羽(短編小説)(原稿用紙46枚)
Umehara
第1話
初めて口にした酒は、チョコレートの味がした。酒が喉を通り、胃で熱を発するのを感じながら、ナツは光を帯びたステージを見つめた。
高円寺の線路下の古本屋で、「エンジェルウィングありますか」と店主に言うと、本棚の後ろの隠し扉から、地下の店に通される。店は、音楽喫茶だった。ナツが重い扉を開けて入ると、彼女はすぐにナツに気付いて、カウンターの中から「嬢ちゃん」と手を振った。彼女の背から生えた白い二枚の大きな羽が、店内の暗い照明を浴びて赤紫に光っていた。
彼女はナツをカウンター席に座らせ「来てくれたんやなァ」と顔を綻ばせたが、すぐにナツが打ち沈むような顔をしているのに気付いて、声を落として「どしたん?」と尋ねる。
音楽喫茶のはずなのに、カウンターの脇にはなぜか「おでん」と書かれた提灯がぶら下がっていて、その下で火にかけられた四角い大鍋が、赤い湯気を立てている。提灯の後ろの壁に、「ヒナ手羽、一本七千円」と書かれた紙が貼られている。ナツはようやく、この店が天使の手羽を出す店だと気付いた。
ナツは貼り紙から視線を逸らし、膝の上で手を握り締めて俯く。コートのポケットの中に、金の入った封筒がある。父の手羽肉と羽根を、ついさっき金に換えてきた。
――イモかんのんが死んだので、今日で、もうおしまいです。
手羽肉を売るために通った店で、ナツは震える声でそう言った。ヒナの手羽だと偽っていたのだから、イモかんのんと言ってはいけなかったのかもしれないと、今更ながらナツは思う。
黙り込んだまま、寒さに耐えるように身体を丸めるナツに、彼女は「嬢ちゃん、酒、飲んだことある?」と尋ねた。
ないです、と言おうとしたが、喉が締まって声が出ず、ナツは首を小さく横に振る。
「したら、今日がお酒デビューや」彼女は歌うような声で言って、ナツのために酒を作り始めた。窮屈そうに畳まれた羽が、酒の並んだ棚の前を揺れ動く。酒の瓶が落ちやしないかと、ナツは落ち着かない気持ちで羽を見つめる。
大阪の空を自在に飛んでいたという彼女の羽は、折り畳んでも彼女の身長より高く、新宿の狭い路地で出会うたび、天に住む「天使」が、間違って地上に落ちてしまったかのように見えた。
ナツの生まれ育ったところでは、大人の天使はいなかった。幼い天使はたまに見かけたが、羽は大人になる前に切り落とされた。
「お代はいらんよ、サービスや」
彼女は酒の入ったコーヒーカップをナツの前に差し出した。ナツはかすれる喉で声を絞り出し、やっとの思いで「ありがとうございます」と言って、カップに手を伸ばす。彼女の作った酒は熱く、両の手でカップを持つと、かじかんだ指先に熱が通った。
明治時代に西日本で確認された、羽を持って生まれた人間、通称「天使」は、昭和に入ると急激に数を増やし、今や北海道から沖縄まで、天使の赤子が生まれている。現在、全国の新生児の一割が天使として生まれており、中絶を含めれば胎児の二割は羽を持っているとも言われていた。だがその羽は小さく、ほとんどの天使は飛ぶことができない。飛べるほどの羽を持つ赤子はごくまれにしか生まれず、無用の長物でしかない器官は、幼いうちに切り落とされた。
ナツの父は天使だった。相模川の支流、田万川沿いの小さな村では、白い二つの羽は日よけ程度にしかならず、機銃掃射の的にされると言われて、村で生まれた他の天使もそうしたように、五つになる前に切り落とされた。物資の乏しい戦中に、酒を麻酔代わりに切り落としたという二枚の羽、その切り取った傷痕を、父は勲章のようにナツに見せてくれた。
肩甲骨と背骨の間、肋骨に繋がるように生えた羽を、骨ごと切り取る。父の羽はさほど大きくもなかったが、腕ほどもある太いつなぎ目を、大人たちが力尽くで押さえて切り落とし、膿んだ傷口に焼きごてを当てた。
あれが一番痛かった、と語る父の話を、ナツは怯えて聞いていた。
「もう痛くないん?」
父の背中に手を当てて、幼いナツは何度も聞いた。ナツが不安そうな顔をしているのを見て、父は「いてえ、いてえ」とおどけた。
ナツが怯えて泣き出して、母があやし始めると、父はけろりと笑って、もう痛くないと言うのだった。騙されたと気付いたナツはむくれるが、父が「ほら、飛行機してやろか」と言えばすぐに機嫌を直して、父に抱き上げられてはしゃいだ。
「羽は、もう、生えないんかい?」
子供の天使を見かけるたびに、ナツは父を見上げて言った。
「もう生えねえなぁ」
「そうなん」
不満そうな娘の口調に、父は苦笑する。
「羽のあるとこ、見たかったなァ」
ナツの思い描く父の羽は、西洋の絵画にあるような白く巨大な翼で、翼を持った父はナツを抱き上げ、遠くの町まで飛んでいくのだ。もう一回生えてきたらいい。でなければ自分に羽が生えたらいい。幼いナツは、父の背を見て何度も思った。だから父の背中に突起ができたとき、願いが叶ったと思ってしまった。
イモかんのんと呼ばれる病があることは、ナツはとっくに知っていた。だが、自分の身内のものがその不治の病になろうとは、十四のナツには想像もできないことだった。
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