっては瞬きみたいにとても短い時間なのかもしれない。


 それはそれとして、この手、どけてほしい。わたしが力一杯手を引き剥がしにかかると、神官さまの手は拍子抜けするくらいあっさり離れる。神官さまにしては諦めるのが早い。不思議に思って、力が緩む。温もりは離れ、そのまま手はすすす、と下に降りて行って。


「……結構でかいから、不細工でも嫁の貰い手はあるさ。心配いらない」


 男の手はわたしの胸で止まっていた。服の上からでもわかる女らしい盛り上がりだけど、触ってみると神官さまの予想よりでかいらしい。

 つーか余計なお世話だ、クソ野郎。

 

 わたしはにっこり微笑むと、親愛の情をありったけ込めて目の前の男に拳を振り上げた。


 *


「まだ機嫌は治らないのか、アザリー」

「治るわけがないでしょう。馬鹿ですか?」


 夕食時。神官さまはビーフシチューを頬張るわたしを見ながら不満を零した。だがその言葉はわたしの怒りを逆撫でするだけである。わたしとて女としてのプライドはある。というか、わたしだからアレだけで済んだわけで、場合によってはセクハラで訴えられても全くおかしくない。セクハラ野郎め。訴えないのはひとえにわたしの優しさによるものと覚えて欲しい。


「訴えないのはお前が訴えられる立場にいないからだろう」

「人の心読まないでくれます!?」

「読んでるんじゃない、垂れ流しなんだ」


 と、宣う男は魔法が使える。多分心を読むのもそうしてやったんだろう。悪魔の御技。そう呼ばれて歓迎されたり、忌避されたりもした力は、もう殆どその使い手がいない。わたしの知る限りでは神官さまくらいである。何故かって、それはその由来を考えれば簡単なことだ。


『神秘』はもう、消えるのだから。


「よし、僕を殴れ」

「……?」


 もしかして、遂に頭がイカれたのだろうか。元々その兆候は見え隠れしていたが……。

 世の中には殴られたり罵られたりという行動で快感を得る人間もいるというし、つまりその類に仲間入りしたということか。哀れな。


「……勘違いしているだろうが、殴られたくて言ったわけじゃない。きみの機嫌を治すためだ」


 神官さまは真顔である。珍しい真剣な顔に、わたしも驚く。まさかあの神官さまがわたしの機嫌をとろうとするなんて……!

 機嫌どころか変なちょっかいの多い神官さまが。


「頭打ちました?」

「頭おかしくなった疑惑は捨て去れ」


 神官さまは依然として真顔である。つまり本気。神官さまがいいと言うなら、日頃の感謝的な何かもぎゅぎゅっとつめた特別な拳をお見舞いしよう。それこそがわたしのなすべきことよ。

 力を込める。身体の隅々にまで血が巡っているのを感ずる。左胸の心臓から手足の末端まで。ふーっ、と鋭く息を吐く。


「いやちょっと本気すぎじゃ」

「行きますッ!」

「まだ心の準備が」


 神官さまが何かごちゃごちゃと喋ってていたが関係ない、わたしはわたしのなすべきことを成すのみ。つまりこれだ。わたしは拳を沸騰した血の命ずるままに振りおろした。



 あとで特大のこぶをつくった神官さまにめちゃくちゃ怒られた。


 *


 夢を見た。懐かしい、夢を。



 闇夜のような黒い髪、汚れひとつない白い神官服、月明かりにステンドグラス。ぼんやりとそれらを見上げる。

 体に力が入らない。当然だ、広がる血溜まりは紛れもなくわたしのものなのだから。随分手酷くやられたな、と痛むどころか燃えるように熱いとしかわからない脇腹を目を瞑って意識から消し去ろうとする。


 こつ、と床が鳴る。近づいてくる、気配でわかる。

 ああ、早く終わらせてくれ。探したものは見つからなかったけれど、あのまま無為に消費されるだけの生より、自由な死の方がよっぽどいい。


 もう体も動かない。逃げられないし、そんな気分にもなれない。


 けれどその男は、わたしに言った。


「生きたいだろう」


 疑問ではなかった。それは彼にとって確定した事実であるかのようだった。

 違う、とわたしは答えたかった。わたしはどうしようもなく、死にたいのだと。


 男の気配が酷く近くにある。跪いてわたしに身を寄せたらしい。



 その言葉は少し、残念そうに聞こえた。


 口に何かがねじ込まれる。何を。思う暇もなく、わたしの反応はすぐさまソレに反応した。動かなかった筈の身体が震える。ねじ込まれたものからソレを吸って嚥下する。ソレが美味しいと思ったのは、わたしの人生初だろう。今までは吐き気さえ覚えたのに。

 本能の命ずるままにソレを飲んでいたわたしはぴたりと止める。もういらない。本能がすっかり満足していた。

 わたしのその、ある種淡白でさえある反応に男は驚いたらしい。彼の姿を見たくなって、わたしは目を開いた。


「よかった」


 喜びに溢れたそれは、お月様みたいだ。綺麗なあの色。わたしに力を与えてくれる色。


「僕もだよ。……わかるか?」


 のろのろとした動きで彼を見た。何でわからなかったんだろうというくらい鮮明だ。

 あの綺麗なステンドグラスと同じ。


「―――」

「そうだ」


 彼は語った。自らの遍歴を語った。

 痛みが消えてきたわたしは、彼の問いに答えられるくらいには回復して。


 それで、わたしは……なんて答えたんだっけ?


 *


 人間って愚かだ。何でわざわざ、刺激しにいくんだろうな。

 わたしは困っていた。穏やかな昼下がり、よくわからない訪問を受けて。子供がそこらで遊んでいる長閑な光景に似つかわしくない、仰々しい格好の役人。顰め面が不細工だ。


「匿っても無駄ですよ」


 冷たい目をする役人の女が淡々と告げる。悪魔を出せ、と。


「いえ、ここには人間しかいません。悪魔なんて穢れたものは居ませんよ」


 わたしは微かな笑みを浮かべる。善良な一市民として答える。

 穢れたものなんて人間が決めたことだけど。みんながそう決めるのなら、わたしたちにとってそれは真実なのだ。

 悪為す魔なるモノ。悪魔、と。最初に呼んだのは、きっと人間だ。

 ただ『神秘』というひとつの括りに居た沢山の存在に悪と聖のレッテルを貼り付けたのは紛れも無く人間なのだから。


「大体、此処は神さまのお膝元。穢れたものが居られると思いますか?」

「証拠は上がっています」


 随分と安っぽいことを言うものだった。わたしの言葉を無視して自らの言いたいことだけを言う女。飼い主と同じ傲慢さ。これだから、この国は。

 滅んで仕舞えばいいのに―――そう思うけれども、この国はましな方だ。こうやって正面から来るだけいい方。最低ではないという、それだけなのだけれど。


「証拠、ですか」


 困ったように眉を寄せる。あるなら出してみろ、と内心思う。脅しじみた言い方に呆れつつ。

 国家権力に屈しないのなけらば脅し。最後には実力行使と。野蛮な人たち。お前たちが野蛮と嗤う悪魔でもそんなことはしないだろうよ。


「ええ、とある貴族の方が証言されました。息子を悪魔に殺され、悪魔は此処に逃げたとね」


 女は口元を歪ませた。笑みなんて言えない、昏い愉悦の滲んだ顔だった。酷く気持ち悪い顔。


 お前が彼の何を知っているのか。

 叫び出したいとすら思った。この人間に叩きつけてやりたかった。だって、おかしい。こいつらみんなおかしい。分かっている、この人間はそういう者なのだろうと。わたしを動揺させるのが目的なんだろうってことも。けれど我慢が効かない。

 お前たちみたいなのがいるから、わたしたちは。


 怒りは後から後から沸いてきて、沸騰する熱に胸が詰まる。息ができない。けれど息苦しさとは別に、頭はひどく冴えて居た。何をすればいいのかなんて簡単なことで。


 お前にあの人は、渡さない。






―――嗚呼、世界が、





 赤がずっと憎かった。生命の色が嫌いだった。たとえば、少女の身体から滴り落ちるそれのような。


「アザリー」


 声が震える。恐怖ががちがちに自分を縛っていて、だが一方でもう一人の自分が言う。やっぱりな、と嗤って。諦めよりかは、ざまあみろ、と言われているかのようだった。


 彼女は応えなかった。代わりに血を吐き出して噎せる。上半身全体を揺らす咳が苦しそうで見ていられず、少女に駆け寄り背をさする。

 近くで見ると身体全体についた無数の生々しい傷が、酷いものだと肉どころか骨さえも晒していることに気づく。かなり深い傷だから人間ならば失血死してもおかしくないかもしれなかった。


 少女が死ぬ。それは彼にとって、何よりも恐ろしいことだった。

 あるいは、ただ、死を見るのが怖いだけかもしれない。


 どちらでもいい、と彼は断じた。今更、ぐちゃぐちゃな自分の心うちなどどうでもいい。大事なのは少女が死なないことで、そしてこの傷が彼の所為であること。―――少女が傷を負わない選択肢を選ばなかったこと。


 言葉はぽろぽろと溢れていった。


「ごめん」


 それは荒れ狂う後悔の波の飛沫だった。

 何を言えばいいのかわからないのに、何を言おうとも思えないのに、どうしてかこの口は意味のない謝罪ばかり口にする。謝ったってどうにもならない。自分を追い詰めるだけ。


「いつかこんな日が来ると、分かっていたのに」


 甘やかなぬるま湯に浸って、何も考えられなくなっていったのだ。まるで恐ろしい未来を口にすればその未来が来てしまうと怯える子供のように。思考放棄は現実逃避に等しい。他の事を考えて、ただ幸福を享受しているだけのモノがどうしてそのままで居られるだろう。


 突き出せば良かったのだ。

 子供たちが言っていた。怖い女の人が教会への道を尋ねたと。来たのはきっと国の役人だ。


 悪魔を集める、国主の狗。


 だから悪魔が国主と契約をするようにすれば何かをされることもない。使い捨てられる兵器として隷属させられるだろうことは自明の理であるが、少女がこんなことになるより良い。

 かつて道具だったモノが、また道具として使われるだけだ。


「きみはどうして、僕を呼ばなかった」


 自分を突き出すことがきっと最善で、次善は彼が役人に対応することだ。なんなら役人を殺したってよかった。今更どれほど罪を重ねようが彼には関係ない。

 人殺しなんてことをかつて何度願われたことか。そしてそれを、何度叶えたか。

 覚えていないのは、いちいち覚えるのが無駄なくらいにそれらが多かったからだ。


 少女は仮の名さえ呼んでくれなかったのだろう。少女が一言彼の名を呼べば彼にわかるはずだから。



 悪魔と契約者の繋がりは絶対だ。

 契約者が呼ぶのなら、悪魔は必ず応える。



「生きたいと言ってただろ……悪魔なんて穢れたモノ、身代わりにしても誰も責めやしない」


 かつてと同じように指を切る。垂れる血をそのままに少女の口に触れるが、少女は少し反応を見せるものの本能さえ弱くなっているのか吸う力もないようだ。本当に大怪我なのだろう。

 このままでは、いくら彼女でも死んでしまう。


 躊躇はほぼなかった。指を咥え自らの血を口に含み、そのまま少女の唇に自らのそれを重ねる。唾液と混じった血を送り込めば、飲み込む力はまだ残っていたらしい。こくりと喉が動く。


「アザリー」


 唇を離し呼びかける。薄っすらと目を開けた少女の瞳は珊瑚色から紅に変わっている―――身体のバランスが崩れているのだ。命の危機に、身体が少しでも生きようと足掻いている。


 神官さま、と唇が動いた。主な傷は既にふさがっている。だがまだ足りないのだろう。先ほど切った手を懐のナイフでさらに傷つける。血塗れになった手の痛みなど少女のそれに比べればどれだけ安いか。


 差し伸べた血に、彼女の瞳の虹彩が蕩ける。紅に感じるのは歓喜。そこに自らの中にある感情との類似性を見出す。魂が同胞を歓迎している。

 通じ合っている。それに理屈などない。ただ在るだけでわかる、共通点。




 かつて、『神秘』と呼ばれた存在モノたちがいた。



 あるモノは神と呼ばれた。

 あるモノは妖精と呼ばれた。

 あるモノは悪魔と呼ばれた。

 そしてあるモノは、吸血鬼と呼ばれた。



 数多居た彼らはいつしか消えていった。捨てられていった。既に残るは少数。ただ諦めきれない死に損ないだけがこの世界に在る。


 神官と名乗る、男もそのひとりだった。


 だが少女は例外だ。正確に言えば、少女は『神秘』ではない。アザリーと男が名付けた少女は人間だ。……ほんの少し先祖返りしてしまっただけの。


 ごく普通の人間の夫婦から生まれた異端は嫌われ、厭われ、憎まれ、忌まれ、避けられてきた。そして最後には、希少動物として売られた。そこから何年か―――詳しい日数は聞いたことがないが、恐らく十や二十年では済まないだろう。まだ稚い見た目の少女は数十年もの間、成長することすらできず吸血鬼として飼われてきた。


 それを助けた、のではない。

 男は生かしただけだ。飼い主から逃げるという選択も実行も全ては少女一人で成し遂げたのだ。この教会に落ち延びた少女に血を与え、契約を交わしただけだ。


 そこに同情や憐れみがあったのかはわからない。だが、そこに打算が多分に含まれていたのは事実だ。男は、自分自身のために少女と契約を交わした。



 吸血鬼の少女は血を嚥下する。次に開かれた瞳は、いつもの珊瑚色に戻っていた。

 心の底から安堵を覚えて男は頰を緩める。


「アザリー、だいじょ」

「愚かですね、神官さま」


 すっかり傷が消えたアザリーは鼻を鳴らし男を罵った。瞳がきらきらと煌めいて感情を色濃く写す様はどんな宝石よりも男を魅せる。


「どうしてわたしがこんなにボロボロになったと思っているんですか」


 悔しそうに少女は言う。輝く薄紅に揺らめく怒り。そして、焦燥。


「逃げて」


 アザリーが必死に乞う。彼の安全を乞う。

 彼女らしくない弱々しい訴え。


「逃げてください」


 どうか、お願いだから。


 口にしなくとも、アザリーの強張った表情と噛み締めた唇が彼女の懇願を示す。


 男はただ黙っていた。訳がわからなかった。何故彼女が自分を庇うのか。逃げろと願うのか。男が少女にしてやれたことは殆どなかったというのに。

 こんな自分が少女に庇われる価値があるだろうか?


 男のすぐに悪い方に考える癖を見透かしたように、少女はふん、と鼻を鳴らす。


「シェルストラフィナ」


 男は困った顔をした。


「あなたは、死にたいのですか?」


 少女の問いかけは、男―――シェルストラフィナには、よくわからなかった。


「たぶん」


 恐る恐る口を開く。自分の気持ちがわからないなんて滑稽なことだが、悪魔であったシェルストラフィナにはそれが当たり前だった。


「たぶん、僕は生きていてほしい、のだと思う」

「じゃあそうすればいいんですよ」


 ねえ、そうでしょ神官さま、とシェルストラフィナをアザリーは呼んだ。


 きっとそれはひとつの真実で、だけれども男にはすこし気になることがあったのだ。

 ……役人の女は、どうやってここを知ったのだろう。


 *


 少年がいた。

 黒に近いこげ茶の髪は艶を失っていて、病気なのか、痩せこけた華奢な体は明らかに健常者のものではない。


 彼は今寝台の真白い清潔なシーツの上に身を横たえ、榛色の瞳をなんとなしに天井に向けていた。

 置かれた調度品は華美なもので、実用性より見た目を重視していたが少年の目を楽しませることはない。生まれた頃から使っているそれらは少年にとって当たり前だったから。


 なぁう、とちいさな鳴き声が聞こえた。焦点を定めずに視線をさ迷わせていた少年はすぐさま窓辺を見やる。にぃ、再び子猫が鳴く頃には、『彼』の頭が開け放たれた窓からぴょこりと飛び出しているのを発見した。


「おいで、フィナ」

「にぁう」


 まるで返事をしたかのように子猫がまた鳴いて窓から部屋に入り込み床に飛び降りると、ちいさな手足を忙しなく動かし寝台の上の少年の元へとやってきた。

 子猫は黒い。ここまで黒いものを少年は見たことがなかったから、いつも子猫が彼の前に現れる時、どうしても子猫をじっと見つめてしまう。子猫はその視線が苦手なようで、居心地悪そうにヒゲをピクピク震わせ尻尾をゆっくり降るのだ。

 けれど意地の悪いことに、少年は子猫のそういった仕草が好きだった。


「フィナ、ごめんってば、そんなに拗ねないでおくれよ」


 子猫はまたもや彼にしてやられたと不機嫌そうに身体を震わせて必死に鳴いている。子猫の鳴き声は酷くか細くて可愛いのだけれど、少年としてはもっと機嫌の良い時の鳴き声の方が好きだから、こうやって一所懸命子猫を宥めた。


「ほら、ここにきみの好きな魚があるよ。だから僕を嫌わないで」

「にぃ!」


 子猫は慌てて、魚の皿を差し出す少年の手を舐める。それは子猫にとっての謝罪の行動であり、少年にとって都合の良いように述べるなら慰めの行動であった。くすぐったいなあ、と嫌味っぽくいう少年はしかし笑顔だった。


「ねえ、きみのことが大好きだよ、僕の友達」



 子猫はきょとんと黄金きんの瞳を瞬かせて、なぁうと鳴いた。





 そんなことだろうとは思っていた。


 大体何年わたしが彼の隣にいると。……何年だっけ?ちょっと死にかけたばっかりだから記憶が混濁している。

 まあそれはいい。いやあんまり良くないけど、多分もうちょっとしたら治るからいい。


 問題はそう、彼がいないことだ。

 神官さま―――もう誤魔化す必要もないか―――あの女が探しているらしい悪魔である、シェルストラフィナがいない。


 夜逃げをしようと決心したわたし達だったが、夜逃げにも準備が色々とある。わたしは病み上がりの身体を酷使して準備を整えていたのだが、やっぱり無理が祟ったようでいつの間にか寝ていた。最後の記憶はステンドグラスをどうにかして持っていけないかと悩んでいるところだったから、どうやら寝台にシェルストラフィナが運んでくれたらしいというのはわかった。

 長くて言いにくい名前の彼だが、気遣いのできる悪魔である。名前も気遣って短めにしてほしい。というか悪魔って誰が名付けるんだろう。……これもどうでもいいことだが。


 彼はどうにもネガティブである。すごく鬱っぽい。

 普段は朗らかな感じの変態を目指しているけど(正直それは迷惑)、本当は結構繊細で傷つきやすい硝子のような心を持っている。硝子にも強いのと弱いのがあるが、彼はその中でもとびきり弱いものでできていると思う。

 要は一人で思い詰めるタイプの人間―――じゃなかった悪魔だ。それとも悪魔ってみんなああいう感じなんだろうか。なんだその面倒臭い種族。


 外は藍色がかった紫色をしていた。わたしが死にかけた時は真っ暗だった気がするから、もし半日とか寝ていたのでなければ、恐らくは朝焼けに至る頃だろう。


 彼はどこへ行ったのか。書き置きもなにもなかったが、あの気遣い屋の悪魔のことだ、わたしが無事に暮らせるように役人をどうにかしようと算段をつけたのだ。自分を犠牲にするような、算段を。


「バカ悪魔」


 それでもあのバカが愛おしくて仕方がないのだから、わたしはどうかしている。


 唇を押さえる。今わたしの頰はかなり紅潮しているのだろうな。うわ、恥ずかしい。世の中の乙女はすごい。

 絶対に人命救助としてやったのだろうけど曲がりなりにもわたしは女の子だから、そりゃ気にする。いっそ意識がなければよかったのだけれど、その時はかなり朦朧としていても意識はあったのだ。

 しかも最初からディープなやつって、どう反応していいのか。いや人命救助なんだけど。


 とりあえず何も知りませんけどって態度で流したが、その後シェルストラフィナとは一回も目を合わせられなかった。怒った時だけだ、あの綺麗な黄金きんを見られたのは。


「考えるな、考えるなわたし。今はあのバカを探すことに集中するんだ」


 あのバカを見つけてから存分に考えることにしよう。とは、思うのだけど。


「どこに行ったんだろう……」


 日が昇る前だから視界はまだ薄暗い。吸血鬼のわたしは普通に見えるが。それにしたって普段の視界とは違う感覚の『視える』だから、痕跡を探すとかどうすればいいのかわからない。ついでにあの役人がいそうな場所も想像がつかない。


 ひとまず村を出た街道の辺りまで来てみた。周りは静かな森ばかりである。


「……」


 意気込んだはいいが、こんな最初の一歩から躓くとは思わなかった。考えが甘いよ、わたし。


 静寂の中にある森にもわたしが見た限りでは異常が無いように思える。

 そういえば役人の女はどこに泊まっているのだろう。小さな村だから、宿屋は勿論村長の家とかにも泊まれるようなところはない。というか泊まるような人間がいなかったからそういう部屋を作る必要がなかったとも言える。

 この村に泊まっていないのなら、近くの町に逗留しているのか。それならシェルストラフィナはそちらに向かったのかもしれない。

 近くの町は歩けば三日ぐらいの距離だ。遠い。流石の悪魔といえど、今は人間の肉体だから魔法を使っても数時間じゃつかないだろう。でも吸血鬼の身体はかなり速度が出る。この街道を吸血鬼の身体能力全開でいけば追いつけるかもしれない。


 よし、走ろう。


 わたしがそこまで考えた時だった。



 ひとりの少女がわたしの目の前にいた。



「ユリアーナ・グランベル」


 鈴のなるように可愛らしい、けれどもしんしんと降る雪のように静けさを運ぶ声だった。


 一瞬、誰の名を呼んでいるのかわからなかったが、周囲を見るに『彼女』が話しかけているのはわたしだろう。あと、よくよく思い出してみればその名にすこし心当たりがある。


 ユリアーナ・グランベル。

 それは先祖返りをしてしまって家族に売られた、異端の女の子の名前だ。


 わたしが捨てた、名前だ。


「わたしはアザリー」


 思ったより冷たい声色になった。慌てて、柔らかさを意識して続きの言葉を紡ぐ。


「あなたは誰? わたしに何の用?」


 少女は灰色の瞳を瞬かせる。

 歳の頃は十三くらいか。不思議な雰囲気の少女だ。見た目は幼いのに、その瞳は老獪な知性を宿している。本能的にただの子供ではないと思った。まあ、ユリアーナという名を知っている以上、ただの子どもの訳はないのだが。


「わたしはアリスエルダと言うの。レル・カデリアでもいいけれど」


 少女は名前が二つあるらしい。まるでわたしみたいだ。

 この子も、誰かに新しく名をつけて貰ったのかな。


「アリスエルダ、ちゃん」

「アリスでいいよ、って言っても多分もう会うことはないだろうけど……えっと、アザリーさん。わたしたちは、あなたにお願いをしに来たの」


 アリスは笑みを浮かべる。誇らしげな、愛おしむような、そんな瞳のいろで。―――それは覚えのある、いろだった。


 *


 果たして彼は現れた。


「シェルストラフィナ」

「……アザリー」


 どうしてここに、とは彼は聞かなかった。わたしはその頃「そういえば名前を呼べば彼を呼び戻せたのでは」と思いついていたため自分の愚かさを悔いるのに必死であった。

 表情はどうしても固くなる。


「きみは無茶をする」

「させたのはあなたですよ」


 泣きそうな顔で悪魔は笑う。榛色の瞳は黄金きんに変わっていた。


「ねえ、シェルストラフィナ。もう一度わたしと契約をしてくれませんか?」

「契約……?」


 途方に暮れた顔。わからない、と言いたげな。


 シェルストラフィナは、ずっとわからないと言っていた。人間のことが、わたしのことが、自分のことが。

 中でも一番わからなかったのは、たぶん。


「考えてみてくださいよ」


 きっと彼はわからないと言うのだろう。


「あなたの友人は、なんで身体をあなたにあげたんだと思いますか?」


 耳の奥に残る声。わたしの知る、シェルストラフィナと同じ音色だけれど、それは全く違う声だ。

『ねぇフィナ、僕の友達。きみ、この身体いらないかい?』

 軽やかに笑って痩せぎすの青年は黒猫に言う。『きみならきっと、うまく使ってくれる』膝の上の黒猫が黄金の瞳を見開く。


 昔から、すこし不思議に思っていた。

 シェルストラフィナが持つ二つの色彩。黒髪に黄金きんの瞳の、悪魔の彼。あるいはこげ茶の髪に榛色の、普段の彼。

 それは彼が元々持っていた色ではなかったのだ。彼の躯は友人からの贈り物だった。


 シェルストラ―――それが彼の友人の名。貴族の嫡子でありながら、身体が生まれつき弱かった所為で殆ど部屋の外にすら出られなかった青年。そして《悪魔に殺された》人。


 シェルストラは、悪魔に殺されたのではない。友達と契約をして、身体をあげたのだ。


 代償は――――――。


「幸せに、って。言ったんでしょう、あなたの友人は」

「それは、」


「生きていてほしいんですよッ!」


 彼の言葉を遮って叫んだ。

 駄目だ、泣くつもりも怒鳴るつもりもなかったのに。ああなんで、わたしはこう。


「わたしは、あなたに生きていて欲しいんです、生きたいって思わせたいんです!」


 子どもみたいに弱いのだろう。


「どうして!?あなたの幸せを願った友人がいたのに!」


 身体まであげるくらい、友達に幸せになって欲しかったシェルストラ。寂しそうな顔をしていたけれど、黒猫が来れば嬉しそうに笑ったひと。


「あなたはなんで、死のうとするのッ!」


 そんな人がいて、こうやってあなたを追いかけるわたしがいて。



 どうして、「」って言えるの?



「生きて。生きてください、せめて」


 幸せにと願っても。

 笑ってよと祈っても。

 それでも駄目と言うのなら、せめて、生きて。


 それだけでいいから。


「あなたに救われたのに、わたしはまだ何にも返せていない」


 きっとあなたは救っていないなんて思っているんでしょう。そんなことわかりきってる。わからないっていつも言うくせに、決めつけないでよ。


 わからないなら一緒に考えようよ。わたしを頼って。それとも、わたしじゃ駄目?


 涙が止まらなくて、折角の綺麗な黄金きんがわたしを見つめるのに、わたしにはぼやけてうまく見えない。


「アザリー」


 ちいさく彼が囁いた。みっともなく嗚咽を漏らして泣くわたしを怖々と抱きしめながら。


「泣かないでくれ」


 困りきった言葉だ。頭を優しく撫でる彼の手がすこし震えている。

 困らせている。だから止めなきゃ。わたしがこれ以上彼に迷惑をかけてはいけない。


 嗚呼、なんで止まらないんだろう。



「僕は、……僕は、どうしてもわからない」


「生きていてくれ、と言われても……やはり、僕らを許してくれるような世界ではないから」


「僕らはみんな罪を負い、咎を生む」


「それが当たり前なのだと知っていた。けれど、」


 怖がっているのだ、彼は。世界すべてを。


「人を愛せと、言われた。人に尽くせと、言っていた」


 きつく、きつく抱き締められる。

 母に縋る子どものような抱擁。ぬくもりを求めた子どもの。


「僕はきみを愛したい」


「愛したいよ、アザリー……」


 それが、どんな種類の愛なのかは、知らない。きっと彼にもわかっていない。それでも。


「愛して、フィナ」


 わたしはあなたを愛するから。

 どうか、あなたもわたしを愛してください。




 光。

 気づけば随分と、空は明るくなっていた。


 朝が来た。

 絶望に満ちた世界で、神秘が捨てられてゆく世界で、それでも世界を見捨てられないわたしたちの朝が来た。


 溺れるように息をする。二度目の口づけは酷く深くて、一度目のそれがキスなんてものではなかったのだとわかる。

 あれは確かに、人命救助だったのだ。


「ふぃ、な」


 荒い息のわたしはフィナに支えてもらわなければ多分崩れ落ちていただろうと思えるほどに全身から力が抜けている。

 見上げた彼の顔は赤かった。それが朝焼けの所為か、それとも口づけの所為か。口づけだといいな、なんてわたしは思う。


「……っ、アザリー」


 再び激しく求められて、わたしはより一層力が抜けていく。腰が砕けてても全く手加減はしてくれないらしい。

 口内を蹂躙する彼の舌に自分のそれを絡める。拙いだろうが、ほぼはじめてなので許してほしい。

 わたしが出している声に自分で赤面してしまう。本当に変な声が出るんだなあ、とちょっと感心すらする。


「ふ、……んん」


 そろそろわたしの羞恥心が振り切れたというか、その、色々とね、忘れていたことを思い出したというか。


 今までのやりとり全部見ているひとたちがいるんですよね。


「えーっと、気持ちは分からなくもないけど、その子そろそろ気絶しちゃいそうだからやめてあげて」


 苦笑しつつ声をかけてきたのは二十をすこし過ぎたあたりの男。首のあたりで緩めにくくった銀髪、どこかの民族のものかあまり見たことのない服装、耳に光るピアスは魔法大国の紋章か。


 それから、黄金きんの瞳。


 彼は悪魔ミルファーレン。アリスが契約している悪魔らしい。


「み、ミル、気持ちわかるの……?」


 ミルファーレンにしがみついている、顔を真っ赤にした純情少女がびっくりしている。


「え? ……あー、いや、一般論だよ、アリス」

「一般論……? 悪魔の?」


 アリス、多分男のだと思う。

 あともうちょっとあなたは距離感に気をつけた方がいい気がします。


 ミルファーレンの一声で漸く解放されたわたしだが、休む暇はないらしい。

 フィナがわたしを守るように強く抱き締めてミルファーレンを睨んだ。


「悪魔……魔法大国のか」


 ミルファーレンが微笑む。ふわふわした雰囲気の優男、というのがいつもの彼だが極たまに底知れない空気を醸し出すのだ。

 ちろちろと、黄金きんの中で焔が揺れる。


「よく知っているね、シェルストラフィナ」

「【全知全能】の噂くらいは知っているさ……何の用なんだ」


 もの凄く警戒していた。フィナにしてみれば当たり前の話だけど。


「あの、フィナ、アリスたちは違うんですよ。わたしたちの味方っていうか、なんというか……とりあえず敵ではないです」


 敵ではない。だって、シェルストラのことを教えてくれたのも、フィナの場所を教えてくれたのも彼らだ。

 でも味方なのかは微妙だった。


 彼らは一応、国主の狗ではあるらしいから。


「そう、敵ではないよ、アザリー、シェルストラフィナ。ただ僕らはどうにも自由に動けないからね」

「逃げて欲しいの、アザリー」


 アリスは願い事を口にした。


「ずっとずっと遠くに、逃げて欲しいの。わたしは悪魔を戦争の道具にしたくない。ねえ、ミル」

「そうだね、アリス。我らが飼い主はけれど容赦のないひとだから」


 ふたりは互いの名を呼びながら話した。なんだかその姿がすごく理想のように思える。あんな風に、背中合わせの生き方ができるだろうか。


 したいな。わたしとフィナ、ふたりで。


「わかってるよ、アリス、ミルファーレン」


 ふたりは優しく微笑んだ。



 わたしたちは今日、この国を出るだろう。

 できたばかりの友人をおいて逃げていく。


 きっとふたりにはもう会えないと分かっている。けれど、それは不幸なことではないのだ。



 わたしたちは『神秘』だ。


 世界から消えゆくモノたち。

 だから人間が求めるし、争う。

 逃げることは決して悪いことじゃない。争いを回避することでもある。



 けれど、もうすぐ、『神秘』は消える。

 完全に、世界からひとかけらも無くなる。

 わたしたちは最後の悪魔と吸血鬼のひとりだ。



 愚かな道を選びました。愚かな生を謳歌しました。

 それでもわたしたちは、ここで手を繋いで歩いている。



 最期はきっと、しあわせな終わりでありますように。







『ありがとう。どうか、しあわせに』

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愚かさと幸福 夜雨 @621351

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