秘密

@proton614

1話完結

秘密


「先生、どうか、秘密を捕まえてださい」

海辺の耳鼻科に駆け込んだ女の子は、息を切らせて、先生にそう、頼んだのでした。

「秘密?」

女の子は、14、15歳と見えました。海辺の町には珍しく色白で、目は黒く大きく潤って、肩幅はあるのに、脚はほそく、まっすぐでした。耳鼻科医の先生は、見かけない子どもが来たものだと、女の子を、まじまじと見ました。女の子は急いで丸椅子に駆け寄ると、白いワンピースをひるがえして、座りました。

窓から差し込み、床を切りつける橙の陽が、先生と女の子の間に伸びていました。

「私の耳に入った秘密を、今すぐ捕まえてください。必ず、陽の落ちる前に」

女の子は泣きそうな顔をして、両耳をおさえました。白い指は、百合の花の茎のようにしなやかでした。

「大変なんです。早く、秘密を取り出さないと、あの人が……」

あふれ出した玉の涙が、ゆるやかな頬の曲線をすべり落ちてゆきます。女の子は手首の内側で、頬を拭いました。雫が、彼女の腕の内側を、つうっと滴ってゆきます。夕日に照らされたそれは、まるで太陽の雫でした。

「落ち着いて、話してごらん。いったい、何があったんだね?」

先生はゆっくりと、机の上のカルテを開きました。夕日が、カルテを金色に染めあげました。その上をゆっくりと、すり減った鉛筆が、かすれた黒い曲線を残してゆきます。

「魔女に会いました。そして聞いてしまったんです。私の、大好きな人の秘密を」

女の子の話は、こうでした。

大好きな男の子が、実はカモメだったのです。しかし彼は女の子に出会い、恋をして、自分がカモメであったことなど、すっかり忘れてしまっていたのでした。ところが今しがた、女の子は、カモメを人間に変えたという魔女に会い、すべてを聞いてしまったというのです。

「海辺の魔女は、カモメを人間に変えて、遊んでいるんですって。私の大好きなあの人も、カモメだったんだわ」

耳鼻科医の先生はなんだか、上等なぶどう酒に酔って、夢に落ちてゆくような心地がしました。魔女の魔法にかかったカモメは、恋をするとカモメであった記憶をなくすのです。そして、その秘密のすべてを、誰かに知られてしまった日に、魔法は解けて、カモメに戻ってしまうというのでした。

「先生、私、全部知ってしまったわ。このままだと、あの人がカモメに戻ってしまいます。だからお願いです。今すぐ、私の耳から、秘密をとってください」

先生は、

「わかった。必ず彼の秘密を、捕まえるよ」

と言って、女の子の髪を、白い耳にかけました。

さあ、これからどうしよう。耳鼻科医の先生が女の子の耳を覗き込んだと思った時、

「ここは……」

先生はいつの間にか、日暮れの砂浜に立っていたのです。


西の空一点からは赤い光が放たれて、それは滑らかな砂浜を、茜色に染め上げています。

東の空の果てには、桔梗色の闇がじわりと拡がって、きんと光る星の一粒が、ちりちりと宇宙から光をこぼしていました。

足元では波がさらさら歌い、足首をつめたく浸しています。浜にはカモメの影が、夜の切れ端のように、つうっとすべってゆきました。先生には、すぐにわかったのです。あのカモメこそ、女の子の耳に飛び込んだ、「秘密」であると。

「見つけた!」

先生は裸足のまま、砂の上を駆けだしました。足元には波の華が、咲いては散りを繰り返し、しわわと音をたてて消えてゆきます。

何百何千年も波に磨かれた時の砂が、爪の隙間に入り込んでゆきます。しかしそんなことは気にしていられません。耳鼻科医の先生はただ、空の白一点を見上げて走りました。

蹴り上げた飛沫が、白衣につめたい水玉模様を作っていきます。

カモメは、どんどん、どんどん高度をあげて、西の空へと飛んでゆきました。


女の子は勢いよく立ち上がりました。

「私やっぱり、海に行きます」

夢を見ていたのでしょうか。耳鼻科医の先生はずっと、あの診療所にいたのです。

海もなく、砂もなく、床はただ白く平坦に続きます。靴は履いていますし、白衣も濡れていません。診療所の窓は四隅まで隙間なく、とっぷり夕日色に満たされていました。その奥から波の緒が、さらさら、さらさらと聞こえてきます。部屋全体は、夢のような橙の陽に燃えていました。

女の子は来た時のように慌ただしく、診療所を飛び出しました。

「君、ちょっと!」

先生が立ち上がった、その時です。

女の子の座っていた、丸椅子から、白い羽根が一枚、ふゆりと床へ落ちました。

人間に恋をしたカモメは、カモメだった記憶をなくしてしまうのです。そしてすべての秘密を他の誰かに知られた時、人間から、カモメに戻ってしまうのでした。


砂浜に降りると、さきほどの女の子が、カモメを追いかけていました。耳鼻科医の先生は、その女の子を追いかけます。

黄金に光る、波と砂との境界線は、永遠とも思えるほどに続いていました。桔梗色の闇は、満ち潮のように急速に、空を浸してゆきます。

一羽のカモメが、先生の真上を飛んでゆきました。走る女の子を追うようにして、まっすぐにとんでゆくカモメが。先生は深く息を吸い込んで、叫びました。

「君も、カモメだったんだ!!」

先生の声に、振り返った女の子は、たちまちに白の羽毛に包まれました。足は軽やかに宙を蹴り、空を駆け上がってゆきます。

2羽のカモメが、星をめざしてとんでゆくのを、先生はいつまでも、いつまでも見送り続けたのでした。

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