第10章 圧倒的な存在

Chapter:041

 アザレア家の女性は二十歳の節目を迎える年、必ず別荘に向かわなければならない。そこで、己自身と世界を知ることが義務付けられている。

「とはいえ、これができるのもきっと私で最後だと思いますが」

 カルモは複雑そうな顔をして影を落とした。しかし直後、突き上げるような揺れに驚いたことで瞬く間に影を消した。そうして、ほんの少し好奇心で目を輝かせると覗き込むように外に顔を向けた。そんな彼女の前方に座っているイージオはミラー越しにカルモを眺めつつ、相変わらずこの人はわかんないなあと顔には出さないようにしながらそんなことを思った。

 護衛を承ってからしばらく立ち、季節は春から夏へと移り変わった。灼熱の太陽が身を焦がす今日、遂に皇女はその在り処をオトノウルプスから移すことになった。場所はヴェルメトロポル地方。世界五大地方のひとつで世界としては北西に位置し、娯楽と花時の都と呼ばれている。貴族の別荘が立ち並ぶことで有名なこの地方は様々なエンターテインメントが存在する。イージオは今回初めて行くことになるが、そういえばエリーの出身地がヴェルメトロポルだったなと思い出す。ゼークトは知っているんだろうか。

 現在カルモ御一行と、それを護衛するブレイヴハウンズは特注の車でオトノウルプスの北側にあるだだっ広い荒野をひた走っていた。オトノウルプスが世界では南西に位置するため、汽車を使わないというならヴェルメトロポルに向かうには真っ直ぐ北上するのが手っ取り早い。もっとも、汽車に揺られた方がはるかに速く楽に行けるが、今回ばかりはそうもいかない。

 夏の日差しが焼くように大地を照らして砂埃が舞う。人も動物も全くいない黄土色の世界が地平線の彼方まで続く。悪路が延々と続くので時折車が思ってもみない揺れ方をするが、カルモからしてみればそれさえも新鮮なことなのだろう。

 今回わざわざ道なき道のような場所を越えていくには理由が二つある。ひとつは、元々世間にそのご尊顔があまり知られてはいけないため。今回かなりの大所帯で動くことから、人混みの中に紛れこもうとすれば目立つことは必至だ。だがそれは避けなければならない。

 そしてもうひとつは、皇女の命を狙っている存在が示唆されたためだ。

 特命文書にも明記されていたが、その存在とはイディオというらしい。国の最高機関でさえ詳細は不明らしいが、金さえ積めばどんな危険な仕事だろうと汚れた仕事だろうと受ける裏社会的組織とのこと。ちょうど先日、ウィンタルースの方でイディオが関わる事件が起きたという報告を受けたとリッターは言っていた。

 この数か月、ハウンズはカルモ・アザレアという人を間近で見て思った。この人は優しい。優しすぎるくらいに。慈悲しかないのかと思ってしまう程その器は広く寛大であることを知った。故に彼女は保身など一切しない。代わりに、無関係な人々は決して巻き込まないことに全力を尽くした。しかしそれでも生きねばならない。だから、信頼できる者であるリッターが、手練れと推すハウンズに協力を仰いだ。

 ただ付いて来てくれるだけならまだしも、危険なことに巻き込んでしまう可能性があることに対しカルモは傷心した様子で謝罪した。ところが、話を聞いていたカニスは一切気にする様子もなく「大丈夫ですよ」と穏やかに首を振った。

 困っている人がいるなら限りを尽くして助ける。それがギルド・ブレイヴハウンズの信条だ。ならば相手が皇女だろうと何だろうと、頼まれたのなら受けないわけにはいかない。

 コルセバーダを出発して車で走り続けて半日が経過しようとしていた。太陽はとうに天辺を越え、そろそろ空がオレンジに変わりそうな頃合いになる。

 車は二台で走っていているが、一列に並んでは走行していない。斜めのような形で、かなり広く間隔を空けながら走っている。カルモとイージオが乗っている車の運転は現在ミルトが行っている。道が荒いために揺れは度々起こっているが基本的にミルトの運転は安全で信頼できる。そういえば、もう一つの車の運転は最初リッターがやると言っていたが、あまりにも危険だからやめてくれと必死に止められていたことを思い出しイージオは頬を緩めた。それはそれで気になるけど、怪我はしたくねーな。

「あ、今日はここまでだって」

 不意に、運転していたミルトがそう言った。前を見ると、いつの間にかもう一台が先導車となりハザードランプを点滅させていた。

「今日でどこまで走ったの?」

「うーん、まだ半分も来てないかな。でも、明日の夜にはヴェルメトロポルに入れるはずだよ。目的地まではもうあと半日かかると思うけど」

「遠いなあ」

「アザレアの別荘は北西の別荘地の最果てらしいからね」

 だよね、とミルトが少し大きな声で後部座席に呼びかけると、ちょうどイージオの後ろに座っていたカニスが頷いた。

「そうなんだよ。だから明日はうちかルディヒが運転して、明後日はまたミルトに頼みたいんだよね。うちらはミルトほど運転上手くないから」

「了解。明日どうするかは相談しといてね」

 はーいと気の抜けた返事がカニスとその更に後ろに座るルディヒから揃って飛んでくると、ミルトは満足そうに頷いた。

 ハザードランプを消し、今度はウインカーを点滅させた先導車に従い、ミルトもハンドルを切る。その方向に目を向けてみれば、休むのにちょうど良さそうな岩陰を見つけた。なるほど、今夜はあそこで野宿か。

 野宿という案が出た時、本当にいいのかと食ってかかったのはハウンズの方だった。ハウンズとしては別に構いはしない。しかし今回護衛をしているのは皇女様だ。なのにいいのかと不安でいっぱいだったが、真っ先にゴーサインを出したのは皇女様本人だった。「一度でいいからやってみたかったんです」とキラキラした目で言われてしまったら、誰も何も言えなくなるのは必然だった。

 ちらりと再びミラー越しにカルモを見てみれば、カニスと楽しそうに話してた。今夜はキャンプですねと笑うその姿は、御淑やかな女性というより気の優しい少女に近い。

 義務とか護衛とかそういうの抜きにして、今回の旅がいいものになればいいな。今まで幾度となくカルモに畏怖を感じていたイージオも、この時ばかりは心の底からそう思った。そうしてそろそろ到着かと、気持ち早めに降りる準備をしようとシートベルトに手をかけた、その瞬間だった。

 突如、身に覚えのない破裂音と衝撃が車を襲った。後ろからは女性たちの叫び声が聞こえるが身動きが取れない。たまらずシートに掴みかかり身体を固定させる。辛うじて運転席に目を向けると、ミルトはハンドルを握りしめて叫んだ。

「ごめんみんな! 何かに掴まって!」

 え、と訊く暇さえないままに全力でブレーキを踏む。しかし制御しきれなかったのか激しい衝撃が飛んでくる。車は止まらない。ミルトは奥歯を噛みしめると、再度「ごめん!」と叫んで思いっきりハンドルを切った。すると車はつんざくような凄まじい摩擦音を響かせて進行方向に対し垂直になり、あわや横転というところで何とか踏みとどまった。

 しん、と静まり返る車内。やがて息を吹き返したようにカニスが声を上げる。

「……みんな、大丈夫?」

 呼応するように全員が返事をする。車には七人乗っていて、その全員が無事だと即時に確認できた。しかし。

「今のは、何だったのでしょうか?」

 カルモが呟く。全員の視線が一か所に集まり、その先にいたミルトが厳しい表情で答える。

「パンク……だと思います。でも、悪路を通ることを見越して用意したタイヤのはずなので、そう簡単にパンクなんてしないはずなんですが……あれ?」

 眉間にしわを寄せたまま首を傾げるミルトは、パンクしたであろうタイヤではなく前方を見ていた。

「向こうも同じようなことになってるっぽい?」

 そう言われて睨むように前を見ると、確かに残り半分が乗っている車も妙な止まり方をしていた。揃ってパンクとなると、道中に危ないものが落ちていたのだろうか。しかし妙だとイージオは首を傾げる。多分だけど先にパンクしたのは後ろについていたオレたちの車だ。

 しばらく全員車内で固まっていると、前の車からわらわらと人が降りてきた。数はこちらと同じ七人。確かな足取りであることから全員無事なようだ。するとそのうちのひとり、デュールが運転席側へと足早に向かってきた。

「全員無事か」

「なんとかね。みんな怪我はないよ」

 窓を開けてミルトが頷くと、デュールは安堵したように息を零した。

「そっちからやばい音がしたと思ったら俺たちの方も同じようなことになってな。横転は免れたが、タイヤは変えないとな」

「予備のタイヤ積んでおいてよかったね」

「ああ、本当に」

 一安心という様子で頷き、その後デュールは色を正した。本題は別にあったらしい。このまま今日はここで休憩しようと伝えに来たらしく、車は取り敢えずここに置いたままにしようということだった。少し距離はあるが荷物は自分たちで岩陰に持っていけばいい。必要なことを伝えると、デュールは踵を返して車の方に戻っていった。

 じゃあ俺たちも降りようか。ミルトはそう言ってエンジンを切りドアを開ける。続くように全員が車から降りると、日暮れが近いにも関わらずうだるような暑さにげんなりとした。それでもひとまず手荷物を置きに岩陰へと、いざ足を踏み出した刹那。

 オレンジ色の空から、真っ黒い雨が降ってきた。それはイージオたち七人だけではなく、どうやらここら一帯にまとまって落ちてきたようだった。突然のことにイージオたち、そしてデュールたちも足を止めた。

 降り落ちる雨は地面に着くと跳ねることなく吸い込まれるように染み込んでいった。妙な雨だなとそれを見守っていると、不意に黒い粒が頬に張り付いた。かすかに焼けるようなその感覚にイージオは息を呑んだ。違う。これは雨なんかじゃない。

 オレは、この感覚を知ってる。かつて気を失うくらいに浴びて、アルやエリー、ルーさんに迷惑をかけたじゃないか。これは──これは穢れだ。だとすれば、これはつまり。

「敵襲だ! 追撃に備えろ!」

 ハッとして顔を上げる。どこからそんな声量が出せるのかと言わんばかりの大声で、一番岩陰に近い場所からリッターが叫んだのだ。応えるようにしてミルトが、同乗していた七人を穢れの雨から守るように透明な結晶の結界のを張った。しかしこれで安心ではない。

 誰もが口を閉ざし、空気が一気に張り詰める。幸い全員武器は手元に持っているか、必要な時に召喚するタイプのためその場で臨戦態勢に入った。吹き荒れる風が砂埃と共に頬を叩く。狙われているであろうカルモのもとにはラフィネが待機し、それを囲むようにハウンズも動く。じりじりとこの身を焼いていく暑さで生ぬるい汗が流れるもの構わず、穢れの邪気ではない、人の気配を探るのに全神経を集中させる。

 直後。

 ぞっとするほどの殺気を感じたイージオが空を振り仰ぐと、真っ黒い何かが結界をたたき割った。風に煽られ翻るのはコートのようだが、凄まじい殺意もあって化け物じみたものに思えた。目を凝らして見てみれば鈍器のように振るわれたのはマスケットで、襲撃者は銃を構え直すとある方向に向けて照準を合わせて引き金を引いた。その先は皇女カルモ・アザレア。

 一切の行動が間に合わないまま弾丸はカルモに向かう。しかしそれはカルモを貫くことはせずその手前で地面に落ちた。だが安心する暇はなかった。地に落ちた弾丸から真っ黒い液体のようなものが突き上げ、瞬く間にカルモとすぐそばに立つラフィネを飲み込んでしまった。

 突然のことに誰もが呆然と立ち尽くなか、黒コートは立て続けに引き金を引く。しかし銃口を向けた先は、カルモたちとは正反対で遠くに離れたリッターとモデストだった。予想がつかなかったのか、二人は反応できなかったようでカルモたち同様に黒い何かに飲み込まれる。

「カルモ様! ラフィネさん! リットさん! モデストさん!」

 カニスが叫ぶように呼ぶが応答はない。そのままカルモとラフィネがいる結界のような黒い楕円形の物体に武器である双剣を突き立てるも、弾かれてしまい割れるどころかひびひとつ入らない。壊すには時間がかかるということだろう。

 その様子に息を呑んでいると、がしゃりと不気味な音が背後から響いた。我に返って前を向けば、しゃがみながらもマスケット銃の引き金に手を添え構える襲撃者の姿があった。

 立ち上がった襲撃者は、目深にフードを被り全身を黒一色のいで立ちをしていた。逆光のせいなんかではなく、頭の先からつま先まで、風にはためくコートさえも真っ黒だった。臨戦態勢である以上、当然ながら結界を破ることなど許すつもりはなさそうだ。

 撃つが早いか、斬るが早いか。そう思ってイージオが剣を握り直した直後、後ろから横を吹き抜けていく風を感じた。耳もとでぱちりと弾けるあの音は雷羴らいせんの聖星術。そして視界の端に映るのは、同じく短剣を構えて黒コートに突っ込んでいく片割れ。切り込み隊長の双子が我先にと勝負を仕掛けに行ったのだ。

 黒コートも応戦し、まずは目前に迫るルディヒに銃口を向け容赦なく放つ。弾丸はルディヒの頬をかすめていくばかりで決定打にはならない。

「はっ、それで当ててるつもりかよ!」

 吼えるように叫ぶルディヒは瞬く間に射程距離に入り勇ましく短剣を振りかざす。その対となる場所で兄のウンシュも短剣を構え、黒コートは完全に包囲された。捉えた、そう思ったタイミングで短剣を振り下ろそうとした瞬間。

 がくん、と前触れなしに身体から力が抜けたらしいルディヒが、走っていた勢いそのままに転ぶのに近しい形で膝をついた。いや、ルディヒだけではない。連撃を図ろうとしたウンシュも、それを見ていたイージオも、この場にいる全員が突然地に伏したのだ。いいや違う、前兆はあった。イージオはすぐに悟る。さっき降り注いだ穢れの雨が遅効性の毒のような働きをしたのだと。そしてそれは、たった一人平然と立っている黒コートの仕業だと。だとすればあのパンクも。しかしイージオに答えを出す余裕はない。

 立ち上がろうとするルディヒに、黒コートは掬うように鳩尾に蹴りを叩き込んだ。呻くことさえできず成す術のなく吹き飛ばされたルディヒの先にいたのはウンシュ。だが、起き上がることは許されなかった。

 立ち上がろうとしたその瞬間、マスケットによりウンシュの頭に強烈な一撃が叩き込まれたからだ。しかし被弾したのではない。文字通り殴られたのだ。銃口ではなく銃床で。ガードどころか反応することはままならずもろに喰らってしまったウンシュは意識を失い、吹っ飛ばされたルディヒの下敷きになるように倒れた。

 一切の無駄のない流れによって双子がやられたのは、先手を打とうとしてわずか十秒足らずだった。イージオは言葉を失ったが、それでも臆するわけにはいかない。奴が動き出す前に、カルモ様を危険に晒してしまう前に。そうイージオは応戦すべく地面に手をついた。しかし。

 ──……え?

 まるで力の入れ方を忘れてしまったかのように、イージオの身体は全く動かなかった。

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