Chapter:044

「あ。ここにいた」

 頭の上から降って来た声に、イージオは呆然としたまま顔を上げた。

「サーヴァルさん……どうしたの」

「見かけないから探してた」

 相変わらず鼻先まで髪に覆われたその顔から表情を読み取ることは難しいが、声音で彼がイージオを気にかけていることはわかった。小さく笑いかければ、サーヴァルもイージオが座っているベンチへと腰掛けた。

 吹き抜ける風は涼しい。その理由は夏が終わろうとしているからなのか、それともここが世界の北の方に位置しているからなのかいまいちよくわからない。もしかしたらその両方かもしれない。

 黒コートの襲撃から数週間が経過した今、ブレイヴハウンズは目的地のヴェルメトロポルにいた。護衛の対象であるカルモは、予定通りアザレアの別荘地で「世界と自分自身を知る」ためにしばらく缶詰状態になっている。その間、他の者たちは休養することになった。いや、休養せざるを得なくなった、というべきだろうか。

 イージオが願いながら倒れたところで、現実は何も変わりはしなかった。

 襲撃されたことで、全員程度の差はあれ負傷して倒れ、すぐに動ける状態ではなかった。特にカニスに至っては物理的な怪我も穢れによる浸食も相当なもので、目が覚めたのはつい二日前になる。そんな彼女が一番に声をかけたのはイージオだった。怪我がないこと知ったカニスの安心した表情に、イージオは申し訳なさと悔しさに苛まれて唇を噛んだ。そのうえで「守れなくてごめんね、無事でよかった」と言われてしまい、その時はどうしようもなく不甲斐なかった。どうして隊長が謝るんだ。守れなかったのはオレの方なのに。

「みんなは?」

 俯いて、イージオはサーヴァルに問いかけた。みんなのことは気になるが、合わせる顔がない今は会うことを避けているのだ。

「経過は順調だよ。一番心配だったカニスも安静は今日までいいってさ」

「……そっか」

 無意識に出た溜息は安堵のものだった。だけど「よかった」とは口が裂けても言えないと思った。言ってはいけないと思った。

「イージオは大丈夫?」

「え?」

 不意に訊かれ、イージオは目線だけサーヴァルに向ける。

「ずいぶん思い詰めてるようだから」

 その言葉を受け、応えることなく再び視線を落とす。思い詰めるなというのであれば、他にどうしろというのか。イージオは足の間で組んだ手に力を込め、奥歯を噛みしめた。

 大丈夫か。そう訊かれてしまえば大丈夫と返すしかない。というよりそれ以前に、そんな言葉をかけられる資格がない。何も、何ひとつとしてできなかったイージオは、怪我もしていなければ穢れに侵されてもいないのだから。

「大丈夫も何も、そもそも怪我とかしてないんだし」

「俺が言いたいのはそういうんじゃないって、わかってるよね」

 顔を上げてできる限り明るい声で返すも、険のあるサーヴァルの声にイージオは思わず肩を震わせた。

「今回確かに負けたし、怪我だってした。命の危険に晒されたのは事実だ」

 だけど、と一度言葉を切ってサーヴァルは続ける。

「それはイージオのせいじゃない。いや、ハウンズのみんなも、陛下も、リットさんも、誰も悪くない。強いて言えば相手が悪かった」

 相手と言われ、イージオは否応なくあの黒コートを思い出す。戦闘そのものというより、戦うことを知る者と対峙することに慣れ、如何なる強さにも冷静に、いや、冷徹に対処する。氷よりももっと冷たい何かを彷彿とさせる意志と殺意は、今思い返しただけでも汗が滲む。

「それでも」

 険しい表情のイージオに、柔らかな温もりを与えるような声で、サーヴァルが再び切り出した。

「みんな生きてる。ここにちゃんと、全員揃ってる。取り敢えずはそれでいいじゃないか」

 だろ? と確かめるように問うサーヴァル。しかしイージオは険しい表情を変えない。

「でも……あの時オレはなんにもできなかった」

 絞り出した声は低く掠れていた。

「もっと力があれば……どうにかしてでも戦うことができれば……あんなことにはならなかったかもしれないのに……」

 動けなかった原因はまだわかっていない。穢れによる行動不能は、他のメンバーを見る限りそんなに効力が続くものではなかった。なら、どうしてオレは動けなかったんだろう。考えてみたものの、よくわからなかった。

 それでもたったひとつ、明確なことがある。

 ──お前は弱い。

 黒コートの言葉が頭の中を巡る。否定したくてもできなかったその事実が、堪らなく悔しかった。もっと、もっと強くならなければいけない。もう二度と、敵に仲間の誰も傷付けさせないように、倒れていく仲間の背中を見るだけなんてことをしないように。そう思うようになった最近、イージオは自分が扱える聖星術の属性を意識し始めた。

 双時そうじと呼ばれるこの属性は時を司る。とはいえ、大して力を使えないイージオとしては、飛んで来たナイフを一秒もない程度止めるのが限界で、時間干渉なんて大きなことを考えたところで実践は不可能だ。

「悔しい気持ちはよくわかるよ。あの時ああしてれば。もっと強ければ。俺だって思ったさ」

 また不意に頭上から降って来たサーヴァルの声に、イージオは意識を現実に引き戻した。

「でも過去は変えられない。時間ってのは遡ることができない。ただ前に、ひたすら前に進んでいくだけだ。それはどうしようもできない」

 同じ双時そうじ属性の力を持ち、高度な聖星術を使うサーヴァルの言葉が痛いくらいに突き刺さる。悲しいくらい強く前に進む時間の流れを覆すことは、どんな聖星術を使ってもできないのだ。それでも考えてしまう。あの時に戻れたら、などと、万に一つもあり得ないことを。しかしそれ故に叶わない願いであることをイージオは知っている。

「だから、焦るなよ」

 あまりに冷静なサーヴァルの忠告に息を呑んだ。

「それに、どんだけ焦って修行やら何やらをやったところで、できないことがすぐできるわけじゃない。今できることには限界があるんだから。逆に無理を強いれば、身体を壊して強くなるチャンスを逃すことだってある」

 イージオは顔を上げた。でも、と言いたかった。だがそれを遮るようにして、サーヴァルが言葉を継ぐ。

「強くなりたいって気持ち自体はとても大事なものだよ。それは、過去の自分を超えようとしてるんだから」

 ふわりと優しい感触に頭が叩かれる。イージオの頭を撫でながらサーヴァルは続けた。

「大丈夫。イージオにはこれから強くなるための時間がたくさんある。焦らずじっくり、強くなっていこう」

 な。と最後に念を押され、イージオは言いたかった言葉を飲み込んだ。

「……サーヴァルさんに説教されるとか初めて」

「一応これでも十年は人生の先輩だからねー」

 撫でることをやめたサーヴァルは、今度はおちゃらけた声でぺちぺちとイージオの頭を叩く。が、それもすぐ終わり、やがて満足したらしいサーヴァルは大きく伸びをして立ち上がった。

「まあ、顔見れてよかったよ。イージオ、ひとりになること増えたからさ」

 微笑むサーヴァルからはもうおちゃらけた雰囲気はない。そうして微笑むと色を正して続けた。

「あんまり無茶するなよ」

「……うん。ありがとう」

 イージオはせいいっぱい笑って頷いた。しかしそうやって作った顔は微笑みに近いものであることは、口角が上がらないことですぐにわかった。だがサーヴァルは何も言わず、そのまま踵を返して別荘地の方へと戻っていった。

 完全にその背中が視界から消えた瞬間、イージオからも表情が消えた。そうしてまた俯き、組んでいた手に力を込める。

 ひとりになってはあの日の自分を振り返り、気付けば焦りが募るばかりだった。わかってる。焦ったって強くなれない。どれだけ焦燥感に駆り立てられてもそれで力が増えるわけではない。嫌というほど理解していた。

「でも」

 サーヴァルに向けようとして諦めた言葉を、今になって口にする。考え方の相違を感じたイージオは、あれ以上自分の思いをぶつけるべきではないと思った。

 あのまま何を言っても、きっとサーヴァルさんには届かない。オレがあの戦いで全くの役立たずだったのが、どれだけ悔しくて、申し訳なくて、腹立たしいのか。それはきっと、ハウンズのメンバーも、他の誰もわからない。わかろうとしない。わかってくれない。そして多分、わかってほしくない。

 イージオは息を吐いた。深く、大きく、長く、溜め込んでいるものすべてを吐き出すように。だが、空気を捨てていくほど、イージオのなかで燻ぶっている何かが大きくなる感覚がした。やがてそれは真っ黒い渦のようになり、ずしりと重くイージオの影を落とした。

 ──焦らずじっくり、強くなっていこう。

 人生の先輩からのありがたい言葉が脳裏を過ぎる。そうか、それがサーヴァルさんにとっての最適解なんだな。そうやって考えることができたら、どれだけ楽になれるだろう。或いは以前だったら、オレも素直にその考えを受け入れることができただろうか。

 でも。

「それじゃあ、ダメなんだよ」

 掠れた声で返した答えは、仲間への否定だった。

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