『そして私は神を続けることを誓う』
中田祐三
第1話
庭の中で騒がしく鳴いていた虫たちはすでに息絶えたようだ。
テレビのニュースで紅葉が話題になる時期になって今更そんなことに気づき、深く溜息をつく。
その時分には自分たちの何分の一も無い小さな身体の持ち主たちの精いっぱいのアピールをやかましく思っていたというのに、慣れてしまえば静かになったことにさえ気づかない…。
若いころに読んだ恋愛小説の一節を思い出した。
『君との思い出を僕は日記に書くよ。 だって余りにも僕たちは『今』という存在を忘れてしまうのだから。』
もっと写真やら記録を取っておけばよかった…彼女が消えてしまう前に。
いつだって後悔は忘れたころにやってくる。 ありふれたその格言も同時に思い出して私はそっと窓を閉める。
「…どうかなさいましたか?」
昔と変わらない表情で彼女が後ろから声をかけてきた。 その手には世間一般でいう晩酌用のよく冷えたビール瓶を拭きながら。
「ああ…静かになったなと思ってね」
「そうでしたか…」
ニッコリと笑って恭しくビールの瓶をテーブルに置いた。
コトッという硬質な音が室内に響く。
「ところで救世命(きゅうせいのみこと)様、静かになったというのはあの鈴虫達でしょうか?」
問いかける彼女の姿や仕草は何も変わっていない。
「ああ…そうだよ」
穏やかにうなずきながら…私はため息を出すのを堪える。
「それではやっと虫たちは命様に救われて来世に旅立つことができたのですね…毎日毎日あんなに泣いて助けを求めていましたものね」
かつて自分が一目で恋に落ちた最高の笑顔で彼女はそんなことを言う。
そして私は…、
「ああそうだよ、あれだけ小さい身体で毎日泣いて精進したのだからね」
ゆっくりと威厳を込め、肯定をした。
「そうでしたか、それにしても私は情けないです」
眉をうっすりと下げて瞳を伏せる。
「私はいまだにラグナロクの戦いの時の記憶を思い出すことが出来ません…やはり一度悪魔側に堕ちたことが原因なのでしょうか」
知らない人間から見たらトンデモナイことを語る彼女の頬に優しく手を添える。
「大丈夫…その気持ちを持ち、修行すればやがてニルバーナへと辿りつくことが出来る…私にはその日がわかるが、あえてここでは言わないでおこう、教えてしまえば油断して心にデーモンが入り込むだろうからね」
また私も人が驚く答えで彼女を慰める。 その荒唐無稽な返しにも彼女は涙で瞳を潤ませながらゆっくりと頷く。
「…は…はい…精進…し…ます」
後悔に耐えて私はいつもの言葉を口にする。
「それでこそ…我が第一の信徒だよ」
私と彼女の関係が変わってからもう数年が立った。
そう…新興宗教に洗脳された妻を再洗脳してからそんなに時間は経っている。
私から愛する人を奪った『神という概念』に復讐するため、彼女に自身を神だと偽ってから…ね。
かつて彼女が信じる『神』を罵り、嘲り、徹底的に論破した。
元々世間から問題視されていた団体だったので、その教えの矛盾をついた本が十分に出回っていたので、勉強はたやすかったのだ。
しかしその論理の綻びを突いても、彼女の脳内に刷り込まれた『神』という畏怖を崩すことはできなかった。
日々、勉強していくうちに私は妻の信仰は重症だということに気づいてしまった。
論理的な部分は様々な点を突けば解消する。 所詮は概念なのだから、しかし倫理の方はそうはいかない。
私は彼女を部屋に閉じ込め、昼夜も問わず論闘をした。 それはまるで戦場のように過酷で、悪魔祓いのように凄惨であった。
それでも何日も策を練り、準備をし、そして監禁してまで掴んだ勝利は完全ではなかったのだ。
「…どうしたのですか?私には貴方様のような真理に目覚めていませんので御心の悩みがわからないのです」
笑い出してしまいそうなくらいに破綻した論理にも気づかない、そのくらいにまで洗脳できているというのに…。
「悩みなど…私は常に永遠の安寧の境地にたどり着いているのですよ」
安心させるように、すっかりと身についた柔和な笑みを浮かべる。
「はい、そうでしたね、覚りを開いている救世命様に大変失礼しました」
そう言って深々と頭を下げる。 まるで違う人のように…。
そのたびに私は胸を掻き毟られる様な辛さに耐えなければならない。
私は『私とする個人』を愛してもらいたいのに彼女は『神である私』しか見てくれていない。
いや、それは違うだろう。 彼女は神しか見えていないのだ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ」
新婚時代と変わらない挨拶で神と信者は幻間(げんかん)で別れる。
曼荼羅のように規則正しく並びながら電車を待ち、苦行のような満員電車に揺られていると不思議とホッとすることができる。
私が凡人の一人なのだと気づかせてくれるからだ。 彼女との『宗教演技』は精神的に疲労してしまう。
いつから家の帰宅時にため息をつくようになったのだろうか。
電車の窓には疲れた男が写っている。
あとどれくらいの間、この関係を続けるのだろうか?
死ぬまで? 憤りにも似た寒気が背中を走る。
ふと電車の窓から見上げた空は皮肉なまでに晴れ渡っていた。
帰宅途中、公園のベンチに腰掛ける。
この公園はかつて私がプロポーズをした場所だ。 その日はとても寒く、一緒に歩いていた彼女の口元から出る白い息がとても儚く揺らいでいた。
年齢差もあり、私は彼女の家族に良く思われていなかったので二人で出かけた際に別れるのはいつも彼女の家から近いこの公園だったのだ。
近くのコンビニで買った肉まんを二人で分かち合い、このベンチの上で食べて、逢瀬の終わりを名残惜しんだ。
「それじゃ…もう、いきますね」
毎回見せる少しだけ寂しげな顔に微笑を浮かべて彼女が席を立つ。
「ま、待ってくれないか!」
「はい?どうしました?」
まるで弾かれるように私もベンチから腰を上げる。 そして何度も練習をした言葉を緊張感に抗いながらポケットから決意の証を取り出した。
「あ、あの…わ、私は君とは年齢が離れていて…その…決して頼りがいのある男ではないんだけれど…」
彼女は不思議そうにこちらを見ている。
「だ、だが…それでも私はどんなことがあろうとも君を愛することを誓うよ…だ、だから…その…け、けけ結婚してくれないか?」
開けた小箱の中には指輪が一つ。 一年も前から準備して、若い女性店員のアドバイスを聞きながら選んだ品だった。
「…………」
彼女は無言だった。
まだ時期尚早だったのだろうか? おそるおそる覗き込む彼女の顔は興奮だろうかそれとも嬉しさだろうか強い感情で真っ赤になっていた。
そして彼女は無言で指輪を受け取り、左手の薬指につけると「はい」と涙をにじませて返してくれた。
懐かしい。 いま思い出しても激しい恥ずかしさと共に心が暖かくなる。
そうだ。 確かに私と彼女の関係は歪なモノとなってしまったが、あの日あの時に通じあった思い出は確かに記憶の中に残っていて、それはきっと彼女の中にもまだ残っているはずなのだ。
そうであってほしい…いや、そうでなければいけない。 もしかしたら歪んでしまった二人の間を甘やかに溶けさせてくれるかもしれない。
年齢不相応な情熱をあの時と同じように燃え上がらせてベンチを飛び出して、走り出した。
かつてあったはずのそれを信じて迷い無く進むように。
「ただいま」
「おかえりなさいませ…救世命様」
両手を玄関口につけて妻は私を迎える。
数年前に強引に結びなおした関係の結果、毎回当たり前のように繰り返される神を向かえる最上級の敬意の行動。
それを見るたびに心が根腐りしていくようだったが、今日こそはそれが変わるきっかけになるはずだ。
「夜も大分涼しくなってきたね」
「ええ、そうですね…ですから今日はお鍋にしてみようかと思って用意させていただきました」
鍋か。 少し早い気もするけれど、買ってきたこれを見せるにはちょうど良いかもしれない。
「そ、それは…タイミングがいいね」
声が緊張でうわずる。 落ち着け…大丈夫。 ゆっくりと口を動かして、慎重に差し出せばいい。
そうすればきっと世界は変わる。
「はい?…あの、それは…?」
「ああ、途中のコンビニで買ったんだよ。懐かしいなと思って…君の分も買ってあるよ」
「そ、それは…私は…その…」
彼女の顔がくもっている。
どうしてだ? あの日のことを思い出せばそんなことは…。
「覚えているかい?君と結婚の約束をした時も同じように一緒に食べたじゃないか」
出来るだけ優しく声を発するが、彼女は困惑を隠せないようだった。
「あ、あのときは…まだ真理に目覚める前でした…から、いまは…そういった罪深いこと…は」
言葉を慎重に選んではいるが、はっきりとわかる。
拒絶された! 私と彼女の大切な思い出にあるこれですら恥ずべき過去の一部とされているのか。
「も、もうしわけありません…わ、私はいまだ目覚めきって…おりませんので肉を食することは…その…カルマを積んでしまう…ので」
「カルマなんて!そんなもの!」
言葉はそこで途切れた。 かつて新興宗教に洗脳されつくした彼女の頭の中ではその残滓がいまだにこびりついて根を張ってしまっているのだ。
そしてそれが決して取り除けないことを知り、それごと彼女を強引に自分の者とした。
再度の洗脳を持って…。 監禁し、食事を抜き、決して寝かせず疲労させて。
「わ、私を…た、試しておられるんですよね?だ、大丈夫です私は自らが積んだカルマを洗い落として必ず真理に目覚めますので…どうか…信じてください」
信じてほしいだと! 俺は信じた! 裏切ったのはお前の方だ!
在るはずも無い神を名乗り、その真似事をしてお前を救ったのはこの私だ!
なのにお前はいまだそんな愚かな戯言をいまだ信じて私との間にあった思い出を踏みにじった!
お前こそが裏切り者だ! お前こそが悪魔だ! お前こそが…!
無意識に両手が彼女の首に掛かっていた。
暖かに湯気を発した肉マンは冷たい玄関のタイルに落ちて徐々にその温かみを失っていく。
「救…世……様…あぐっ…がっ…はっ」
ギリギリとした音が両指の先から聞こえてくる。 それは彼女の細首から鳴っているようだ。
喘ぐような苦しい息遣いが口から漏れ、顔色は休息に赤くなり、やがて徐々に蒼白へと変化していく。
彼女の両手が私の手首へと伸び、どうにか振りほどこうと足掻いているが、それはすぐに垂れ下がった。
意識を失ったのではない。
呼吸を止められてなおも骨も折れそうなほどに力を込めている私の瞳を真っ直ぐに見つめながら彼女は弱くニコリと微笑みながら…
「わ、私の…命も…肉…体も全てあなたの…物です…御心の…ま…ま…に」
皮肉なことにその言葉を聞き、やっと首を掴んでいた両手を降ろすことができた。
「げほっ、ごほっ…ハアハアハア」
「わ、私は…い…ま…なに…を」
呆然とする私の足元で彼女は苦しそうに咳き込んだあとにようやく動けるようになったのか絡みつかせるように私の足元に縋りついてきた。
「ど、どうか…お許しください…唯一神の貴方様の御心を理解できない私に」
最愛の妻を殺そうとしてしまった衝撃と彼女がここに至ってなおも私を神と呼ぶことに何も言うことが出来ない。
もはや怒りも無い。 あるのは途方も無い程の徒労と絶望だけだ。
「わ、私…は神などでは…」
搾り出すような声は彼女には聞こえていなかったようで、なおも私の足元に縋りつき、
「ああ…私は恥ずかしいです。この愚かな身では貴方様が何に対して憤っていられるのかわからないのです。どうかそんな私をお許しください。お願いです…どうかお許しを!」
その姿はまるで神に懺悔する敬虔な信者のようにも見えただろう。
懺悔したいのは私の方だ。
どうしてこうなってしまったのか。 どうしてそうしてしまったのか。
疑問をいくら浮かべようとも、身を切られるよりも辛い後悔だけが私を打ちのめしてくれる。
「すまない…すまなかった…本当に…」
今度は私が膝を下ろして謝罪をする。
だがそれは誰にだろうか?
決まっている妻にだ。 私の愛しい人。 どんなことがあろうとも絶対に失うことなど出来ないと思っていた最愛の彼女を私はいま殺そうとしてしまったのだから。
だが彼女はその姿に動揺が隠せない。
涙を流し、彼女を抱きしめていてもその言葉が彼女に言っているということに気づいていない。
気づこうとしない。 それこそが私にとって最大の罪悪。
心底から思った言葉でさえ届かないという事実こそが私にとって最大の痛みだ。
そしてその無限に思える痛みすら甘受させてはくれない。
「あ、あの…救世命様? ど、どうしたのです…か?」
困惑しながら私の両頬に手をかける彼女の瞳にはうっすらと陰りがにじみ出ていた。
それは信仰。 私が彼女を取り戻すために嘘をつき、ひどいことをし、そして全てを失ってでも手に入れようとした彼女のそれが揺らいでいる。
駄目だ! それだけは駄目だ! それだけは…。 唯一残った私の希望を失うわけにはいかない!
「…いやいや君のオーラがやや乱れていたのでね、悪魔に毒されていないか少し試したのだよ」
涙を無理やり切り捨て、嘘だけで塗り固められた微笑を顔面に貼り付けながらゆっくりと立ち上がる。
「えっ?そうだったのですか?もうしわけありませんでした!」
彼女は慌てて私に平伏する。 先程の私以上に頭を低く下げ、床に額を押し付けて許しを請う。
そんなもの。 いらないというのに…。 彼女は非の打ち所も無いほどに完璧な信者だった。
床を見ている彼女は私の表情を見えていないだろう。
私がどんなに絶望し、打ちひしがれて、そして狂信者が異教徒に向けるような憎しみを宿したそんな顔を。
「…頭を上げなさい」
「は、はい…」
親にこっぴどく叱られた子供…いやそんなものとは比べることも出来ないくらいに怯えた彼女が私を見上げる。
なんて顔をしているんだ。
奥歯を噛み締めて表情を硬く固める。 まるで鉄のように。
何度もやっているが強い感情が蛇のように心内でのた打ち回る。
先程の無限にも思える痛みですらこのための前哨だったとさえ思えてしまう。
それを抑えるための沈黙が更に彼女を追い詰めたのか、彼女が必死な形相で懺悔を始める。
「ああ…私は…私は罪を犯しました。他に誰も居ない唯一無二のあなたに疑いをもってしまったのです。どうか許してください、私を見捨てないでください何でもしますので…どうかこの愚かな私に慈悲を!」
その叫びはもはや血を吐くような慟哭になりかわり、縋りつくというよりはしがみついているようにも見えた。
彼女の肩に両手を置けばビクリと肩が跳ね上がる。 瞳からは溶け堕ちるように涙が流れていて、
「お前の罪を許そう。私には全てわかっているのだから…ね」
「ああ…ありがとうございます。ありがとうございます我が神よ」
この期に及んでまだ私を神と呼ぶのか。 無理やり歪ませた笑みの下でギシリという軋む音がする。
いや彼女に罪は無い。 私がそうしたからだ。
神に全てを奪われた彼女を私が神となって奪い返したのだから。
そしてその結果がこれなのだ。
翌日、彼女はいつものように会社に向かう私を見送ってくれた。
そして私も同じように「それじゃ、行ってくるよ」とだけ返す。
揺れる電車の中。 沢山の人々にもみくちゃにされながらみる窓の外の景色もまた同じだった。
ため息がまた漏れる。 深く。 強く。
出し切った後も私の憂鬱は途切れることなく心の奥底にへばりついて取れることは無い。
それを誤魔化すように心の中で呟く。
もう戻ることはできないのだ。 私が神をやめる、その時に彼女と私の関係も終わりを告げる。
ならば死ぬまで神を続けていこう。 それこそが私の犯した罪なのだから…。
その言葉はどんな予言の言葉よりも真実味を帯び、核心をついていて、それが私にまた大きなため息をつかせるのだった。
電車は揺れる。 私の心もまた同じように。
ただ揺るがないのはこれから先、それだけだろう。
『そして私は神を続けることを誓う』 中田祐三 @syousetugaki123456
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