ビターチョコ*後編


 あえて、どこもかしこもカップルで埋め尽くされているバレンタインデーに、遊園地にやって来たのは他でもない。


 自分サラが、幸せそうなカップルたちの、甘い恋心を食べるため。


 でも、それを理由にしたんじゃ絶対にボクが反対するであろうことを見越したこの幽霊は、意味深に見せたいものがあるだなどと言ってボクを騙したのだ。

 

 全てを悟って怒りに打ち震えているボクに気づかずに、サラは幸せそうに満ち足りた表情で、うっとりとため息をついた。


「はふぅ……恋する心って、なんて甘くて、おいしいんでしょう」


 つまるところ、ボクは、この幽霊のお菓子発掘に付き合わされただけだったのだ。


「帰る」

「あそこのカップルの恋心はどんな味かなぁ……って、えええっ! 帰っちゃうんですか!?」


 彼女にとっての甘いお菓子に囲まれて幸せそうに目を細めていたサラが、慌てて零れ落ちんばかりに瞳を大きく見開く。


 ようやく現実に戻ってきたサラに、ボクはブリザードの視線を浴びせかけた。


「どーせ、全部、君の策略だったんでしょ? そうと分かった以上、もうこれ以上、君のお菓子発掘には付き合ってられないよ」

「うっ。ま、待ってください! まだ、見せたいものを見せ終わってないです!」

「その、見せたいもの、とかいうのは何なの?」


 どうせそんなの、ボクを遊園地に行かせるための口からの出まかせに過ぎないに決まってる。


 サラの言うことを信じて、こんなところにまでのこのことやってきたボクはとんだ大馬鹿者だったのだ。


 サラが隣にふよふよ浮いてはいたものの、体裁上のぼっちジェットコースターにぼっち幽霊屋敷はかなり心が折れそうだった。だというのに、そのボクの苦労も全てはこのお気楽幽霊の策略の一環でしかなかったのだと思うと、涙が出そうだ。


「まだ秘密です。もう少し暗くなるまで、待っててください」

「今ここで言わなかったらもう帰る」

「もうっ! サプライズをしてあげたいっていう乙女心が分からないんですか!?」


 とか何とか言いつつ、どうせ自分が幸せそうなカップルたちの甘い恋心を食べるための時間稼ぎに過ぎないんだ……。


 けれど、その見せたいものとやらが本当にあるんだとしたら……。


 サラが、子犬のように潤んだ瞳でボクのことを見つめてくる。


 …………。


 はぁ。


 この時ボクは、もしもこれでやっぱり嘘だったら、一週間は口をきいてやらないと堅く誓った。




 それからというものの、一度乗ったジェットコースターに再度乗ったり、ゲーセンで時間を潰したりしていたら夕日が沈んできて、気づけば、辺りはすっかり宵闇に包まれた。


「ゆづ君、そろそろ行きましょうか」 


 サラに誘導されて辿り着いた場所は、大きな観覧車の前だった。


 夜闇の中でカラフルな光を発しながら、ゆっくりと回る観覧車。


 園内にある乗り物は今日一日でほとんど乗りつくしてしまったけれど、これにはまだ乗っていなかった。


 観覧車の係員のお姉さんに聞こえない程度のひそひそ声でサラに確かめる。


「これに、乗れと?」

「はい! 今更、何を言っているんですか」


 そんな、当たり前のように言われても……渋い顔にならざるをえない。


 だって、いくらサラと一緒とはいえど、体裁上はぼっち観覧車になってしまう。


 ジェットコースターやお化け屋敷は百歩譲ってまだ許せたとして、流石にぼっち観覧車はハードルが高すぎやしないか? ハードル的にはぼっちメリーゴーランドと同程度、もしくはそれ以上だと思われる。


「ぼっち観覧車は……流石に、無理」

「ゆづ君はぼっちじゃないです。あたしと一緒じゃないですか」

「君は幽霊だから、他の人には見えないじゃないか」

「そんなことを言ったら、今日一日ずーっとぼっち遊園地だったくせに、何を今更見栄を張っているんですか。ほら、行きますよ」


 ……ぐうの音も出ない。


 そそのかされたボクは今、観覧車の中でサラと向き合って座っている。


 なんだ、これ……妙に緊張するぞ。


 背中辺りまで伸びている艶やかな黒い髪に、紅の花弁を浮かべた雪の頬。

 澄み切った夜空のような漆黒の瞳には、じっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうになるような、不思議な吸引力がある。


 こうして真正面から向かい合う機会はそうそうないけれど、サラはしとやかな美少女だ。ただし、黙ってさえいれば。 


 サラも、ボクも何も言わない。


 妙に気まずい張りつめた無言が続く中、口火を切ったのは彼女の方だった。


「ゆづ君! 外を見てください!」


 ハッと息を呑んだ。

 窓の外を見やった彼女の瞳が、あまりにもきらきらと輝いていて。


「ね、とっても綺麗でしょ?」


 そう言って鮮やかな微笑を浮かべたサラに、心臓が飛び跳ねた。


 サラは、ずるい。


 サラはいつもこうして、急に、ほんとに突然、ボクの心を揺り動かすような甘い微笑みを浮かべる。しかも、無自覚だから、ほんとに性質が悪い。


 頬が上気するのを感じて、咄嗟に彼女から目をそらした。 


 ボクの態度を不審に思ったのかサラは首を傾げる。

 でも、すぐに再び窓の外へと視線をやって、幸せそうにゆるりと瞳を細めた。


「真っ暗な闇の中に浮かび上がる、色とりどりの無数の光。赤、青、緑、金……まるで、夜空に宝石をちりばめたみたい。なんて素敵なのかしら。まるで、おとぎ話の世界みたいです」


 小川のせせらぎのように優しい声が、流れるように耳に入ってくる。


 何故だか胸が苦しくなって、ボクは何を言えばいいのかも分からず、目を伏せた。


 サラは慈愛に満ちた瞳で、観覧車の外に広がる夜の遊園地を見下ろしていた。


 穏やかであたたかくて、けれどどこか奇妙な沈黙が、ボクらを包む。

 まるで、この狭い観覧車の中だけが世界の全てになってしまったように思えた。

 世界が、ボクとサラだけになってしまったみたいだ。 


 何か言わなきゃって焦って口を動かすものの、妙な緊張でからからになった口からは、何も言葉が出てこない。

  

「ゆづ君。これが、あたしがゆづ君に見せたかったものなんです」

「あっ……」


 朝、頬をふくらませてだだをこねていたサラの言葉が、頭に蘇る。

 

『行ってくれたら、お礼に良いものを見せてあげますから!』


 このこと、だったのか。


 もう一度、ゆっくりと観覧車の外に目を向ける。


 暗闇の中で、色鮮やかにきらめく無数の光。ジェットコースターや、メリーゴーランド、ありとあらゆるアトラクションが七色の光に彩られていて、とても幻想的な眺めだ。


 ボクはふいっと窓から目をそむけると、うつむいて、ぶっきらぼうに言った。


「……嘘じゃ、なかったんだ」

「あーっ! あたしのこと、嘘ついてるって思ってたんですか? ひどーい」


 今は、サラと、目を合わせられそうにない。


 そうでもしないと、頬が上気していることに気づかれて、かわれてしまいそうだったから。


 あえて視線を外しているボクに、サラは水風船みたいにふくらませていた頬をしぼませると急にまじめな顔をした。


「……本当は折角のバレンタインデーだから、ゆづ君に何か手作りして渡したかったんですけどね。あたしには、できないから」


 澄み切った濁りのない瞳にはどこか寂しげな色が浮かんでいて、心臓を直接、撫でられたようだった。


 あたしには、できない。


 何気なく彼女の放った言葉が、冷たい弓矢となってボクの心臓に突き刺さる。


 サラは、もうこの世の人間ではない。


 その証拠に彼女は透けているし、ふよふよ浮いているし、ボク以外の人にはその声も姿も届かない。



 春。

 サラは、嵐のように唐突にボクの前に現れた。


 幽霊という不可解すぎる現象に、最初は死ぬほど狼狽した。


 怖い、全然意味が分からない、何でも良いからとりあえず早く成仏してくれと震えながら追い払った。


 でも、サラはくすくすと笑いながら、


『あたしは、この世の全ての感情を喰べ尽くすまで、成仏なんてできません』


 そう艶やかに微笑んで、全く取り合ってくれなかった。


 最初は怯えていたけれども、サラは能天気そうに見えて人との心の距離を測るのが本当に上手だった。


 誰かのことを本気で信頼したり、好きになったりしたら、またあの心臓の半分を捥ぎ取られるような激痛に苦しむことになる。中学時代のあの時に嫌というほどに思い知らされて絶望したボクは、もう誰にも気を許したりなんてしないって、決めていた。


 決めて、いたのに。


 それでもサラは、ボクが心に張り巡らせた塔よりも高くそびえ立つ堅牢な壁をいつの間にかすり抜けて、ボクの日常の中に入り込んできてしまった。

 

 でも。


 サラは、いつボクの傍からいなくなるか分からない、とても不安定で、危うい存在だ。


 いつかは成仏して、ボクの傍からいなくなる運命。


 出会った時から分かりきっていたことなのに、今になって、そのことがボクの胸をどうしようもなく締め付ける。


「ずーっと昔にお母さんとお父さんと一緒にこの観覧車に乗って、心に決めたんです。今度は大事な人と一緒に来よう、って。あっ、大事な人っていうのは、そういう深い意味ではなくて、そのまんまの意味で、ええっと……」


 頬を薄桃色に上気させてあわあわとしているサラを見た時、柄にもなく、このまま時間が止まってほしいだなんて本気で思った。


 彼女に向かい始めている温かい気持ちと、いつボクの傍からいなくなってしまうのか分からない冷たい不安とがない交ぜになって、苦しい程に心臓に巻き付いてくる。


 言葉が見つからずにうつむいていることしかできないボクに、サラは瞳を閉じてそっと呟いた。


「ゆづ君の今の心は……高級な、ビターチョコみたいです。甘いけれど、苦いの。……ゆづ君、淋しいの?」


 ボクには、答えられなかった。


 後から思い返せば、ボクはもうこの時サラに、美桜の時と同じ感情を抱き始めていたのだと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビターチョコ*ゆづとサラの過ごしたバレンタイン 久里 @mikanmomo1123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ