Chapter:043

 刃が閃くより先に更なる銃声が鳴り、カニスの陰から硝煙が霞む。刹那、カニスの脚を貫いた弾丸がイージオの目の前で抉る形で地面にめり込んだ。それを見届けた直後、むせ返るほどの鉄錆の臭いがした。

 貫かれた脚から流れる赤黒い命が視界を真っ赤に染め上げる。呼吸を忘れてしまったイージオは、崩れるように倒れ呻き声を上げるカニスを見つめることしかできなかった。はやる心臓が脈打つが、身体は全く動かない。地面に食い込んでいたはずの指もぴくりとも動ない。考えることもままならず、ただじっと眼前で繰り広げられる惨劇を目に焼き付けるだけ。

 そんなイージオの前で、カニスは再び立ち上がった。痛みを堪えるために息を荒くして、鈍い動きで剣を構える。その背中は普段であればイージオよりも一回りも小さいというのに、今はイージオを守る唯一の盾だ。

 だが満身創痍のカニスにはそれがせいいっぱいだった。腕を振ろうとしても緩く弧を描くだけで、本来の剣の役割を果たすことはできない。黒コートは当然ながらそれを見守ることなどせず、力なく振るわれた剣を容赦なく弾き飛ばす。そのうえ、宙を舞う双剣の片割れを目で追うことも許されない。

「目障りだ」

 黒コートが初めて口を開いた。物静かで少し低めの声は、顔を見ずともわかるくらいに怒りに満ちていた。聞いたことのないその声に、誰なんだという疑問が辛うじてイージオの中に生まれる。それと同時に、動かなければならないという意志と、そのための方法を思案するだけの冷静さを取り戻した。

 しかしそれも束の間。また銃声が響く。どこか被弾したカニスは、今度こそ本当に呻き声を上げて倒れた。よじるその腹部が赤黒く染まっていく。黒コートはうずくまるカニスを一瞥し、三度銃口を向けた。間髪入れることなく引き金を引けば、耳を塞ぎたくなる呻きは消えた。

 黒コートは、イージオとの間に倒れるカニスが邪魔なのか乱雑に蹴り捨てた。一瞬宙を浮くカニスの目は閉じられており、声ひとつ上げない。砂埃を立てながら倒れても、微動だにしなかった。そんな状況に今度はイージオの背筋が凍る。

 砂を踏む音がイージオの耳もとで響き、再び「かちゃり」という音がした。他のどこにも力は入らないのに顔だけは自然と動き、イージオは黒コートを見上げた。向けられていたのはさっきと変わらない銃口。

「自ら戦場に向かうこともせず、穢れにやられたふりをして這いつくばったまま、盾となった者が動かなくなった今でさえ立ち上がろうともしないとは。随分な愚か者だな」

 突き付けられた言葉にイージオは目を瞠った。だがそれはさっきとは異なり、怒りはない。

「お前は弱い」

 淡々と事実だけを語る声だった。

 イージオは唇を噛んだ。違うと、ただ一言そう言いたかった。しかし現実はその通りで、何も言えなかった。

 だが考える時間は与えてくれない。向けられた銃口の先で、何度目かの引き金に添えられる手袋越しの指が見えた。理由はわからないが目が離せなかった。

「殺すなという話だったが、何もできないお前など生かす意味はない」

 冷めた言葉にイージオは憤る。吐き捨てるように告げられた真実と、何も言えない自分自身に。

 どうして動かない。なんで立てない。なんで剣を握れない。この手は、この足は何のためにある。立って、剣を握って、敵を斬って、仲間を護るためだろ。穢れに耐性のない他のメンバーは、それでも向かっていったじゃないか。

 何もできずに終わってなんてたまるか……!

 イージオは奥歯を噛みしめた。それが合図となり、ようやく身体に力が入った。だが黒コートに悟られてはいけない。今感づかれてしまえば本当に終わる。幸い取りこぼした剣はすぐ近くに落としていることもわかっている。あとは、一瞬でもこいつに隙ができれば。

 イージオは黒コートを睨み付けた。目深に被ったフードの先にあるであろう目を、もてる限りの怒りを込めて睨み付けた。

 刹那、黒コートが唇を噛み、躊躇いなく引き金を引いた。鼓膜が破れるのではと思えてしまう程の轟音が響き、わずかに拳銃を持った右手が跳ねる。

 穢れをまとった紫の弾丸は、イージオには当たらなかった。

 立ち上がる準備ができたイージオが、挑発として黒コートを睨み付けたのだ。どこを狙うのかがはっきりしていれば、撃つタイミングさえわかれば避けられる。あとはたった一瞬の隙さえあれば、ほぼゼロ距離のここからなら確実に斬りかかることができる。

「ふ、ざ……けんな!」

 怒りと、悔しさを全て乗せて叫ぶ。立ち上がる動作を利用してイージオは一歩踏み出し、その反動で振り下げた右手にしっかりと愛剣を握りしめた。狙う先は黒コートの右手。

 しかしその瞬間、しゃがみ込むイージオの頭上で何かが風を斬った。黒コートとは違う場所から現れたそれは、黒コートに向けて薙ぎ払われたが当たらない。イージオは動きを止め、風を斬ったその行方を追う。

 先にあったのはイージオの身の丈ほどもある両手剣だった。だが、デュールのものと比べると遥かに刀身が細い。大きいというより長い剣だった。

「そこまでだ」

 まっすぐ黒コートに向けて両手剣を構え、そう言い放ったのはリッターだった。あの黒い何かを自力で破壊してここまでやってきたというのだろうか。思わぬ加勢にイージオは腰を抜かした。

 吹き抜ける風が二人の髪やコートを揺らしたその時、イージオは見逃さなかった。目深に被った黒コートのフードの下から見えたのは、ハウンズを窮地に陥れた蠍闇かつあん属性の弾丸と同じ──

「まあ、お前さんがまだやる気ってんなら、おれが相手してやらんでもないが」

「……国家キヴィタス最高責任者オルドミニスター・リッター、か」

 飄々とした物言いで余裕綽々なリッターの言葉に、イージオは意識を現実へと戻す。対し、黒コートはややあってその肩書きを諳んじた。すると、突き刺さるほどの殺気が消え、黒コートは手に握っていた拳銃を離した。地面に落ちる前にそれは跡形もなく消え失せ、黒コートが口を開く。

「あんたとやり合うのは骨が折れる」

「何ならその骨斬ってやってもいいんだぜ」

 口元だけの笑みを浮かべリッターが言うも、黒コートは鼻を鳴らすだけだった。背中を向けたと思ったらそのまま立ち消え、殺気どころか完全に気配さえなくなってしまった。やがて張り詰めた空気もなくなり、今は砂埃が頬を叩く音しか聞こえない。

「大丈夫か?」

 あまりの出来事に身を固めたまま動けないでいると、リッターが手を差し出しイージオに訊ねた。まったく動かなかった身体は嘘のように軽く、その手を掴み立ち上がる。イージオは何も答えられなかった。白昼夢でも見ていたのではと思いたくなるほどに、あまりにも現実離れしていたからだ。

 しかし、目を落とした先に広がっている惨状は夢などで片付くものではなかった。

 息を呑み、倒れ伏す仲間のもとへ駆け寄る。今もなお地面に広がる黒い染みは大きさを増しつつあった。どうしたらいいのか。仲間に触れようとして、イージオは逡巡した。小さな怪我に対する応急処置しか心得ていない自分が迂闊になにかしてしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれないと思ったのだ。それに、とイージオは唇を噛む。

「皆さん!」

 突如として飛んできた澄んだ声に顔を上げると、一目散にこちらに向かってくるカルモとラフィネの姿があった。よく見れば、リッターと同じ場所で囚われていたはずのモデストもいる。黒い何かの中にいた人たちは、ひとまず無事なようだった。

 医術の心得があるラフィネとカルモを中心に、やられてしまったハウンズの応急処置が行われていく。穢れにやられただけの者たちはモデストとリッターによって車に運ばれていった。

 そんななか、イージオは突っ立ったままだった。動こうと思えば動けたのかもしれない。しかしイージオの頭の中には、手伝うという考えはまるでなかった。

 どれぐらいそうしていたのだろうか。不意に「ごめんなさい」という声がすぐ近くで聞こえ、イージオは我に返った。立っていたのはカルモだった。

「私たち、何もできないまま、皆さんを危険な目に遭わせてしまって」

 目を伏せ、頭を垂れるカルモにイージオは戸惑った。言葉を探すうちに辛うじて出てきたのは、カルモが自分自身を責めようとする言葉への否定だった。

「いえ……陛下が謝ることではないんです」

「そんな……でも……でも、私……!」

「違うんです!」

 なおも繰り返そうとするカルモを、イージオは叫ぶようにして遮った。そうして頭を振りながらイージオは続ける。

「陛下は悪くない。何も悪くない。それに今、傷付いたみんなのこと助けてくれた。なにも……何もできなかったなんてこと、ないです」

 本当に何もできなかったのはオレの方だ。襲撃があれば戦うことはわかっていたはずなのに、たとえ歯が立たなくともせめて何かできたかもしれないのに、その可能性を全部潰して固まっていたのは他でもないオレだ。

 俯いて、イージオは再び頭を振った。血に塗れた現実を否定したくて、たった一太刀さえ浴びせるどころか動けなかった自分自身を否定したくて。何度も何度も左右に振った。そのうちに酷く頭が痛みだし、視界が歪み始めた。

 朦朧とする意識のなかでイージオは願った。 

 このまま気を失ったら、全部なかったことにならないだろうか。目が覚めたら誰も怪我なんてしてなくて、昨日までと変わらなくて。こんなの、オレだけが見た質の悪い夢だったりしないだろうか。

 ふわふわとした思考のまま、そんなかすかな可能性に縋りつく思いで、イージオは宵闇が迫る夕焼け空の下で眠るように意識を手放した。

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