白い風船


 すると、お兄ちゃんはいなくて、かわりに若い男の人の整った顔が、目の前にあった。驚いて周りを見回すと、部屋ではなく、電車のなかだ。片側の車窓には鬱蒼と生い茂る木々が溢れていて、枝や葉が窓に擦れている。反対側はぱあっとひらけていて、海がきらめいている。

 そして、私の掌の唇には、ピンセットや顕微鏡はなくて、かわりに彼が水筒から水を注いでいる。唇が時々、水を飲み切れなくて、嘔吐するように吐き出す。血液を少しばかり噴出しているみたいな感触で、気持ち悪い。彼は、私の唇が、吐き出した水を纏って濡れ輝いているのを、可笑しそうに眺めている。

 さびれた無人駅で降りた。眩暈がするほど暑かった。私は、すたすたと先を歩いていく彼に、置いて行かれないか不安になりながらついていった。森のなかの舗装されていない小径を、鳥や蝉たちの声を聞きながら汗を流して進むと、一軒の廃墟に着いた。大きな家屋で、お屋敷という佇まいだけれど、長いあいだ使われていないらしく瓦屋根にまで草木が纏わりついている。すぐそばに川が流れていて、涼しげな音が聞こえてくる。

 開け放たれた縁側に、数羽の小鳥が飛び跳ねていた。木漏れ日がふりそそいで気持ち良さそうなので、私も寝転がってみる。小鳥たちは、逃げないどころか、私の胸や腹にまでのぼって楽しそうに飛び跳ねる。けれど、掌の唇を見つけると、おずおずと近づき、やがてみんな唇に身を添わせて、ことんと寝入ってしまった。

「どうだ、気に入ったか、ここ」

 彼が縁台に腰かけて、私をじいと見つめた。綺麗だけれど、心のない、おそろしい顔だ。

 私は、彼の視線を避けるように身をよじった。ふと、小鳥たちのかわいい躰からたちのぼる生きものの匂いをかいだ。風が吹いたのだった。草木がざわめいて、自然の匂いも私を包んだ。その時、私はここに連れて来られた運命をしった。私は、掌の唇が美しい歌を口ずさむ日を待つために、ここに来たのだ。どうしてそれをしっているのか、私はわからない。どうして唇が歌わねばならないのか、それもわからない。けれど、私は風にささやかれて直感した。なにもかもは、花が咲き、朝がくるように、あたりまえのことなのだ。

 森の奥での暮らしがはじまった。彼は私にすべてを用意した。朝陽がのぼる頃合いに家を出て、夕明りが樹々を染めると帰ってくる。彼は、どこからか、美しい洋服や、美しい本や、美しい貝殻を持って帰って来てくれる。私は毎日、彼を送り出し、彼の帰りを待つ、それだけのために息づいていた。彼のことは好きでも嫌いでもなかった。彼がいて、私がいる、それだけ。

 私は彼のくれるもののなかで、白い風船がなによりも好きだった。その頃の私は妙に丸いものが好きで、風船は丸いうえに、しかもぷかぷかと浮かぶ。私は風船と一緒に浮かんで空を散歩する夢をよく見た。彼の持って帰ってくるもので最も嫌いなのは人形と本だった。人の顔や物語は、樹や花や川なんかと比べると、あまりにうるさかった。つきあいきれないという感じがしだ。けれど彼は、人形と遊ばなければいけないとも、物語に触れなければいけないとも言った。

 彼は私のよろこぶことをしてくれるのではない。彼は彼の心からすべてを行う、その行為のなかに偶然にも私のよろこぶようなことがあるだけだ。風船なんかはその偶然の一つだ。森の暮らしで彼が強いる、ほとんどのことが私は嫌いだった。

 とりわけ嫌いなのは、掌の唇の食事だった。彼は小鳥を殺して、私の掌の唇に押し込む。唇に意思はないので、噛んだり飲みこんだりはしない。だから彼は銀色のフォークを使って、無理矢理に飲みこませてしまうのだった。どれだけ抵抗しても、彼は時に私を縛りさえして、それを強いた。ある時から、掌の唇は、小鳥を自ら噛み、飲みこむようになった。その光景を前にして、いつも無口な彼が、気の狂ったようによろこんだ。

「もうすぐだ。きっともうすぐ歌い出す」

 私は、掌の唇が歌うとはそういうことかと思い知った。かわいい小鳥たちの肉と骨を噛み砕き貪る。美しい唇の歌はその果てにある。私は自分が嫌になった。掌に唇をもった自分の身体を、清潔な川に投げてしまいたいとさえ思った。

 やがて掌の唇は、生きた小鳥が近寄ると勝手に食らいつくまでになった。私にはどうしようもない。唇が小鳥を食い殺して、掌が血と唾液とにまみれるのを眺めながら、私は生を振り切る力すら崩れていくのを感じた。それからというもの私は、掌の唇と彼に心を捧げてしまって、日がのぼっては没し、森がざわめいては鎮まるのを、うつろな心地で眺めるだけだった。

 森で彼と二人きり、四度の夏を過ごした。他の季節はなかった。

 ある夜、私ははじめて、彼の寝言を聞いた。眠っていたのに、彼の声で目が覚めたのである。

「林檎は砂浜に埋めてしまえ。白い風船は俺に割らせろ」

 私は眠りを破られたので、彼の寝顔を眺めて憎く思いながら、再び寝入った。

 次もまた、耳に音が届くので、起きてしまった。薄らと目を開くと朝だった。聞こえるのは聞き馴れない歌声だ。それは、樹々のざわめきより、川のせせらぎより、鳥たちの歌より、晴れやかだった。

 音楽は、掌の唇からだった。唇はいきいきと伸び縮みして、本当にこの声が私の身体から出ているとは信じられないような、とても神々しい声で、歌っている。

「唇が歌ってる」

 と、私は彼を起こした。彼は飛び起きた。それから、歌声に聞き惚れるように、布団の上に胡坐をかいて、目を瞑った。

 私は掌の唇の歌声を聞きながら、彼を見つめた。永遠に聞いてほしいようでもあり、唇なんて消えてほしいようでもあった。幸せだった。

 彼がにわかにこっちを見て、微笑んだ。

「どうした。そんなに顔を赤くして」

「だって、唇の歌を、そんな真剣に聞かれると……」

 私は、彼の目が見れなくて、俯きながら言った。

「もしも、本当の唇であなたとキスするとしても、きっとこんなに恥ずかしくないわ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

掌の唇 しゃくさんしん @tanibayashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ