Chapter:042

 思考はクリアで、意識もはっきりしている。なのに全く力が入らない。動けない。それどころか声すら出ない。どれだけ鋭く息を吸っても、吐き出されるのは「かひゅっ」という掠れた音だけ。なんだ、どういうことだ。なんで立てない。なんで動かない。

 一年前の春、アルを庇って受けた穢れは、確かにイージオを侵し蝕んだ。しかしイージオはそれに耐え、克服した。穢れは言わば毒だ。服用しても生き抜けば、ある程度の耐性がつく。だから今回は意識を飛ばすこともなかった。元々前回の方が比較にならないくらい強烈な穢れだったというのが正しいが。

 現に蠍闇かつあんの属性に生まれ、忌み子として膨大な聖星力とそれに入り混じる穢れを内包し、穢れというものに耐性を持つソンブルは、すぐに体勢を立て直して黒コートに迫っていた。片手で握るには少し大きい両刃直剣が夕暮れの日差しで橙に光る。

 なら、なんでオレは動けないのか。指さえ動かせないままにイージオは必死に考える。穢れへの耐性はあるはずだ。じゃあ他に何が。

 つんざく金属音に辛うじて動く目を向けると、果敢にも飛び出していったはずのソンブルの手に剣はない。よく見ればソンブルは空を振り仰いでいた。瞬間、無防備なその隙を相手が逃すはずもなく、黒コートはウンシュの時と同様に右手で銃床を握ると、ソンブルの身体と頭に一撃を入れた。ソンブルは鈍い音を立てて崩れるように倒れ、その数秒後に両手剣が行き場をなくして枯れた大地に突き刺さった。剣の主が起き上がってくる気配はない。

 黒コートは倒れたソンブルに容赦なく追撃を仕掛けようと、今度は銃口に右手を添え左手で引き金を持ち、構える。しかし直後に放たれた弾丸は目標の寸分前で弾かれた。ソンブルを護るように地面に刺さったのは投擲に特化したナイフ。投げたのはサーヴァルだとすぐに気付いた。黒コートの動きが瞬間というにも短い間止まる。その隙を見逃さなかったのはカニスと、イージオの少し前にいたミルトだった。

 ミルトより小柄で片手剣より軽い双剣を携えたカニスがイージオの横を駆け抜けていく。黒コートの弾丸を無駄のない動きで次々と躱し、あっという間に間合いを詰める。

 オレも加勢しなきゃいけないのに。

 そう思っても、やはり体は動かない。なんでだ。穢れに耐性がないはずのみんなは次第に動くことができ始めているというのに、いつまで経っても力が入らない。それでも、そんなイージオのことなどハウンズには気にしている余裕もない。

 相手の懐に入り、剣を振り翳すカニス。だがその刃はコートにさえかすりもせず、黒コートは身を翻して躱した。その着地を狙ってサーヴァルがナイフを投げるも、まるで見越していたかのように空中で銃を構えて狙撃する。撃った反動で着地位置がずれるだけではない。弾丸が撃ち抜いたのは追撃を図ろうとしていたカニスの脚だった。紫色の禍々しい光が脚を貫くが、光が消えても外傷はない。しかし撃たれた者にはダメージがあるようで、転んだカニスの、痛みをこらえて呻くというにはあまりに高い声がイージオの鼓膜に突き刺さる。

 ミルトとサーヴァルも、目の前で味方がやられても怯まず追撃するために果敢に黒コートに立ち向かっていく。黒コートがミルトに銃を構えて照準を合わせようとすれば、引き金を引く前にサーヴァルがナイフで弾く。その隙に一太刀浴びせようとミルトが剣を振るう。滑らかなコンビネーションには一切の無駄がなく、剣が届く範囲まで間合いを詰めたのは一瞬だった。

 右手で振り下ろした剣は水平に構えられたマスケットで防がれた。当然ながらミルトにはそれがわかっていたことのようで、即座に今度は左手の剣を振り上げながら斬りかかる。黒コートに防ぐ手立てはない。

 ところがその剣は届かなかった。

 再度銃床を掴み、薙ぎ払う形でマスケットを振るった黒コートは勢いを利用して後ろへと下がった。押さえつけていた剣が弾かれたことで重心が後ろにずれ、ミルトの剣は虚しく空を斬る。その場所に、追い討ちの如くナイフが突き刺さるが当然それも地面を削るだけ。

 この空振りが致命的だった。

 黒コートは薙ぎ払った遠心力を使って後ろに向き直ると、息を吐く間もなくサーヴァルに照準を合わせて引き金を引いた。銃口に手を添えるのも惜しんだようで、撃った左手が反動で跳ね上がる。サーヴァルは眉間を狙われた弾丸を辛うじて避けるも、完全には躱すことができずこめかみをかすめたらしい。撃たれた衝撃で頭が仰け反る。しかしそれで終わりではなかった。

 サーヴァルに向けて撃たれた弾は、さっきカニスに撃った紫の蠍闇かつあん属性のものではない。属性に基づく聖星力ではなく穢れを凝縮させたもので、倒れているイージオにさえわかるほど凄まじい穢れを持ったものだったのだ。結果、直撃しなかったとはいえ、桁違いに濃い穢れを受けてしまったサーヴァルは耐えきれず気を失い倒れ込んだ。穢れに侵されて意識を飛ばしてしまったら、そう簡単に起きることはできない。イージオはそのことを身を以って知っていた。

 黒コートの猛追は続く。

 体制を崩していたミルトが立て直すまでにかかった時間と、サーヴァルがやられてしまうまでの時間はほぼ同じ。わずかにミルトの方が早く動けたが、距離が開いてしまった今はその一瞬は意味を成さない。剣を振り上げるよりも早く、今度こそ黒コートがミルトに両手で照準を合わせて撃つ。避ける暇はなく、弾丸は紫の筋を残して眉間を貫いた。しかし穴が開くわけでもなく、そこから血が噴き出すでもない。やはり弾は実弾ではないということだ。サーヴァルに撃ち込んだもの同様の穢れを含んだ弾をもろに受けたミルトは呻き声すら上げることなく地に伏す。左右でそれぞれ握っていた召喚型の剣が消えたことで、ミルトの意識が飛んだことがわかった。

 ミルトさんでも、敵わないのか。

 イージオは愕然とした。現状の打開策を見つけることができない自分に。なおもこの身を起こすことができない自分に。

 そんななか、間髪入れず戦線に入って来たのはゼークトだった。中腰で走りながら腰に下げていた分厚い刃の湾刀を引き抜き、放たれた弾丸を確実に避けていく。ミルト、サーヴァルとの応酬で弾にはかすりさえしてはならないのだと気付いたようだ。前職だった盗賊時代の戦い方がものを言い、カニスよりも素早く間合いを詰めるため駆け抜けていく。一方黒コートも、飛ぶように後退しながら左手で銃を撃ち放つ。

 先に相手の動きを封じたのはゼークトだった。ほぼゼロ距離まで接近した彼は目の前の銃口から弾が射出されたその瞬間に躱し、跳ね上がる銃口を掴んだのだ。黒コートも想定していなかったことのようで咄嗟に銃を引こうとするが、ゼークトもそう簡単には譲らず踏ん張る。

「デュールさん!」

 捉えたと言わんばかりの声でゼークトが叫ぶ。刹那、猛々しい咆哮とともにデュールが二人の中に割って入り、身の丈以上の大剣でマスケット銃を一刀両断した。銃を持っていた両者は相当な力で引っ張り合っていたらしく反動でふんぞり返り、さらにゼークトは斬られたマスケット銃の銃口を持ったまま、勢いそのままに後退した。直後、深々と地面に突き刺さった大剣を境界とし、黒コートが立つ足場が轟音と共に崩れた。デュールが何か聖星術を施したのだろう。砂埃が黒コートを覆い隠す寸前、バランスを崩し膝をつく姿をイージオたちは確かに捉えた。

 好機──絶好のチャンスだと本能が言う。ゼークトもデュールも確実に敵を仕留めようと得物を構えてその時を待つ。

 しかし。

 突如として今までとは類の異なる銃声が鳴り響いたかと思えば、ゼークトが声もなく倒れた。事切れたゼークトはうつ伏せに倒れ、起き上がってくる気配は全くない。隣に立つデュールは驚愕の表情を浮かべるだけで動けなかった。マスケット銃は確かに斬ったはずなのに、一体何が起きたのかと砂煙の先を睨む。足場を崩したとはいえ、砂埃とはこんなに黒く煙るものなのだろうか。イージオがふとそんなことを思った刹那、真っ黒い風に煽られ、砂埃が一気に消し飛んだ。

 晴れた煙の先では、少し離れたところで右手に拳銃を構えた黒コートが立っていた。ゼークトを倒したのはこれだ。武器はマスケット銃だけではなかったのだ。それに、なんだ。

 目の前で増していく光の色は、一体何なんだ。

 聖星術であったとしても、黒なんて色聞いたことがない。

 なんだ、あれは。

 そんな思考を阻むように乾いた銃声が鳴り、禍々しい黒い光がデュールへと向かう。だが弾は当たらなかった。もう一発黒コートが引き金を引く。しかし弾丸の狙いが定まっていようとも、直前で風に阻まれ貫くことはできなかった。当のデュールも被弾しない状況に戸惑いを見せたがそれも一瞬で、等身大以上に大きな剣を構え直した。

 シックさんだ。シックさんがデュールさんを守ってるんだ。イージオには視界に彼女がいなくともそのことに気付いた。だがそれは黒コートにも言えることだった。今、黒コートは倒れ伏すイージオの向かい側に立っている。シックがイージオにとって見えない場所にいるのなら、まず間違いなく黒コートの見える範囲にいる。

 案の定、黒コートは倒すべき優先順位をデュールからシックに切り替えたらしい。迷いなくイージオの後方に右手を向け、撃つ。一発。更に一発。瞬発力と短距離で素早く走ることに長けたシックが狙撃から逃げきれなくなったのは、未だ地に伏すイージオの視界に彼女が入って来た直後だった。

 太腿に被弾したシックを見て、イージオのなかから言葉がごっそりと抜け落ちた。今まで被弾、或いは迎撃されたハウンズは、多少の傷はあれども見た目では大きな損傷がなかった。黒コートが打ち込んだ紫の蠍闇属性の弾も、穢れに満ちた弾も、被弾した者の内側から作用して意識を飛ばすものだった。

 だが、苦痛に顔を歪ませて呻くシックの脚からは、鮮やか過ぎるほどの紅が大量に溢れていた。夥しく流れるそれはあっという間に乾いた大地に滴り落ち、黒く染めていく。イージオは目が離せなかった。

 再び銃声が響いたことで、止まっていたイージオの時が動き出す。しかしそれも一瞬で、今度は目の前でデュールが崩れるのが見えた。倒れる彼の頭からもシックと同じ紅が流れ落ちる。よく見ればうつ伏せで隠れているゼークトの腹部からも同様のものが地面に染み出している。紅い紅い、命であるはずのそれが、三人分の赤黒い染みが、人の大きさを越えて大きくなっていく。

 そんな状況を目の前にしてもイージオの身体は動かなかった。力を入れようとすると身体が硬直する。まるで自分の身体だけ時が止まったかのように。いや、身体が動くことそのものを拒んでいるような気さえした。動かない。動けない。なのに、惨憺たる状況から一切目を背けることができなかった。襲撃からわずか数分にも満たなこの短時間で、ほぼ全員がやられているのだ。実力の差があまりにも開きすぎている。だが襲撃者が身を引かない限り、ハウンズは戦わなければならない。それがたとえ命を捨てることになったとしても。

 何やってる。オレにできることは戦うことだけじゃないか。立って、剣を握って、敵を斬って、仲間を護る。オレにできることはそれだけだろ。なのになんで立てないんだ。剣を握れないんだ。動け、動けよ、動けって……!

 憤りが力に変わり、握り拳を作ろうとするイージオの指が地面に食い込む。直後、痛いという表現などでは生温いほどに強い殺気がイージオを貫いた。唯一動かせる顔を向けると、目前に立つのは襲撃者。

 かちゃり、と本来なら聞こえないはずの、照準を合わせて拳銃を構える音が妙にうるさくはっきり聞こえる。引き金に指が添えられる。あとは、その引き金が引かれてしまえば、オレは。

 死ぬ、のか……?

 答えが出るよりも前に、イージオを庇うようにして、襲撃者に対峙する人の姿があった。その両手には、夕焼けの光を浴びて輝く剣が握られていた。その艶やかな髪と同じ、オレンジ色に煌めく一対の双剣が握られていた。

 隊長、と彼女を呼ぶための声は出ない。

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