第5話



通帳の残高は、父が働いていたころよりも増えた。父の肉を売り始めて一年、身体じゅうに血と糞尿の臭いが沁みついていたが、近所の農家には牛や豚がいる。ナツの臭いなど誰も気にしなかった。

一週間前に切り取ったばかりなのに、父の背中の肉腫は、もうかぼちゃほどの大きさになっていた。朝、父に食事を食べさせ終えて、ナツが学校に行く支度をしていると、床の間から「ナツ」と呼ぶ声がした。父がはっきりとした声で話すのは久しぶりだった。

襖を開けると、父はこちらに顔を向け、干した芋がらのような手足をこすって、「俺ァ、そろそろ死ぬだろ」と言う。

手足の筋肉はほとんど落ちて、肋骨の浮いた身体は餓死者のようだ。もう内臓だって弱っているはずだ、きっと死期が近いだろうと父は言う。

ナツはまるでそう答えることが決まっているように反射的に「大丈夫だよ」と言っていた。

「死ぬわけないよ、お父さん。イモかんのんは、水さえあれば、そうそう死んだりしないんよ」

死という言葉にうろたえたナツは、明るい声を出し、励ますような口調で言った。我ながらお粗末な励ましだと、言いながらナツは思った。父の目が、力を持ってナツを見つめた。そんなことはない、と言われるだろうかとナツは構える。しかし父は何も言わずに、長い息を吐き、目をつぶった。痛み止めが効いてきたのだろうとしか、そのときナツは思わなかった。


それが、今朝のことだった。


酒のせいか、首から上がじんじんと熱い。目が充血していくのを感じて、ナツはカウンターに頭を寄せる。

彼女は出番だと言って、カウンターから出て行った。流れていたレコードが止まり、客から拍手と歓声が沸き起こる。顔を上げると、ステージが明るく照らされていた。その中央に彼女が立ち、マイクを持って足元を見つめている。

ステージの上には、他に三人の男がいた。その中の一人が彼だった。裸の上半身にギターを抱えた姿の彼は、ナツに気付いて手を振っている。ナツは精いっぱい笑顔を作り、手を小さく振り返した。

ステージの照明が落とされ、室内は一瞬しんとなり、真っ暗になった視界の中に、残像のような淡い光が浮かび上がっては消えていく。

もうすぐ死ねるよと言えばよかったと、ナツは思う。

死なないなどと言ったから、父を死なせてしまったのだ。

自分が父を殺してしまった。



ステージが光ったと思うと、部屋全体を揺さぶるような音が四方のアンプから客席を襲った。客が高い声を上げる。ナツは目を見開いてステージを見つめた。

 光の羽根が、ステージいっぱいに降り注ぐのをナツは見た。彼の背中から噴水のように噴き上げる光の粒子は、ミラーボールに当たって飛び散り、反射光を浴びた羽は、その光をますます増殖させる。

彼が抱くようにして弾いているギターに、彼の顔から汗が滴る。その汗もミラーボールの反射に射ぬかれ、光の粒になって霧散する。

彼の背中の背骨の左、肋骨の間にあいている、心臓の裏側にまで達する穴。そこから彼は光を噴き出す。赤にも黄にも青にも見える、白い、眩しい光の粒子。

その光を全身に浴びて、彼女はゆっくりと羽を広げる。「天使」と呼ぶにふさわしい、巨大な白い羽がステージいっぱいに広がっていく。彼女が羽をはばたかせると、部屋の中には風が巻き起こり、光の粒子は客席にまで降り注ぐ。

――通天閣に羽根が降るんよ。

 うっとりと呟いた、彼女の甘い声が頭に蘇る。彼女の友人がコンクリートに叩きつけられて散らした羽根は、きっと綺麗だっただろうとナツは思う。光の粒が、全身を叩いた。ベースの碧い重低音と、地を這うようなドラムの音が、身体の芯にじんじんと響く。光と音が、口から鼻から身体の中に入ってくるようで、ナツはぽかりと口を開けたまま、喘ぐように息をする。

ナツは光の噴き出す方を見つめる。赤に青にときらめく光に、広げた羽は七色に染め上げられる。歌姫はもう一度大きくはばたき、マイクの前で両腕を広げた。

ドラムを叩くのはさっきの羽根の生えた腕を持つ男で、ベースを弾く男の身体には羽はなかったが、父のように羽を切り取った傷痕が背中にあるのかもしれないとナツは思う。

光の羽を生やした彼は、靴を履いていなかった。踏みしめた足の爪の先からも光が散り、羽根が噴き出す。

羽根の生えた太い腕が、地鳴りのようなドラムを響かせ、ナツの心臓を叩くように揺すぶる。痺れるような身体の中で、鼻から口から入った光が、渦巻き始めるのをナツは感じた。

彼女が声を発した瞬間、輝きを増した光の粒は、ステージの上を発光させて、生まれたばかりの星雲を閉じ込めたような地下室の中で、客たちは天使の声を聴く。

それは、闇を裂くような声だった。

目の奥が熱くなり、ナツは天井を見上げてきつく目をつむる。降る光が、目蓋越しにも分かった。彼の核が生み出す光の粒が、今のナツには矢が降るようにも感じられた。

父の背中のタネもこうやって光を発したのだろうか。タネは、持ち主が死んでしまうと、輝かなくなるという。だから天使の死体を切り開いても、光を失ったタネしか取れない。新宿の狭い路地で彼女は、光るタネを手の上で転がしながら、ナツにそう教えてくれた。

 ナツは、光を失ったまま父の身体の中にある、翼腫を生んだタネを思う。

ナツは目蓋を開けて、ステージに視線を向けた。ベースの響きは身体に絡みつき、ナツの身体をきつく締め上げる。身体に爪を立てるようなギターの音が、ナツの身体を引き裂いていく。

七色の音が身体を揺さぶり、身体中が、羽根を噴くように震えている。背から、腕から、翼が生えてきそうだった。

全身から羽根が噴き出して、身体が全部羽根に変わればいい。

そうして、光と一緒になって、ここに散ってしまえばいい。




学校から帰り、鍵を開けて家に入ると、妙な臭いが鼻をついた。血と糞尿の臭いがするのはいつものことで、畳に沁み込んだすっぱい臭いもずっと前から漂っていたが、それとは違う、饐えたような臭いがナツの鼻にまとわりついた。

野菜か何かを腐らせたのだろうかと思いながら、ナツは鞄を置き、制服を脱ぎ、父のおしめを替えてやろうと、床の間に続く襖を開けた。

饐えた臭いが強くなる。

ナツは、その場に立ち尽くして父を見た。

六畳の床の間で、父は縊れて死んでいた。

イモかんのんでは、人は死なない。イモかんのんの患者が死ぬのは、餓死か事故死か、他殺か自殺。

父は自分の尻にまかれた布を解き、障子の縁にそれを通して輪っかを作り、そこに首を掛けていた。普通の大人が体重をかければ折れていただろう障子の木枠は、痩せ衰えた父の身体では折れもせず、敷居から外れることもなかった。

自分でタネを抉ろうとしたのか、父の周りには翼腫からもがれた羽根が散らばって、肉塊はそこから血を噴いた。だから、父は縊れて死んでいたのに、頭から血を浴びて、顔は汚物にまみれていた。

母と、伯父と、ナツの三人で、父の死体を綺麗にした。背中の翼腫は納棺の邪魔だからと、伯父が鉈で切り落とした。死体から血は流れなかったが、翼腫はまだ血が通っているようで、熱こそないが羽根も、肉も、とても綺麗なままだった。

千手観音のようだからと、翼腫はかつて「かんのん」と呼ばれた。だが、醜い腫瘍は「イモ」と呼ばれて、翼腫はやがて「イモかんのん」と言われるようになっていった。

父の背中から連なって生えた羽は「かんのん」と呼ぶにふさわしく、そこから生え出た羽根の一本一本も、高値で売れるとナツは思った。

死んだばかりの父の翼腫を持って、新宿の店に向かった。夜遅くだったからか、彼らの姿は路地にはなかった。

金を受け取り、これで終いだと告げて、かじかんだ手をコートのポケットに入れ、新宿駅に向かった。血のついた羽根を冷たい水で洗ったので、指先はすっかりひび割れていた。そのガサガサの指先が、ポケットの中の紙切れに触れた。




音と光の止んだ店内は、またレコードが流れ始め、薄暗い明かりの中で、客たちは酒を飲み続けていた。

「嬢ちゃん、見て見て」という彼の声でナツは顔を上げ、そして悲鳴を上げそうになった。彼の背中の黒い穴から、巨大な翼腫が生えている。

 

国鉄、中央線、高円寺。駅員の前で彼の言葉を繰り返し、ナツはようやく切符を買って、羽根が降るという場所に来た。


彼は「嬢ちゃん?」と言ってナツを振り返る。ナツは身体をびくりと震わせ、瞬きをしてもう一度彼を見た。翼腫と見紛ったそれは、背中に挿さった花束だった。

心臓はひどく波打っていた。身体の震えをこらえながら、ナツは「びっくりした」と笑い、椅子から立って花束に手を伸ばす。客に入れられたらしい色とりどりの花は、店内の暗い照明に照らされ、すべてが赤く色付いている。ナツがゆっくりそれを持ち上げると、客が押し込んだらしい小銭が音を立てて落ち、お札がひらひらと散らばった。彼は慌てて身体を倒し、足元の金に手を伸ばす。その拍子に、穴の中にあった残りの小銭が、彼の首筋を通って足元に落ちた。

その中に、見覚えのある玉が見えた。

ナツは花を取り落とし、落ちた三つの玉のうち、足元にあった黒い玉に手を伸ばす。転がっていった水晶体を拾おうと、椅子の下に手を伸ばしたとき、ヒナの手羽、という言葉がナツの頭上から聞こえた。ナツは羽の核を持って立ち上がり、声のした方に目を向ける。

カウンターの中にはいつの間にか彼女が戻っていて、客に料理を出していた。ナツの視線は、彼女の手の上の白い皿に注がれる。

天使の手羽肉が、そこにはあった。

イモかんのんかヒナのものなのか、鶏のもも肉ほどの大きさのその肉は、ナツのよく知る翼腫の手羽と同じ形をしていた。

――おとうさん。

悲鳴は喉の手前で溶け出して、ナツの全身に流れていく。皮膚の下が震えていた。ナツの身体は少しも動かず、けれど身体の中では指先までもが声を上げていた。皿は客の手に渡り、手羽肉は他の客に紛れて見えなくなった。ナツはそちらをじっと見つめて、石を握り締めたまま立ち尽くしていた。

「どうした?」

 声をかけられて、ナツは我に返って彼を見た。彼は拾い集めた金と花をカウンターに置き、水晶体を器用に背中の穴に入れ、ナツの顔を覗き込んだ。ナツは、彼に見せるように石を持った手を広げた。石が手の中で熱を持ち、光の粒を纏い始める。

彼が礼を言って手を伸ばすと、ナツは石を握り締めて手を引いて、弾かれたように踵を返し、扉を開けて階段を駆け上がった。

嬢ちゃん、と、彼女が驚いたような声でナツを呼ぶのが聞こえた。古本屋を抜け、ナツは外に飛び出した。線路下の横町を抜け、駅前の広場に出ると、町はうっすらと積もった雪で白く浮かび上がっている。月のない暗い空から、白い光が降っていた。

広場の真ん中で、石を握った手を胸に押し当て、息を切らして立ち止まる。指の隙間から光が漏れ出て、ナツの吐く白い息が一緒になってきらきらと光った。

顔を上げると、上にワイシャツを羽織っただけの彼が、裸足で駆けて来るのが見えた。ナツはゆっくりと手を開く。光はどんどん強さを増して、雪まで光を帯び始め、空に向かって広がっていく。

駆けてきた彼が、ナツの腕を掴んで止まろうとして、積もった雪に足をとられた。ナツはとっさに石を握り締め、そのまま彼と一緒になって広場の上に倒れ込んだ。身体を打ちつける衝撃と、雪と地面の冷たさを身体に感じて、ナツは思わず身体を丸める。

「いってぇ!」という悲鳴のあと、彼はすぐに飛び起きて、ナツの身体に腕を回し、必死に謝りながらナツを抱き起こした。不意に嗚咽がこみ上げて、ナツはかすれた声で「ごめんなさい」と言うと、そのまま泣き笑いのような調子でしゃくりあげ、「ごめんなさい、あんまり綺麗だったから」と言って、彼の前に石を持った手を差し出した。ナツは地面に座り込んだまま、嗚咽をこらえて涙を拭い、彼の手に石を持たせた。ひどい薄着だというのに、彼の手はあたたかかった。

 石を受け取った彼は、泣き出したナツに戸惑ったように押し黙り、それから何かを思案するように空を見上げた。粉雪が彼の顔に当たり、水になって頬を流れる。

彼は石をナツの手に押し戻して立ち上がり、前屈をするように身体を折り曲げてワイシャツを揺すった。襟元から、小さな透明の玉が二つ、ナツの膝に転がり落ちた。彼は身体を震わせてシャツを直すと、ナツの膝から水晶体を拾い上げる。ついさっき降りだしたように見えた雪は、あっというまに勢いを増して、ナツの膝にまで積もり始める。

「手、上げて」

彼に言われて、ナツは石を持った手を頭上に掲げる。石から噴き出した光は周囲の雪を巻き込み、ナツの腕を染め、ナツの身体を発光させていく。彼はナツの手から石を拾い上げると、代わりに二つの水晶体を乗せた。彼の手の中で石は一層光を発して、水晶体は呼応するようにナツの頭上で光を散らす。

彼は光るナツを見つめて優しく笑い、

「よく見てろよ」

と言うと、羽の核を空高く放った。

水晶体から溢れる光が、ナツの手の上で膨らんで、広場の空に弾けた。石は周りの雪をすべて光に変えて空高く登って行く。道行く人が喚声を上げて空を見上げる。ナツは、発光する空が自分に向かって降り注ぐのを見た。光は冷たく暖かく、ナツの身体を刺し貫く。

天を仰ぐナツの目から溢れた涙も光になった。身体じゅうが光る、羽根のように、光る。空は星をばら撒いたように、白く赤くきらめいている。

羽根だ、羽根だとナツは思う。

ナツが毟り取り金にして、ナツが焦がれて彼女が見とれた、七色の羽根、たくさんの羽根。

父の羽根を毟って洗った指先は、血を噴くほどひび割れあかぎれになっていたが、もう、冷たい水で血膿を洗い流すこともない。光の羽根はナツを傷つけることなく、けれどもナツに熱い痛みを与えながら、あとからあとから降り注ぐ。

ナツは、泣いた。

空を仰ぎ、声を上げて、涙が羽根になって消えていくと思いながら、広場の真ん中で発光しながら、全身を震わせて、泣いた。

彼の核が、たくさんの光を纏いながらほうき星のようになって落ちて来る。ほうき星の落ちる方向に駆けて行く彼の後ろ姿が見えた。思い切り伸ばした左手で巨大な羽のようなほうき星の先端を受け止めると、彼は頭から花壇に突っ込んだ。

ほうき星の尾が飛び散って、虹が弾けたような光が広場に降り注ぐ。ナツに降る羽根も七色に光り、広場は、幾重にも虹がかかったように輝く。

ナツは空を見上げながら、静かに、深く息をした。光が身体の中に入り込み、冷たい空気が熱を持つ。

ナツは、ゆっくりと瞬きをした。冷たい熱を持った雪が、ナツの顔に当たって溶けた。

広場の光がゆるやかに弱まり、ナツは掲げていた手をゆっくりと下ろした。発光していたナツの身体も、ゆっくりと光を失い、広場は、さっきまでの静寂を取り戻す。

花壇の前に座り込んだ彼は、左の手に星を捕まえていた。ナツの手の中の光が弱まるのに合わせて、彼の羽も小さくなっていく。

ナツは雪で濡れた顔を拭うと、透明な二つの石から溢れる光を両の手で包み込み、ゆっくりと立ち上がり、ほうき星の根元に向かって走った。

彼は座ったまま、幼い、得意げな笑顔をしてナツを見ていた。ナツは泣き笑いのような顔をして、彼の隣に膝をついた。

ナツは右の手のひらに、光の消えた二つの水晶体を乗せていた。彼はその手の上に、羽の核をそっと置いた。

水晶体は、もう一度だけ、羽根の形の光を放った。

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羽(短編小説)(原稿用紙46枚) Umehara @akeri

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