3.焼失する矯飾
陽が落ちる時間が、少しずつ、ほんの少しずつ、早まり始めた。
今までは、日没の早まりなど、寒さを感じるようになってから気付いてきたものだった。一日一日が濃くなったのか、はたまた薄くなったのか、それはわからなかったが、昼から夕刻へ、夕刻から暗いだけの夜へと移るのが早くなっている変化を、今年の私は感じている。
夕刻は好きだ。太陽が最後に、燃えるような色で周囲を彩りながら、さながら空と海とを燃やす炎のように、大きく、明るく、叫びながら沈んてゆく。絶望的な数繰り返し、どれだけ輝きを増そうとも時間には敵わず沈んでいくことを知っているはずの恒星は、なお今日まで、太陽は沈む直前まで、昼とは比べようもないほど赤く、抗っている。
私では数え切れないほど、恒星は日没を繰り返してきたが、それからすればちっぽけな数なのかもしれない。その炎は、私がどれほど手を伸ばしても、届きそうにもない。
最後の夜は、特に、夜の空気の乾いた静寂も、冷たさもなかったが、それは澄んでいるように感じた。今思い出せば、私は今日が最後の夜になることを、どこかで感じていたのかもしれない。ふと、出歩こうと思った。
「ふと、出歩こうと思った」ことを初めて意識した、という方が正しいかもしれない。どういうことかというと、私は最近、どうやら毎日散歩をしているようだった。ようだった、というのは、私がそう意識せず、なんとなく歩いていたからだ。
目的地はなく、特定の道を歩くということもなく、気が済むまで歩き、そこから同じ道を引き返して帰っていたらしい。それは散歩というよりは彷徨といったほうが正しかった。
どこかで呼ばれているような、導かれているような、そんな気がしていたのかもしれない。
終に、求めていた光が、求めていた旋律が、芳香が、感触が、私のあらゆる感覚に受覚された。夜の黒の中、ぼんやりと、しかしはっきりと、それはあった。文字通り篝火のように、私はこれに引き付けられる。激しく紅を振るいながらも、その光の中心には心安らぐ温かさを宿し、触れたもの全てを包み込み、呑み込み、染め上げ、さらに激しく燃え上がる火の穂に。
我々にとってそれは高次の存在であるが、一歩、また一歩と近づいていくほどに、久しく会っていない友人と再会したような懐かしさがあり、まるで我々と同じ物質であるように、手を伸ばせば触れることができそうな、近さ、温度がある。
私は探し求めていたものを目の前にして、一度、歩みを止めた。この時、何を思ったのかは、覚えていない。広大な海を目の前にした考え事とは、こういうことを言うのかもしれないが、どちらも言葉にできない以上、共有できることもなかろう。
右足を前に。
左足をさらに前に。
私は再び、光の方へ歩み出す。温かい。それが発する空気で包まれてていく。この紅の眩しさがなかったら、眠ってしまいそうだ。
意外と曖昧な境界を超える。まずは手先から、それに触れていく。
近づくにつれて強く感じていた熱は、触れた瞬間、熱湯の中で氷に触れたような、儚さのある心地よさに変わった。
それを肘まで感じると、あちらから手を取るように、肩を、首を伝って来た。
それから先は、すぐに体中を這った。私は中心まで歩みを進め、目を瞑る。
焼かれていく。焦げていく。足元の感覚はもうない。
これが、これこそが。白い服の少女が灼けていったあの日からずっと、ずっとずっとずっと憧れ、羨み、恋し、焦がれていた炎だ。これで私も、彼女のようになれる。炎に身を捧げ、染め上げられ、炎となることができる!
あぁ、鏡がないのが残念でならない。今私は、最高の芸術になっているというのに!さぁ、もっとだ。炎よ、滾れ!
もう、戻ることはできない。
もう、離れることはできない。
もう少し。もう少しで、私のすべてが、受け入れられる。肉と、骨と、心と、魂とが、熔け、混じり、炎と一体化するのだ!
私は久しぶりに、大笑いをしていた。笑い声をあげることはもう叶わず、火照りを感じることもないが、口角は上がり、目は上がった頬に邪魔されて細まっているに違いない。
いつかも、このように笑っていたことを、表情は覚えていた。
あの時は、ここまで熱かったわけではないが、内側も温かったようだった。
走馬燈、というのだろうか。歓びで満ちていた私の脳裡に、突風のように、いくつかのイメージが去来した。しかし、そのほとんどはぼやけていてうまく思い出せなかった。その中に、引っかかるものを感じた。
必ずそれを思い出さねばならない気がして、過ぎ去ったイメージを思い出すことに集中した。
――――白い服に。
黒い、髪が――その、白を、犯し――
隣で――一緒、に、笑――――
―――咽喉が熱い!炎を吸ったのか!いや、全身が、痛い――
熱い。
嫌だ!苦しい!痛い!熱い!
おい!そこの少年!頼む、助けてくれ!手を取って!私を捕らえる炎から、引きずり出してくれ!
痛みの中力を振り絞り、手を出す。しかし、瞳に炎を反射する少年が動くことはなかった。
あぁ、見えていないのか。
私は伸ばした腕に力を入れるのを止めた。
最早離れるには、矯飾の仮面が織りなす世界で、歩きすぎていた。私は、炎の一部となる。
彼女を奪い、呑んだ、あの忌々しい炎と!
焼失する矯飾 逆傘皎香 @allerbmu
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