2.いつかの会話

「炎が、一見出鱈目に、運命的に揺らぐ。空気を挟み、鼓膜をして豪快でありながらその根本は優美な、綺想曲の旋律を届けさせる。肌や肌に触れた服をしてこちらに手を伸ばし、舞い誘っているのを伝える。わかるかい?」


ある時、友人と共に喫茶店に入り、こう話すことがあった。客は私と友人の他には二三人いたと思う。背景音楽はなく、私と彼との会話以外の音は、耳にしなかった。


「君。そもそも炎なんてものは物質として存在しない。炎は音を出しているわけじゃないし、君に手を伸ばしているわけじゃない。音は燃焼している物質が出しているものだし、空気の揺れを感じたのは、単に君が炎の熱の拡散する射線上に立っていただけなんだ」


彼は理解しなかった。もとより彼の性格上理解するとは思えなかった。


「さっき君は炎やそれによる燃焼を、『至高の芸術』と言ったが、炎は芸術たりえない。炎っていうのは虹と同じように、そう見えているだけなんだ。物質として存在しているわけじゃない。写真や絵画の中にあって初めて存在しうるんだよ」


「私の中に、少なくとも想像の中には存在するさ。君だって炎を想像しろと言えばできるだろう」私が彼に反論するのは珍しいことだった。


「想像。想像ときたか。いいかい、想像も存在する物ではない。想像を音楽や絵画、詩や造形として形にしてきた芸術家は数多くいるがね。彼らは美しい幻想を見る力を持っていて、それを形あるものへ投影する力も持っていなくてはならなかったんだ。どれほど美しき幻想の世界の住人でも、それができなければ何の価値もない」


投影できるのならば投射されるべき影を持っている物ではないかという反論は、屁理屈じみていたので言わなかった。


 物質として確かに存在する物しか信じることのできない彼を、私は少しばかり哀れんだ。だが実際、彼ほどまではいかずとも、多くの人間はそういう思考をどこかに持っている。


幼い頃の不思議や神秘を、ただの物理法則だと何年もかけて思い込まされているのだ。周囲のすべての人間が、その正否を疑わず、疑わせず、生きてきたのだ。


そんな連中に今更神秘を説けば、もしかしたら自分が長く信じてきたことが間違いであると認めたがらず、憤慨する物も出てくるだろう。


彼がそれにあてはまるかはさておき、そういう理由で彼らは、存在しないもの、ただの物理法則上の現象を、美しいと思うことができない。形ないものを愛することができない。




 欠点の見えやすいものを見ていると、欠点のない炎がより魅力的に感じられる。欠点はなく、不安定ながら自ら消えることはなく、その不安定さが炎の持つ幻惑的で神秘的な力を一層強調する。


 全てのものは、何らかの欠如によって存在している。暗闇は光の欠如であり、同時に光は暗闇の欠如である。美しさを求める心は美の欠如であり、目の前の彼は、目に見えるものを信じる力の欠如、であろうか。私は――


彼が、彼の欠如を持つ私を話し相手として求めるように、人間が自身の欠如を追い求める存在であるならば、私の欠如は、炎、ということになる。




 光というものが無ならば暗闇というものが無であり、美が無ならば美を求める心が無であるように、自身の欠如が消えれば自身も消失してしまうものだが、欠如を持たぬ炎は決して消えることはない。


「君、君の言うそれは、神、と呼ばなくてはならないよ」


彼にとっての最高の嘲りであるこの言葉は、言い得て妙だった。




「これを君にあげよう」


彼は唐突にそう言うと、大きな鞄から風呂敷を取り出し、私に差し出した。


私は結び目を握り、真結びを解くと、中には一枚の絵画が入っていた。


「描かれている女性、彼女に似てるだろう? 君はきっと気が滅入っているんだ。その絵が少しでも君が前みたく戻る足しになれば、と思ってね」


彼はそう言って会計へと立ったが、その言葉が何を示しているのか、私はわからなかった。しかしこの絵画は彼に返すわけにもいかず、捨てることもできなかったから、家に飾っておくことにした。

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