第4話


畳に沁みた父の血は、どれだけ拭いても表面だけしか拭えず、目に沁み込んだ血液は黒く変色した。雑巾で何度も拭いたために毛羽立ってしまった畳の表面は、血を吸ったわけでもないのに黒ずんでいる。夏の間じゅう、血の臭いなのか父の臭いか、床の間は悪臭に満ちて、部屋に吊るした蝿取り紙は、二日もすれば隙間なく蝿で埋まった。

死なせてくれ、と父は呻いた。父の体は種芋のように干からびていて、軽い。寝ついて半年、肥大化した翼腫を切り取っても自分の足では立てなくなった父は、自分で死ぬこともできない身体になった。村の人々の「あんなになる前に死なせてやりゃあよかったのに」という言葉は、ナツの耳まで届いていたが、母とナツは、父の呻きも村の陰口も聞いていないふりをして、父の身体を湯で清め、父の性器に尿瓶をあてがい、父の口元へ食べものを運んだ。

身体の側面は床擦れができるので、朝昼夕と就寝前、父の身体の向きを変えてやった。

 翼腫は不治の病だが、死ねない病と言われてもいた。筋肉が衰え寝たきりになっても、食欲だけは衰えず、むしろ食事の量は増す。絶食を試みても二日ともたず食べてしまう。翼腫に操られるように、湧き上がる食欲に患者は抗うことができない。食べものを与えてくれるなと言って絶食を試みたイモかんのんは、しまいには自分の翼腫を毟り、それを食い尽くしてから死んだという。

 せめてタネを抉ってくれと父は言う。だが、母やナツが行えば殺人になるし、死ぬと分かっていて手術を引き受ける医者は少ない。核の手術を受けるには膨大な金が必要で、それができない多くの患者には、薬漬けにして意識を奪う以外の治療はなかった。

死んだ方が楽だろうとは、ナツも母も思っていた。だが人殺しになるわけにはいかない。父の呻きも看病も、母娘をひどく疲弊させたが、翼腫で得られる札束を見れば、そのしんどさも耐えられた。そう思うからこそ二人は一層、かいがいしく父の世話をした。

翼腫で得られた貯金を崩して、強い薬を父に与えた。父の呻きは日に日に弱まり、もうろうとする意識の中で、寝言のような言葉だけが漏れた。

衰弱する父と反比例して翼腫はますます肥大化し、手羽の形も整って羽根も綺麗に生えそろい、売り始めたころよりも高値で売れるようになっていた。その金でナツは痛み止めを買う。父の翼腫を売り始めて半年が過ぎた。季節は、冬になろうとしていた。




「見て、見て」

彼は、グラスに張った水の中に、羽の核を入れてナツに見せた。

夕闇が迫る路地の中で、それはランプのように光った。綺麗、とナツが呟くと、彼は「水晶体」と言って、ポケットから小さな玉を取り出して、グラスの中にそっと沈めた。途端に光は強さを増して、グラスに満ちた光の靄は、噴水のように溢れ出す。

 ナツがグラスにすっかり見とれていると、ナツの頭上から女の声が降ってきた。

「嬢ちゃん、気ィつけえや。こいつ、女口説くときいっつもこうすんねん」

ナツが顔を上げると、赤いドレスを纏った天使が、彼の頭に手を乗せて立っていた。

姐さん、と彼はバツの悪そうな顔をして彼女の手を払う。

「お母ちゃんの形見で遊びよって」

彼女は路地のどこかで飲んでいたのか、既に目の縁を赤くしていた。彼はグラスの水を手のひらにこぼすと、三つの石をワイシャツの胸ポケットにしまった。形見と聞いて、ナツは初めて彼の母親が死んでいたことを知る。彼は自分の出自は話したが、誰からその話を聞かされたのかは語らず、両親や村がどうなったのかも話さなかった。

ナツの前で叱られた彼は、話を逸らそうとしたのか「この人、飛べるんだぜ」と彼女を指差し、自慢げにナツを見る。彼女は何を今更というように、呆れた様子でため息をつく。

「こんなん、故郷にはもっとおるわ」

天使の言葉にナツは驚き、丸い目を彼女に向ける。

「そんなところあるんですか」

 路地で時々見かける彼女は、ナツが初めて見た大人の天使だった。最初は作りものかと思ったと言うナツに、彼女の方が驚いて「ほんまにこっち、天使おらんのな」と、いっそ感心するような調子で言った。



 夕暮れ時の路地のどこかで、彼女はよく酒を飲んだり歌ったりしていて、店の前で待つナツを見つけると、生まれ故郷の話を聞かせた。

「飛べる連中ばっか集めて、よく競争しとったわ」

彼女の生まれた大阪は、こちらよりも天使が多く、飛べる者も少なくない。彼女も近所の大人の天使に飛び方を教わったと言う。

「通天閣のてっぺんまでなぁ、誰がいちばん速く飛べるか。うちと、もう一人速いのがおって、そいつとしょっちゅうケンカしとった」

彼女は懐かしむように目を細めて言う。通天閣とは城か何かかと尋ねると、彼は腹を抱えて笑いだし、彼女は「ちゃう、ちゃう」と言って、手をひらひらと振る。

「ほらあ姐さん、こっちじゃ全然知らないって」

「うっそォ、大阪の名物やのに。展望台や展望台。大阪一望できる」

東京タワーのようなものかと尋ねると、彼はまた笑いだす。

「別もの別もの、全然ちっちゃい」

「百メートルあるわ」

酒で目の縁を赤くした彼女は、笑い続ける彼に噛みつく。彼はまだ腹を抱えたまま、「なんだっけ、大阪のエッフェル塔?」と言う。その言葉に彼女も思わず噴き出して、「あれなァ、エッフェル塔はないと思うわ」と言って苦笑した。

通天閣のすぐ近く、四天王寺の界隈が彼女の生まれた町だった。天使の羽はみな一様に大きく、羽の切除は二十歳前に行われる。関東では天使専用の服などほとんど見ないが、大阪では天使のための体操服まであるという。学校では、跳び箱をずるして跳ぶ者がいたり、天使は後ろの席にされたり、校則に「羽の染色禁止」の項があったりするほど、天使はたくさん存在していた。

「通天閣に羽が降るんよ」

彼女は甘い声音でそう言う。彼は、彼女に言われて酒を買いに近くの店に走って行った。ナツは彼女の顔を見つめて、遠い大阪の町を思い描く。

彼女は誰に語るでもなく、ひとり思い出に浸るように、ぽつりぽつりと言葉を続ける。

「子供らが、いっせいにてっぺん目指す。飛べるいうてもまちまちやから、身長ぐらいしか飛べんのもおる。五メートルくらいでだいたいが諦める。うんと飛べるのが一人か二人、通天閣を回りながら、どんどんどんどん登ってくんよ」

下町の天使は、螺旋を描いて舞い上がる。走り回っていた町を見下ろしながら、風に乗り、展望台の中の人間に手を振り返し、高く高く、登って行く。そのはるか上空を、飛び慣れた天使が鳥のように飛んでいる。展望台の上に足をつき、彼女はガッツポーズをする。

 大阪の空からはらはらと、夕日に照らされた羽根が降る。

「見てみたいな」

彼女の横顔に羽根の降る街を思い描いて、ナツは呟いた。

彼女は、今やっと隣に人がいたことを思い出したようにナツを見て「ホンマ、見せたりたいわァ」と言う。

「でもなァ、今、もうあかんねん。飛んだらあかんことになってしもて」

大阪ではそうでもないが、天使の少ない土地では、天使をやたらと崇めたり、逆に不具者と罵る者がいる。通天閣の展望台は、窓が開く。天使は滅べと叫ぶ学生がそこから、周囲を飛び回る天使の子供を撃った。弾は身体をそれて羽に当たったが、羽を撃たれた子供は地上数十メートルの高さからコンクリートに叩きつけられ即死した。以来、通天閣では周囲を飛び回ることが禁じられてしまった。

「背中を下にして落ちたんで、羽根がコンクリに飛び散ってなあ。下におった子供らの上に、ばぁっと降った。子供ひとりに、あんなたくさんの羽根が生えとるんかと、びっくりしたわ」

見てきたように話す彼女の口調に、死んだ子供は彼女のケンカ友達だったのかもしれないとナツは思った。

「そや」

彼女は、何か思い出したように、財布から小さな紙切れを取り出し、「嬢ちゃん、音楽好き?」と尋ねる。彼女はナツの答えを待たずに「大阪は連れて行けへんけどな、似たようなもんならこっちでも見れる」と言って、それをナツの手に握らせた。

高円寺駅徒歩五分、古書店羽衣書房。紙切れには、古本屋の住所と地図が書いてある。彼女は秘密を打ち明けるように声をひそめて、「ここの店長に、エンジェルウィングあるかァ、ゆうたら、羽が降るとこ見せられる」

彼女の言葉は何かの暗号のようで、ナツはきょとんとして彼女とメモとを見比べる。高円寺、と、見知らぬ駅名をナツは呟く。

「中央線だよ。国鉄。新宿から一本で行ける」

酒を持って戻ってきた彼が、ナツの手の中を覗き込んで答える。

彼女はくすくすと笑って「コイツが、羽根降らせるねん」と言って、彼の背中をトンと叩いた。


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