後編・天上界


 ――西暦1620年5月。

 ケプラーの雇った弁護士達はよく働いてくれたが、アイホルン判事は一枚上手であった。彼は確実な事実である贈賄罪を根拠にカタリーナの罪を裁判所に訴え、更にその席で彼女の魔女容疑を告発するという手段に出たのだ。そして裁判所は審査の結果、ヴェルテンベルクの大公の名の下、カタリーナ・ケプラーに魔女疑惑の容疑者として逮捕状を発行したのである。

 大公の名においての出頭命令を拒否する事はますます立場を悪くする。もうケプラー個人の力では母を庇い切る事はできなかった。やむを得ずケプラーは一頭立ての馬車を手配し、母と共に故郷レオンベルクへ向かっていた。

「ねえ、お母さん。私にだけは本当の事を言って欲しいんだけど……」

 揺れる馬車の中でケプラーは母に向かって問いかけた。しなびかけた林檎をむさぼっていたカタリーナは目を細めて彼の顔を見た。続きを言えという意味か。

「お母さんは本当に――魔法に手を染めたりはしていないよね?」

 眉をひそめて深刻な顔でそう尋ねたケプラーに対し、カタリーナは嘲笑うような顔をして答えた。

「ヨハネス、お前、私が黒猫と話しているところを見てしまったのかい? それとも箒にまたがってるところを見られたかな。やれやれ……」

 林檎の芯を道に放り棄てたカタリーナは、可笑しそうに続ける。

「私がやったのは産婆と薬屋さ。母さんの母さんが母さんから習った薬草を作って売ったり傷の手当てもしてやった。赤ん坊を取り上げてやった事もあったし、その逆をやった事が無いとは言わない。あと他にも色々……誰かがやってやらなきゃあ世の中は回りゃしないし、金になったからねぇ。父さんがいなくなっちまって、食い盛りの息子や娘がいて――ああ、なんでもやったとも。シシシ……」

 その言葉を聞いたケプラーは、胸が締め付けられるような思いをした。自分は何も知らなかった。母親が偏った性格なりに苦労をもいとわず自分達を育ててきた事さえ、直視しようとしていなかった事にいまさら気づいた。「分かった」とだけなんとか短く答えるとケプラーは俯いて黙り込んでしまった。

 それから随分経ち、馬車が止まった。故郷レオンベルクに母と共に帰って来た。そこは宗教対立の波紋と共に何人もの魔女が火炙りにされた町だった。


 カタリーナは裁判が始まるまでレオンベルクの牢獄に入れられると聞いていた。だけどせめて住み慣れた家で少しでも休憩させてやりたい、そう考えてケプラーは母を伴って家に立ち寄った。しかし我が家からは「カタリーナの薬屋と産婦人科」というあの看板が取り除かれ、金物店の看板だけになっていたのである。ケプラーは愕然としたし、カタリーナは憮然としていた。

 二人が外に居る事に気づいて大慌てで家の中から飛び出してくる者があった。弟のクリストフだった。

「兄さん! 母さん! 一体なんで此処に来たんだい?!」

「ここは私と母さんの家だからだよ。帰って来て何が悪い? それよりなあクリストフ、どうして母さんの産科の看板をどけてしまったんだ?」

 ケプラーが弟の物言いに抗議すると、クリストフは顔をしかめた。

「なんでって――あの看板をぶら下げていると近所の人がとやかくうるさいんだよ。あんまり外聞が悪いから……それより、早く母さんを連れて行ってくれないか?」

「おい、早く連れて行けだと? 牢獄にか?! お前、お母さんに対してよくそんな事が言えるな! 少しくらい休ませてやれないのか」

 あまりの言い方にケプラーが顔を真っ赤にして難じると、クリストフも同じように顔を真っ赤にして言い返した。

「兄さん、アンタ今まで息子らしい事を何一つして来なかったくせによくそんな事が言えるね! 家をさっさと出ていって宮廷で月だの星だのを見て呑気に暮らしていたアンタに、この土地で生きる俺達の受けた苦労や気持ちは分からないだろう! はっきり言うけどね、俺も妹夫婦も母さんの振る舞いにどれだけ迷惑をかけられてきたか……」

「くそ、言いやがったな!!」

 取っ組み合いの喧嘩にならんばかりの剣幕に近所の人々もざわつきだし、カタリーナは相変わらず例の気難しい顔で息子達の言い合いを聞いていた。そのうちに誰かが通報したのか、剣をぶらさげた警吏達が何人も駆けつけてきて、ケプラーとカタリーナを取り囲んだ。

「今日出頭するとは聞いておりましたよ。魔女疑惑のカタリーナ・ケプラーと、ええとそちらが高名なヨハネス・ケプラー先生ですな?」

 警吏達を指揮していた青色マントに長帽子の男がそう告げた。コイツが母を起訴したアイホルン判事に違いない。ケプラーは直感した。とびかかってぶん殴りたい衝動に駆られたがなんとか抑え込んだ。

「……ええ、母の身の潔白を証明するために正々堂々来たのです。さあ、母を町の牢獄に連れて行きなさい」

 ケプラーのその言葉に、アイホルン判事はほんの少し目を細めて嘲笑うような調子でこう告げた。

「もちろん大公閣下の名の下に連行させていただくが、それは町の牢獄ではなくギューグリゲン村の独房です。容疑者親族のたっての希望でしてな。もっと遠く、誰にも知られないような場所に収監してくれと……」

「はあ?!」

 ケプラーは思わず素っ頓狂な声をあげた。レオンベルクから遠く離れた田舎村の独房に、母を入れる?! 狼狽した表情のままクリストフの方を見ると、複雑そうな顔をした後そっと顔を伏せてしまった。それが答えだった。クリストフだけではない。多分妹夫婦や親族達も、もはや母を厄介事の種としか見ていないのだ。

 カタリーナの方を見た。表情からは気持ちが相変わらず読めなかった。

 アイホルン判事に向かってケプラーは懇願した。

「分かった。だけどな、母さんはもう歳なんだ。今年で七十四歳だ。せめて優しく配慮してやって下さいよ……」

 泣き出しそうなケプラーの顔を見たアイホルン判事は黒い口髭を撫でながら、鼻で笑うような調子でこう答えるだけだった。

「魔女の肌は寒さも痛みも感じないというが、さて御母上はどうでしょうな?」



                ◆



 母親がギューグリゲン村に連行されるところを成すすべなく見送ったケプラーは直ちにレオンベルクでの下宿先を探した。実家に泊まって弟と顔を合わせるなど死んでも御免だと思った。幸いな事にすぐに下宿先は見つかり、裁判の日まで戦い抜く根城を決めたのだった。

 弁護士達の話によれば起訴したアイホルン判事にも今のところこれといった物的証拠は無く、あるのは町民達の証言だけ。従ってまだ覆せる可能性はあるものの、昨今の情勢では何一つ物証の無いまま魔女認定された人間が火炙りに処されるのは決して珍しい事では無く、予断を許さないという事だった。

 ケプラーは憤慨していた。こんな理屈も筋も通らない事があっていいものか?

 世の中はいつもそうだった。複雑で雑音ばかり入り混じり法則も何も無い。ちょっとした事ですぐに道理が捻じ曲がる。だから自分は世俗の事が嫌いで仕方ないのだ。だから自分はそういった雑音が混じり込まない、曲がらない法則と調和に充たされた宇宙に向き合う事が好きなのだ。

 だが、この地上と宇宙が全くの無関係だと誰が言い切れよう? ガリレオも地上と月が共通する法則に支配されている事を見出したではないか。同様に通じ合う秩序や道理が必ずあるはずだ。私にだって、この事態に何かできる事があるはずだ。

 ――そう自分自身に言い聞かせながら、ケプラーはその日アイホルン判事の屋敷に向かっていた。母の無実を訴えるべく直談判を申し込み、受け入れられたのだった。


「さて、ケプラー先生。御母上にかけられた容疑についてお聞きしたいという事でしたが……差支えなければ裁判所に提出した起訴状の写しをそのまま読み上げてよろしいか?」

 アイホルンは事務所の椅子にかけたまま、そう告げた。向かい側に用意された椅子に腰かけたケプラーは頷いた。

「オホン、では――レオンベルク在住の民間療法師カタリーナ・ケプラーを次の容疑で告発するものである。夜間に空を飛びサバトに参加して契約を交わした罪、神を冒涜した罪、家畜を殺した罪、教会に入り込んで呪文を唱えた罪、人々に毒薬を与えた罪、鍵のついた扉をすり抜けて赤子を呪殺した罪、自らの父の墓を暴き取り出した頭蓋骨を銀で固めて杯にした罪……総称して魔女の罪。及び、判事への贈賄未遂の容疑――これは私に対して銀杯を贈ろうとした罪ですな。以上の罪状を、たしかに私は検察局へ告発いたしました」

 ケプラーは片眉をつりあげ、苛立ちを隠せない顔つきで切り出した。

「それらの罪のうち、判事殿への買収を試みた事は母自身も認めております。しかしながら魔女だという件はまったく承服できませんな。たしかな証拠はあるのですか?」

「証拠? 遺憾ながらありませんね。あるのは町の者達の証言だけです。ラインボルト婦人はカタリーナから買った薬を飲んで病気が悪化したと言い、バウアー婦人はカタリーナが壁を通り抜けて子供部屋に入ったところを目撃し、その翌朝に赤ん坊が死んでいたと証言しています。他にも町の者に募ってみたところ、カタリーナとすれ違った後に腕に切り傷ができていた、カタリーナに子供の頃にサバトに誘われたなどの証言をする者が相次いで現れました。総勢で十三人にも昇っています」

 アイホルンはご自慢らしい口髭を撫で付けながら、手元の資料を読み上げ続けた。ケプラーはもう我慢ならずに食って掛かる。

「さっきから何を愚かな事を言っているんですか、判事殿。それらは全くの噂や後付け話ばかりではないですか。それに、今仰ったバウアー婦人は長い間幻覚症で苦しんでいる女でしょう? この間私も会ったんだがその時は全然違う話をしていましたよ。そのような信憑性の薄い証言ばかりを裁判所に送って判断させるのは、いくらなんでも不誠実ではありませんか?」

 その言葉に、アイホルンは露骨に不快そうに眉をひそめた。

「ケプラー先生、貴方、証言者に会いに行ったのですか? 困りますなあ。高名な先生に失礼だが、貴方にもカタリーナと結託しての魔術使用の容疑がかかっているんですぞ。魔法で証言者を操ったと思われたらますます不利になりますよ」

 その言葉にケプラーはあきれ果てて空いた口が塞がらなかった。同時に、こんな無知蒙昧な男に母の命運が握られているのだと思うとなんだかぞっとする気持がした。なんとかこっちが手綱を握ってやらなければどんな災難を運び込まれるか分かったものではない。

「判事殿、それはいくらなんでも無礼だ。無礼きわまる。このヨハネス・ケプラーはいやしくも一時は宮廷付天文学者まで勤めた者ですぞ。今だって先の皇帝から任された暦作りに取り組んでいるんだ。それを言うに事欠いて魔術だなどとは……し、失礼じゃないか?」

 精一杯の見栄を張ってやろうと思ったが、どうにも慣れていないのでまるで尻すぼみになってしまい、アイホルンは威光に跪くどころか冷笑で応えるのみだった。

「一つ一つの証言に曖昧な点があるのは私も認めざるを得ないところです――が、その全てが貴方の御母上カタリーナを魔女だと指し示している。これ自体がカタリーナが魔女である事を皆が知っている証拠ではありませんか?」

「そこから合理的に導き出せるのは、どんなに頑張ってみても私の母が皆にそう疑われているという事、あるいは嫌われ憎まれているという事だけだ。私の母の人間性があまり良くない事は私が一番知っているが、それだけの事で火炙りにされてはもう地上世界は狂気の沙汰だ。この世界にはもう合理も調和も無くなってしまうではありませんか」

 その反論を聞いたアイホルンは面白そうに目を細め、机の上のブランデーを高価なグラスに注いで一口飲んだ。ケプラーにももう一つのグラスに注いで勧めたが彼はそれを固辞した。

「――〝世界の調和〟ですか。空ばかり見ている天文学者は面白い言い回しをなさる。そういえば先生が先年出版なされた著書の題名も」

「ええ、『世界の調和Harmonice Mundi』です。私の信念でもあると自負しています。宇宙にしろ地上にしろ世界は必然的に調和を目指す――それが〝はじめにロゴスありき〟から始まった神の幾何学と算術の基本なのです」

「なるほど。宇宙の謎を解き明かすように、御母上に向けられた疑惑をも合理的に晴らすおつもりなわけですか」

 グラスのブランデーを飲み干したアイホルンは、急な饒舌をせせら笑うような薄笑いを浮かべながら言う。

「その通りです。ついでに言えば私は判事殿とラインボルト氏が昔からの友人である事、ここ八年間で火炙りにあった魔女達はみんな一定以上の財産を築いていた事、もしも母が火炙りになれば没収された財産が貴方の懐に入るであろう事までは辿り着いております。おそらく全貌解明まで時間はかかりますまい」

 対するケプラーの精一杯の微笑みは張り付いており、手は微かに震えていた。しかしその一言で、アイホルンの顔色はたしかに変わったのである。

 状況の手綱を握る一言をついに切り出してやった! ケプラーは不倶戴天の敵を打ちのめしてやったような恍惚感を覚えていたが、アイホルンが机の中から取り出した小さな写本を見ると、一気にその浮ついた気分は引っ込んでしまう。その表紙にははっきりとこう書かれていたのだ。

『写本 月の天文学 これは宮廷付占星術師ヨハネス・ケプラー氏の著作なり』

 そうしてアイホルンは、笑いを押し殺すのに必死といった厭らしい表情でこう言った。

「ところで貴方が十年も前に書いた本に出てくる、月のデーモンと契約して空を飛んだ魔女フィオルクヒルデと少年ドゥラコトゥス――これは明らかに先生と御母上がモデルですな……?」



                ◆



〝母が言うには、世の中には文芸を毛嫌いする悪人どもが少なくない。彼らは自分の頭が鈍いために理解できない事を中傷の材料にするし、また法律を人に害悪を与えるものにしてしまう。そのような法律による宣告を受けてヘクラの淵に果てた人も少なくはないということであった。〟

   ――『夢、もしくは月の天文学』



                ◆




「嗚呼――!! 嗚呼――!!」

 ほとんど奇声じみた叫び声を何度もあげながら、ケプラーは明け方のギューグリゲン村に辿り着いた。目元は真っ赤に爛れ髪も髭もクシャクシャ。纏ったマントは何度も転んで泥まみれだった。普通なら馬か馬車を手配して向かうギューグリゲン村に、彼は一晩かけて半狂乱の様相で歩き通して辿り着いていたのだ。

 自分の書いた他愛の無い夢のような物語文が、めぐりめぐって母親を地獄に落としたのかも知れない! そう考えると彼の頭は狂いそうになったし、虚弱な身体はそのまま凍てつきだしそうにさえ思えた。

 彼が戦慄きながら向かっているのは母が収監されているはずの独房だった。初めてやって来たそこは古い石塔に鉄格子などを設えただけの貧相な建物だった。牢番に母親に対面させるよう要求させると最初は断ったが、銀貨を突き付けてやるとすぐに承諾した。どうやらいつもやる小遣い稼ぎの一環のようだった。

 牢番に案内されて入ったのは独房どころか家畜小屋にも劣る最低の場所。なにせ床すらなく土が剥き出しで、その上に干し藁が敷いてあるだけなのだ。遥かに高い場所にある窓は閉じられて陽の光は差し込まず、隙間風でひどく冷える。便所代わりの金属製の桶が部屋の端に置かれたままになっていて、部屋中が汚物の臭いでいっぱいだった。そうしてその中で、カタリーナは藁にくるまったままで寝転がっていた。

「お母さん!」

 ケプラーは無我夢中で牢の中に飛び込み、カタリーナを揺さぶる。もう死んでしまっているのではないかとさえ思えたのだ。揺り起こすとカタリーナは生きていた。うめき声をあげて目を醒ましたようだった。しかし起き上がる事はできなかった。よもや病気なのかとケプラーは慌てたが、よくよく見ると母親の両手には黒塗りの鉄製手枷と足枷――それが魔除けなのだという――が付けられ、自由に立ち上がる事すら制限がかかっているようだった。

「嗚呼! お母さん、痛くないかい? 手や足は動くのかい?!」

 その無残な姿を見るとケプラーの目からは涙がはたはたと零れた。罪人扱いより遥かに酷いと思った。これが魔女の取り扱いだというのか。すっかり痩せこけた母の身体をゆさぶりながら、ケプラーは大声で叫んだ。

「おい! 牢番、はやく来てくれ! これじゃあ母さんが病気になってしまうじゃないか! せめて手枷を外してやってくれ!」

 その様子をぼさーっと見ていた牢番は肩をすくめ「魔女は手が使えると魔法を使うっていうじゃないですか。だから手枷をすると決まってるんです」と言ってのけた。こんな連中に何を言っても無駄だと悟ったケプラーは、力なくうなだれた。

 ちょうどその時、寝床で横になっていたままのカタリーナが声を出した。

「なんだい、ずいぶん煩いと思ったらヨハネスが来てたのかい」

 声色は思ったよりも元気そうだったが、収監されてまだ一カ月も経っていないのにカタリーナはもう死人のようにげっそりと痩せてしまっていた。

「お、お母さん……ごめん。会いに来るのがずいぶん遅くなってしまいました」

「別にそんな事はいいんだよ。お前は昔からろくに会いに来ないじゃないか」

 カタリーナはそう告げると鼻で笑って見せたが、ケプラーの目にはやはり空元気のように見えてしまい、笑い返すのもぎこちなくなるのだった。

「あのねお母さん。私は今レオンベルクに下宿をとって毎日毎日偉い人達に手紙を書いているんだ。母さんに対する不当な訴えと虐待をやめさせるようにね。チュービンゲン大学法学部の教授達にも助言をお願いしてるし、そうだ、ヴェルテンベルグの大公閣下にも嘆願書を書いたんだよ。大公閣下が動いて下さればアイホルン判事なんてもう一撃で降参さ!――だから母さん、もう少しの辛抱なんですよ!」

「へえ、お前は大公様にまでお願いできる立場なのかい。出世したもんだね」

「……ああ、そうともさ! だから、母さんをすぐに助けられるんだよ!」

 大公への嘆願書はほとんどダメ元で書いて送ったもので、正直なところ大公本人の手に渡るのかすらケプラーには分かっていなかった。だが囚われの母を少しでも勇気づけられるならばどんな話でもしてやりたかった。カタリーナはそれを聞くとニマニマと笑い、こう言った。

「クフフ……希望が出てきたね。いいかい? 私が外に出られたらね、ラインボルトの亭主も嫁もギタギタに懲らしめてやるつもりでいるのさ。大体あいつら、私に借金があるんだよ! あんまり返さないもんだから痺れを切らして催促してやった事を逆恨みして、踏み倒そうとして魔女だなんて訴えだしたに決まってるんだ。箒でコテンパンに叩いて二人ともコブだらけにしてやるつもりさね」

「うーん、あのね、お母さん……そんな事ばかり言ってるから憎まれて魔女だなんて言い出されるんだよ?」

「ンヒヒィ……そうかも知れないけどさ。つい出てしまうのさ! ああ、魔法が使えるなら使ってやりたいもんさ。そしたら酷い目に遭わせてやるってのに!」

 そう言って例の漏れ出すような笑い声をあげる母につられ、ケプラーは思わず吹き出すようにして一緒に笑い出してしまった。

 嗚呼。この人のひねくれきった態度には生まれつきの陰険さが勿論あるのだが、それ以上に世の中全部が嫌いで仕方がないのだ。気狂いじみた振る舞いをして嘲笑い、罵り倒し、逃げ出したくなるような思いが七十四年間ずぅっと積み重なり続けたのではないかと思う。たぶんあのルドルフ二世もそういう人間だったし、そんな思いはケプラーの心にも存分にあって――少なくとも今はよく理解できた。

 やがてひとしきり笑い終わった後、ケプラーはしなびた藁の上に腰かけて、意を決して話を始めた。

「あのね、僕はずいぶん前に心の慰みに物語を書いたんだ。アイスランドが舞台で、主人公はドゥラコトゥスという男で、彼にはもちろん母親が居るんだ。フィオルクヒルデ、それが彼女の名前。どちらの名前もスコットランドの神秘的な古語から取ったんだ。どっちも意味は知らないんだけどね。

 ドゥラコトゥスは生まれつき好奇心がとても強く、余計な事をしてはフィオルクヒルデに叱られる。フィオルクヒルデは癇癪持ちの気難しいお母さんで、実は魔術の心得がある。

 ある日彼は悪戯で母の大切な薬草を台無しにして、カンカンに怒ったフィオルクヒルデはドゥラコトゥスを船員として売り飛ばしてしまうんだ。それから色々な幸運があって、ドゥラコトゥスはティコ・ブラーエというデンマークの偉大な天文学者の弟子になった……。もう分かるかな? この話は私と母さんをモデルにして書いたんだ。小さい頃の私には、母さんは本当の魔女に見えたから」

 ケプラーの話にいつも囀るようにして口を挟みたがるカタリーナは静かに聞いていた。

「私はこの話を宮廷に居る頃に書いたんだ。それをある貴族に読ませたところ、面白いから写本を作らせてくれと頼まれて私はいい気になって承諾した。貴族のサロンで読まれていたその写本はさらに写され、あちこちの国や人々の手に渡って行った。信じられないけど、海を越えたイギリスでまで私のその物語を読んだ人がいるというんだよ。そのくらいあちこちに広まった。

 そしてどうやらこの地でもその話を読んだ人がいて、あろう事か私が自分の母が魔女である事を小説でずっと昔に暴露していたと、そういう風に曲げて解釈したらしいんだ。あんまりにも酷い悪意だけど、だとしたらお母さんをこんな窮地に追い込んだ原因の一端が私にあるんだ。その」

 できるだけ落ち着いて話そうとしたが、もう涙声になってしまっていた。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい」

 嗚咽を漏らしながらケプラーは何度も何度も母親に謝った。カタリーナはずっと黙っていたが、やがて一回鼻をすするとこう言った。

「それでどうなるんだい?」

 ケプラーにはその言葉の意味が分からず、押し黙った。すると母は念を押すように続けていった。

「それで、フィオルクヒルデとドゥラコトゥスはどうなるんだい?」

 藁の布団の中から顔を覗かせたまま、カタリーナは目を爛々と輝かせてケプラーの顔を見ていた。まるでこの災厄の原因よりもケプラーの物語の方がずっと気になるといわんばかりに。

「あ、ああ。――やがてドゥラコトゥスは立派な天文学者になって故郷に帰るんだ。故郷ではフィオルクヒルデが元気に、だけど寂しく暮らしていて、息子が立派に成長して帰って来た事をとても喜ぶんだ。母子は仲良くお互いの知識を交換し合って、ある日フィオルクヒルデがこう教えるんだ。〝私に沢山の知識を教えてくれた精霊はレヴァニアにいるんだよ〟ってね。レヴァニアというのはヘブライ語で〝月〟という意味でね。神秘的で気に入ったからこの言葉を選んだんだ。

 それでフィオルクヒルデとドゥラコトゥスは、そのレヴァニアに行ってみる事にしたんだ」

「月に行くのかい……良いね、良いじゃないか。それはとても良いお話だ。お前、天才じゃないのかい」

 カタリーナはニコニコと微笑みながら何度も何度も彼の事を褒めた。あの夢を除けば、母が自分を面と向かって褒めるのは正真正銘この時が初めてだった。ケプラーはなんだか嬉しかった。そうしてカタリーナはさらにこう言った。

「楽しみができた。お前、そのお話を私に少しずつゆっくり聞かせておくれよ。なにせ私は字が読めないからね、頼んだよ……」

 それだけ言うとカタリーナはふうと長く息を吐いて目を閉じた。疲れて寝る事にしたらしい。母親が本当に自分の書いた物語に興味を持ったのか、それとも息子の罪の意識を少しでも和らげようとしたのかは分からなかった。どちらにしろ、ケプラーにとってはさめざめとこぼれる涙が止まらなかったのは言うまでもなく。

 それからしばらく経った後、ようやく眠れたであろう母を起こさないようにしてケプラーは静かに牢を出た。そうして牢番に手元にあるだけの銀貨を渡し、くれぐれも母を大切に扱ってくれ、せめて藁を毎日交換し、昼は窓を開けてさわやかな空気を吸わせてやり、夜は火を焚いて凍えないようにしてあげてくれと重ね重ね要求した。

 それからも彼はレオンベルクとギューグリゲンをたびたび行き来し、母を慰めたり励ましたり、『月の天文学』を少しずつ語り聞かせたりする日々を送った。そして時間を見つけては各地の名士達にこの冤罪を晴らして母の命を助けてくれと嘆願してまわり続けたのだった。



                ◆



 カタリーナは結局あの独房に一年以上も拘束される事になった。

 アイホルン判事達は明らかに裁判の開始を遅らせていた。明確な証拠に乏しい訴えである事は彼らが一番知っているのだから当然であった。

 彼らは通常であれば「取り調べ」として裁判前から拷問にかけ、魔女である事を被告人に自白させてから裁判を受けさせる事を常にしていた。しかしカタリーナについてはケプラーが現地にとどまったまま諦めず執念深く弁護し続けたため、そうした手段が取れなかったのである。事態は最悪の一歩手前で踏みとどまったまま、長い膠着期間を経て

 ――西暦1621年9月。レオンベルクを管轄する高等裁判所はチュービンゲン大学法学部の教授陣の助言を得て、以下のような判決を下した。

『被告人カタリーナ・ケプラーが魔女である可能性は決して小さいものではない。しかしながら状況証拠のみで有罪と判断する事もまた早計である。真実を明らかにするためには、法律に則った魔女審問の拷問を受けさせる事を必要とする。

 ……ただし現実に拷問を加える必要はない。被告人に拷問道具を見せて脅かした上で審議をすれば良い』

 この判決はただちに実行に移され、裁判所に併設された拷問施設にカタリーナは連行された。立会人はアイホルン判事とケプラー、それに大法官や弁護士だった。

 腐った血のような臭いがたちこめる拷問施設の中で、係の男はこれは歯を引き抜く道具、これは指を潰す万力、これは爪をほじくり剥がす針、これは生皮だけを剥ぎ取るナイフ……などと脅かすような調子で一つずつ使い方を説明していく。しかしながらカタリーナは少しも怯える様子を見せず、拷問器具をちらつかせる男をゲラゲラと嗤い「やれるもんならやってみやがれ」と嘲ってみせるのだった。

 その様子を見たアイホルンが困惑しきった顔で「こいつには人間らしい心というものが無いのか」と小さく呟いたのが聞こえ、ケプラーはその場で張り倒してやりたい気持ちに強く駆られてしまった。

 そして嘲るばかりで決して最後まで魔女だとは認めないカタリーナの姿を見て、立ち会っていた大法官は遂に「所定の拷問を行ってもなお被告人は罪を認めなかった。よって法廷ではこれ以上の審議の必要を認めない」と宣告し、さらに「これまでの審議にかかった費用はアイホルン判事とラインボルト家で支払う事をヴェルテンベルクの大公に代わって命ずる」との命令を下したのだった。

 それはケプラーが死に物狂いで取り組み続けた根回しと弁護が遂に勝利した瞬間であり、数世紀にわたる魔女狩りの血塗られた歴史の中でも奇跡と言える出来事であった。地上に一つの小さな調和が確かにもたらされた瞬間だった。



 そうして翌日。ケプラーは最上等の馬車を手配して母を迎えに行った。

 自由の身になった母の姿は陽の下だとなんだかひどく惨めだった。頬は痩せこけ髪はクチャクチャ。手足は一年以上はめられ続けた枷のせいで痛々しく曲がってしまっていた。すっかり気が抜けてしまったのか目もこころなしか虚ろだった。しかしながらケプラーが優しくエスコートして馬車にのせてやると、母はあの漏れ出すような笑い声をあげて上機嫌な様子を見せた。

 街道の草原は見渡す限り一面じゅう黄金色に染まっていて、すっかり秋の様相だった。変な話だが、ケプラーにはそれがまるで他の惑星の光景にも思えた。

 のんびりと進む馬車からその異星の光景を眺めていたケプラーは尋ねた。

「ねえ、お母さん。これからどこに行きますか?」

 このまま弟の住む家に帰るのか、妹夫婦の家に行くのか、いっそ自分の所に来るのか尋ねたつもりだったのだが、カタリーナは即座にこう答えた。

「ああ、ヨハネス、偉大な私の自慢の息子。いっしょに月にへ行きたいねえ。そうして一緒に天球の音楽に耳を傾けたいねぇ」

 そう言ってニヤニヤと笑っているが、目はあいかわらず何を見ているのかよく解らなかった。口ぶりは夢でも見ているかのような口調だった。その様子にケプラーは一瞬戸惑ったが、やがて泣き出しそうなのをこらえた微笑みを浮かべてこう答えた。

「私もお母さんと月に行きたい――本当に行きたい。あそこなら、夢に向き合える気がするんだ」

 率直な気持ちだった。ケプラーから見ればひどくくだらなく思える宗教戦争はますます肥大化し続けているし魔女狩りも苛烈になってきている。世の中がすっかり狂って騒がしくなっているとしか彼には思えなかった。美しい調和の音色だけが響く宇宙に飛んで行ってしまいたい気持ちは日に日に強まるばかりだった。

「そいつは良い!」カタリーナは面白そうに大声をあげたが、さらにこう続けた。

「だけどね、ヨハネス。お前の考えた月旅行の計画にはまだ足りないものがあるんだよ。例えば体を空に勢いよく打ち上げられたら体中がひどい衝撃ショックを受けるはずだ。ことによっては身体が粉々になるかも知れない。これの対策を考えないといけない」

 母の言葉に、ケプラーは微笑みが引っ込んだ。カタリーナはさらに続ける。

「あとは、そうだね、宇宙には空気が無いんだよ。高い山の上だと空気が薄くなって息がしづらくなるだろう? 地面からさらに離れてしまえば当然空気も無くなってしまう。だから息をする方法も考えなければいけないんだ。それに、月に着陸する時も発射の時とおんなじさ。衝撃を和らげる方法を考えないといけない……」

「……お母さん、一体だれからそんな事を聞いたの? 誰がそんな知識をくれたんだい?」

 ケプラーは思わずそう尋ねた。いま母が口にした事は、言われてみればもっともな事ばかりだった。花をむしって空に放り投げれば花びらが舞い散る、地球から離れれば離れるほど空気が薄くなる、林檎が樹から落ちて地面にぶつかればぐしゃりと潰れてしまう――この不思議な力が宇宙に働いたとて不思議ではない。しかし自分を含めたヨーロッパの学者の誰一人とて、そんな現象が起きる可能性に思いを至らせる事すらなかった。まるで五十年先の見解を一足飛びで耳に入れられたような奇妙さがあった。

 カタリーナはごにょごにょと何か呟いたがケプラーにはよく聞き取れなかった。ケプラーは何度も繰り返し問いかけたが、カタリーナは何も答えてはくれなかった。嘯くばかりのその姿は、ケプラーにとってもやはり魔女のように思えた。

「さぁね、もしかしたら何か決まり事があるのかも知れない。ヨハネス、お前も考えてみるといいのかも知れないよ」

 最期にそれだけ言うと母親は、宇宙の真理に知らず知らず大きく近づいた息子の顔を見つめていつまでも満足げに微笑んでいた。



               ◆


 お前が自分の目で見た事、伝え聞いた事、書物で読んだ事を私に話してくれたのと同じように、大抵の事は精霊が私に話して聞かせてくれたのだよ。そうだ、精霊がよく話していたあの国へお前と一緒に行ってみたいものだね。話では何もかもが面白そうだよ。そしてその国の名は「レヴァニア」だと母は言った。

   ――『夢、もしくは月の天文学』


               ◆



 無罪放免を受けてからわずか半年後の1621年4月13日、カタリーナ・ケプラーは死んだ。長期に渡る勾留で身体が衰弱した事が原因であった。母親の死後すぐに、ヨハネス・ケプラーは『ソムニウム』と題した奇妙な小説の出版に取り組み始めた。

 それはケプラーが若かりし日に描いた小説『月の天文学』――魔女フィオルクヒルデと天文学者ドゥラコトゥスが精霊の力を借りて宇宙を舞い飛び、ついに月に到着し、月から見た天文知識や月の奇妙奇天烈な生物を知る話――に若干の修正と膨大な注釈を書き加えた奇書で、彼はこの小説出版の動機を「私の敵へのこらしめ」と表現している。

 彼は宇宙への夢を込めた自分の空想を捻じ曲げて解釈し、母親への迫害に利用した者達の悪意を告発しようとしたのである。しかしその出版が実現したのは彼の死没後となった。激化の一途をたどる三十年戦争の動乱はケプラーの人生を翻弄し続け、病弱だった彼の寿命をも縮めた。


 夢想に駆り立てられるようにして生涯をかけて算出された〝ケプラーの三法則〟はケプラー自身にすら仕組みを説明しきれない部分が多くあり、同時代人にはほとんど理解されなかったが、数十年後に現れたニュートンによってその正確さが証明され、万有引力の法則を発見する大きな礎になった。

 近代科学の時代の最初の一歩は、ケプラーが宇宙に向けて抱いた、調和と音楽に充ちた奇妙な夢から始まったともいえるのである。


 ヨハネス・ケプラーは1630年11月15日に58歳で死んだが、

 科学と魔術がまだ混濁する時代に生きた男の見た夢は、今も宇宙の中で燦然と輝き続けている。

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魔女と月のソムニウム ハコ @hakoiribox

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