第3話


チョコレートの味のする酒を舐めるように飲みながら、ナツは薄暗い店内を見回した。音楽喫茶、ロック喫茶と呼ばれるらしいその店は、地下室にしては天井が高く、その高い天井に色とりどりの照明がつき、ステージのすぐ手前にはミラーボールが吊るされていた。ステージはまだ暗く、店内には聞いたことのない洋楽のレコードが流れている。常連らしい客の中には、羽を持つ者もいた。天使の手羽を出す店に天使が来るのか、とナツは意外に思う。客たちは、まばらに置かれた丸テーブルの周りで酒を飲み、食事をしていた。その食事の中に手羽があるかもしれないと、ナツはおそるおそる辺りを見回した。それは父の肉かもしれない。ナツが売りに行った肉かもしれない。

店内を見回すナツの目に、ステージ近くで酒を飲んでいる彼の姿が見えた。彼はなぜか上半身裸になっていて、Gパン姿で酒を飲み、腕に羽根の生えた男と一緒に笑い転げている。タンクトップ姿の男の左腕は異様に太く、肩から手の甲にかけて、白い羽根が生えている。腕と羽が癒着して生まれたのだろうとナツにも分かった。男は、太鼓を叩くような木のスティックを指先でくるくると回すと、彼の背中に腕を回して、それを彼の背中に突き刺した。

思わず上げた小さな悲鳴は、レコードの音と客の笑い声に掻き消された。彼は笑って男に何か言いながら、背中に刺さったスティックを抜こうと腕を背中に回している。ナツは、初めて彼の背中を見た。

背中の左、肩甲骨と肋骨の間に、野球のボールなら入りそうなほどの、大きな穴があいている。父親に羽をもがれてできた、心臓の裏側にまで達するという穴。それはスティックの先を飲み込み、食虫植物のように、天に向かって口を開けていた。



ナツが彼らと会ったのは、翼腫を売りに通っていた、新宿の路地の中だった。店の主人が値をつける間、店の前のベンチに腰をおろして手持ち無沙汰にしているナツに、彼はときどき声をかけ、気付けば顔なじみになっていた。

「これ、なんだか分かる?」

ある日、彼はそう言って、うずらの卵ほどの大きさの、黒曜石のような丸い石を、ビールケースとベニヤでできたテーブルの上に置いた。

目の前に置かれた黒く丸い石を、ナツはじっと見つめて「宝石?」と尋ねる。彼はうすら笑いを浮かべたまま答えない。ナツは首を傾げながら「触ってもいい?」と尋ねて、小さな石を手に取った。ひんやりとしているかと思ったそれは、不思議に熱を持っていた。手の上で転がして、指先で拾い上げ、日に透かすようにかざしてみると、石はとつぜん発光し、ドライアイスが昇華するように、白い靄のような光を纏う。

ナツは驚いて彼の顔を見た。彼は、ナツの驚きように満足したように、子供のような笑みを浮かべている。光の靄はナツの手の中に広がり、手のひら全体が発光したようになる。

「それね」

彼は小さく手招きし、ナツの顔に自分の顔を近づけ、内緒話を打ち明けるように「俺の羽のタネ」と、ナツの耳に囁いた。



彼の故郷では、生まれた天使は間引かれた。赤子殺しを公にすることはできないから、羽を持って生まれた赤子は、流産死産と処理されて、火葬もされずに埋められる。村の外れの共同墓地に埋まっているのは、無縁仏と天使の赤子だった。

彼の羽は、生まれてから生えた。彼の背中に二つの突起ができたのは、彼が二つのときだった。彼の両親は驚き、周囲にそれを隠した。村人の目に怯えつつ、天使であることを隠して暮らすうち、背中の羽はどんどん育ち、やがてチャボの手羽ほどの大きさになった。

彼を殺そうと言い出したのは父親だった。村長に話して始末をすれば、事故ということで処理できる、村の駐在も見て見ぬふりだと父は言う。

しかし母は首を縦には振らなかった。三年近くも育てた我が子である。殺せと言われて殺せるものではない。羽を切り、普通の人として育てたいと母は言った。

だが、羽を切り取ってくれる医者などいないし、よその病院に連れて行けばそれだけで周囲に気付かれる。両親が言い争う横で、彼は意味も分からず怯えていた。父は、それなら自分が切り取ると言って、包丁を持ち出した。母は彼を抱き上げ逃げようとしたが、母子もろとも組み伏せられて、とうとう彼の羽は切られた。右の羽は、根元から切り落とされた。鮮血を噴き上げながら悲鳴を上げる我が子をかばおうと、母はきつく彼の身体を抱いた。父は彼を奪い取ろうと手を伸ばし、妻の腕の隙間から伸びる息子の羽を握り締め、力任せにねじ切ろうとした。

ねじれた羽は、背中の肉ごと引き千切られて、その下の肋骨を砕き、肺と心臓の間に埋まった核を道連れにして抉り取られた。背中にできた巨大な穴から、血液が脈打ちながら流れた。父は、これで彼は死んだと思った。

しかし、彼は生き延びてしまう。

瀕死の息子を見て半狂乱になった母は、血まみれの彼と羽を抱きかかえ、夜通し走って隣の町の病院に辿りつく。医者が事情を聞くうちに、母は、間引きのことを話してしまう。

村の秘密をしゃべってしまった母は、生死をさまよう息子の横で、三日三晩泣き続けた。四日目、とうとう両眼が溶けて、ぽっかりと空いた眼窩から、二つの水晶体が転がり落ちた。

彼は、それを後生大事に、背中の穴に入れて持っていると言う。



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