権力者の末路

仲麻呂の最期

 小舟の揺れが収まったときに、仲麻呂は顔を上げてあたりを見渡した。雨は上がっていたが、空は厚い雲に覆われていて月や星は見えない。闇夜の中では西も東も分からない。

 近江海ではなく三途の川を渡っているのだろうか。真先は懸命に船をこぎ、陽侯は舳先にすがって泣いている。

 古城からは遠くに来ているらしい。松明は点にしか見えず、敵兵の声は届いてこなかった。広い湖を小舟で渡りきれるのだろうか。東岸へ着くことができれば、美濃に抜ける道があるが、不破関は閉じられているだろう。美濃の執棹も殺されているかもしれない。愛発関と近江国衙は敵の手にある。都へ戻ることはできない。四面楚歌だ。

 力は山を抜き、気は世を覆ったはずだった……

 何故に、最高権力者である自分が、兵に追われ雨に打たれ、惨めな姿をさらしているのか。

 自分は正一位大師。この国を統べる者だ。人臣位を極め、律令以来初めての太政大臣となった。優秀な子供に恵まれ、たくさんの下人に傅かれ、公卿百官からは仰ぎ見られてきたのだ。決して項羽などではない。

 喉が嗄れて声が出ないかわりに、涙があふれ出てきた。大粒の涙が頬を伝わって落ちてゆく。口に入ってきた涙は塩辛い。

 真先が「あれを」と声を上げて指さす方向を見ると、いくつもの鬼火が揺れていた。大きさと揺れ方からすると陸にある松明ではなく、舟の篝火らしい。

 篝火に照らされて敵の舟の輪郭が、闇の中に浮かび上がってくる。鬼が騒いでいるように、敵兵の声が聞こえてきた。

 一艘の舟が暗い湖面を滑って近づいてきた。

 真先が「ぶつかる」と大声を上げると同時に、敵の舟が横腹に当たってきた。大きな衝撃と共に仲麻呂たちの舟は横転し、三人は湖に放り出された。

 水に落ちた衝撃で全身が痛い。息ができずにとても苦しい。

 水中でもがいて水面に顔を出そうとするが、衣が邪魔をしてうまく手を動かすことができない。やっと顔を出して息を吸い込んだが、波がかぶさってきて、水も一緒に吸い込み、水中に押し戻されてしまった。水中でむせると、さらに水を飲み込んで苦しくなる。

 手足をばたつかせながら上を向くと、篝火らしい黄色いものが見えた。

 右足を何かに捕まれ、ぐいぐいと底に引き込まれてゆく。

 このまま死んでしまうのか。正一位の自分が、あまりにもあっけなさ過ぎる。

 仲麻呂の力が抜けたとき足が自由になって、水面に顔を出すことができた。立ち泳ぎの姿勢で息をしながらあたりを見る。体は大きな波に揺られて上下し、水は身を切るほどに冷たい。

 いきなり後ろ襟を捕まえられたかと思ったら、強引に舟に引き上げられた。

 仲麻呂は四つん這いになって飲んだ水を吐き出す。水は後から後から出てきてとても苦しい。引き上げられたときに船縁を擦った腕や背中が痛い。水をはき出し終わって息ができるようになり、目を開いて辺りを見回すと、真先と陽侯が仰向けに倒れていた。血の臭いが鼻をついてくる。

 真先は首から血を流していた。陽候の目は開いているが、輝きはなく全く動かない。

 顔を上げると、篝火に照らされた髭もじゃの男が仁王立ちになっていた。

「自分は大師藤原恵美押勝である。無礼であろう」

 男は大声で笑った。

「自ら名乗るとは探す手間が省けた。飛ぶ鳥でさえ落としていたという大師様も惨めなものだ」

「お前が真先と陽候を殺したのか」

「そのとおりだが何か。大師様の一族は討ち取られてお前が最後だ。恨みは全くないが覚悟してもらおう」

 男は刀を抜いて振り上げた。

「待て。おまえを御史大夫にしてやる。名は何という」

 男は再び大笑いした。

「俺は石村石楯いわれのいわたて。逆賊の首を取って太上天皇様から褒美をもらう」

「待て。待ってくれ。自分は藤原恵美……」

 こんな終わり方は、あっけなさ過ぎる。自分は正一位。日本を統べる者なのだ。

 石楯がヤッと気合いを入れて太刀を振り下ろすと、太刀は仲麻呂の体に食い込んできた。

 塩焼王は古城の戦乱の中で殺され、仲麻呂に従った一族三十四人も戦いの中で殺されるか、捕らえられて斬首された。


 仲麻呂の首級は翌日平城京に届けられた。

 仲麻呂に与していた、船王や池田王は子供や孫も含めて流罪にされ、仲麻呂に連座して処罰された者は三百七十五名に及んだ。仲麻呂が変えた唐風の官職や役所の名前は元に戻され、追討に参加した者たちへの褒賞が行われた。

 藤原豊成が右大臣に戻り従一位に昇叙され、藤原永手、藤原八束は正三位、吉備真備、和気王、山村王、藤原蔵下麻呂が従三位、大津大浦、坂上苅田麻呂、高丘比良麻呂、藤原宿奈麻呂ら功績があった者も昇叙された。戦捷祈願をしていた道鏡は「大臣禅師」に任官された。

 仲麻呂の乱の処理が一段落した十月九日、孝謙太上天皇は和気王、山村王、百済王敬福に兵百を与えて淳仁天皇の中宮を包囲した。淳仁天皇は位を奪われ、その場から鞍を置いただけの馬に乗せられて淡路へ護送された。淡路に幽閉された淳仁廃帝は、翌年、「逃亡を図った」として殺されてしまう。

 孝謙太上天皇は重祚して、称徳天皇となり、あわせて道鏡は「太政大臣禅師」に昇格した。藤原仲麻呂の名前は歴史の中に消え、奈良時代は称徳天皇、道鏡を中心に終盤へと進んでゆく。

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夏の野に 我が見し花は 黄葉(もみじ)たりけり しきしま @end62

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