第2話

 

イモかんのんと呼ばれる病は、正確には「翼腫」といって、羽を切り落とした天使が、ごくまれに罹る病気であった。

左の羽を落とした痕から、ぼこり、ぼこりと腫瘍が生まれた。小さな羽の形をしたかたまりは、いくつもいくつも連なって生えた。羽はきちんと骨を持ち、骨はときどき肉を破った。皮膚の上からは羽根が生えたが、羽根は肉と肉の間でひしゃげ、埋まったままで生えた羽毛は、血膿と共に皮膚を破いた。

腫瘍の切除と痛み止めの投薬。できる治療はそれだけだった。心臓の裏側にあるという「羽の核」を切り取れば、翼腫は止まると言われていたが、心臓や肺を傷つける危険があり、うまく取り出すことができても、半数以上の患者は数ヶ月以内に死亡する。タネとも呼ばれるその器官は、羽を産む器官と言われ、羽の切除がその働きになんらかの問題を引き起こすと考えられていた。それでも羽を切る習慣が消えないのは、単純に羽が生活の邪魔になり、イモかんのんに罹る者はごくまれにしかいないからだった。

骨が肉を破く痛みは、日夜、父を襲い続け、家の中は父の呻きと、屠殺場のような臭いで満ちた。腫瘍は日に日に成長を早め、発症から三月(みつき)ほどで、父はとうとう寝ついてしまった。

寝ついた父の代わりに、母とナツは内職を始め、その合間に父の看病をした。切り取ることを諦めた腫瘍は、赤ん坊ほどの大きさになって、血と垢にまみれた羽根は、陰毛のようにてらてらとしていた。痛み止めを飲んでいるのに、痛みは絶え間なく襲い続け、骨と肉とが軋むたび、父は枯れた喉で呻いた。


翼腫が売れると言ったのは、本家を継いでいた父の兄だった。

「ヒナの手羽は高く売れる。ヒナだと言って売りゃあいい」

困窮した弟一家を見かねた伯父は、父が呻き声を上げている床の間のすぐ隣の部屋で、声を低くしてそう言った。

ヒナとは、天使の子供の蔑称である。ヒナの手羽肉を出す料理屋があることは、ナツも話では知っていた。戦後の食糧難で生まれたヒナの手羽料理は、ナツが生まれるころには禁じられたが、隠れて手羽を出す店は多い。

法に触れるその提案を、母は初めこそ渋っていたが、大黒柱が寝ついた家は一日一日と困窮していく。四月、ナツの修学旅行の費用が払えないと気付いた母は、とうとう義兄の提案を飲んだ。

父の肉塊を包丁で切り落としたのは伯父だった。音を聞くのさえ恐ろしく、母とナツは畑の隅で、抱き合うようにしゃがみこみ、事が済むのを待っていた。

 台所の流しに置かれた、冬瓜ほどの大きさの、羽根で覆われた肉塊からは、まだ父のにおいがしていた。母はそれに包丁を入れ、小さな手羽肉に切り分けて、ナツは台所の床に新聞紙を広げて、ひたすら羽根を毟っていた。床の間から、父の声は聞こえなかった。畳にできた血の池の中で、痛みで叫び疲れた父は、すっかり意識を失っていた。

 肉をすべて捌き終えたころ、伯父はよそいきの服を着てナツの家に現れた。東京の店までは、伯父とナツが持って行く。

「なっちゃん、行くベぇ」

伯父はそう言って、白い顔をした姪っ子の手から、氷と肉の詰まった袋を取り上げた。ナツは、羽根の詰まった、かさの割に軽い袋を持って、擦り切れた上着の襟を合わせて、伯父のあとについて行った。

「イモかんのん抱えた家は、みんなそれで食ってんだ」

新宿に向かう電車の中で、伯父はナツを慰めるように言った。伯父は父のすぐ上の兄で、五人いる兄妹の中でいちばん仲がよかった。

月に二回、伯父が肉塊を切り落とし、母がそれを切り分けて、ナツが羽根を毟って洗う。二回目からは、新宿に行くのはナツ一人の仕事になった。

翼腫はかなりの金になったが、ナツは結局修学旅行には行かなかった。行きたくないと言う娘に、母は悲しそうな顔をしたが、娘の気持ちを理解したのだろう「そうかい」と頷いただけだった。翼腫を売ってできた金は、ほとんどが貯金に回された。最低限の金は使ったが、ナツは相変わらず擦り切れた服を着ていたし、母は内職を続けていた。


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