掌の唇

しゃくさんしん

ハイビスカス


 お兄ちゃんが沖縄への修学旅行から帰ってきた夜、私は夢をみた。人のいない水族館で、クラゲを眺めていた私は、不意に吐気に襲われた。たまらず胸にのぼってきたものを吐き出した。すると口から出たのは、真赤なハイビスカスだった。お兄ちゃんがお土産といってくれたものである。

 目が覚めてからもまだ胸苦しかった。私は思わず、枕元に活けたハイビスカスを忌々しい思いで睨みつけた。活けたのは昨夜のはしゃいだ私だけれど、これの匂いが私にあんな夢をみせたのだ。そう思うと、隣ですやすやと眠っているお兄ちゃんにも、こんなものくれなけりゃ良かったのに、と腹が立つ。

 吐気と眠気がさめてくるにつれて、左の掌に違和感を覚えた。見てみると、親指の付け根のあたりの、ぷっくり膨らんだところに、唇がついている。白い掌のなかで華やかな桃色だ。初々しい膨らみがあって、今にもあどけなく話しだしそうである。右手の指で、そっと触れてみると、みずみずしく張っている。女の私でもキスしたいくらいだ。また、唇には感触があってくすぐったい。唇を撫でられるこそばゆさというのは、なんとなくどきどきする。

 歯や舌も覗いてみたくて開いてみる。すると歯は乳歯のように小ぶりで、舌もあるにはあるけれど自ずから動いたりはしない。指で弄ぶとしなやかにねじれる。普通の舌と同じように濡れている。歯や舌に触れていると、本当の唇とはちがってあまり何も感じず、抓っても痛みはない。ただ薄い感覚はあって、触れられているという感じはする。歯医者で麻酔された後の痺れている状態のように、痛みも快感もなくて、感触だけがある。指を限界まで深く入れても、口のなかのようなぬめぬめと柔らかいのがどこまでも続いているだけで果てがない。私は指を蠢かしながら、開いた唇が指を飲みこんでいるその光景を眺めて、まるで身体のなかを弄っているみたいだと思った。

 お兄ちゃんが起きた。私はすぐに、

「ねえ、お兄ちゃん。私こんなふうになっちゃった」

 と、掌の唇を見せた。お兄ちゃんは眼鏡をかけてじっくりと見入った。

「触っていい?」

「うん。いいよ」

 お兄ちゃんの指が、恐る恐るというような慎重さで、私の掌の唇に入ってくる。お兄ちゃんの指が私の肌の内側に侵入してくる。

 感触に乏しいから、歯や舌を撫でまわされたって、つらくも快くもないけれど、なぜか怖ろしいような感じがした。お兄ちゃんがいつになく真剣な面差しだったせいかもしれない。

「ぬるいんだな」

 お兄ちゃんが意外そうに言った。

「そうなの?」

「自分で触ってないのか?」

「触ったけれど…。触ってる感触と触られてる感触があるからかな、気づかなかった」

 お兄ちゃんが驚いたように指を抜いた。

「触られてる感触があるのか?」

「うん。あるよ。痺れてるみたいに、鈍いけどね」

「はやく言えよ」

 吐き捨てるような口ぶりだった。お兄ちゃんの肌が怒っているように赤かった。

 どうして怒られなくちゃいけないのか私はわからなくて、かちんときてしまい、言い返すように声を上げた。

「感触があるなんて、あたりまえじゃない。私の掌で、私の唇なんだから」

 お兄ちゃんは不服そうに舌打ちをして、しばらく黙り込んだ。私の掌を手に取ったまま、眺めるだけで、触れなかった。しかし、少しするとおもむろに机の方へと立っていき、抽斗から顕微鏡とピンセットを出してきた。それらを窓のそばの床に置いて、カーテンを開いて、私に手招きする。

「ちょっと来い」

 掌の唇を、解剖でもするように観察するつもりなのだろう。私はなにも答えなかった。恥ずかしさよりも怖ろしさで躊躇った。

「おい、はやく」

 やっぱり、らしからぬ真剣な様子で、お兄ちゃんは急かしてくる。私は嫌々ながらも、抗いきることもできなかった。

 窓からさす陽の下に、掌の唇をさらけだす。物も言わない唇は朝の清潔な光を浴びると匂い立つようにつややかだ。お兄ちゃんの手に握られたピンセットも、上唇を丁寧にまくりながら、銀色の鋭い輝きを放っている。

 私はかたく目を閉じて、されるがままに身と心を任せた。

 ひんやりとした感触が唇やその奥へ滲むのとともに、かちゃかちゃと機械じみた音が鳴る。

「もういい?」

 と、私は恐る恐る目を開けた。


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