三尾の古城

 三尾(滋賀県高島市)には城があったが、放棄されてから長い時が経っていた。

 倒れかけた柵が周囲に立っていなければ、古城の大きさや形はわからない。東側の柵が切れているところから、琵琶湖の砂浜に降りることができる。柵の中は腰の高さまで伸びた雑草が茂っている。仲麻呂たちがやってくると、草むらから何羽もの雉がギャーと声を上げながら飛び立った。雨は上がったが、草の葉にはたっぷりと水が乗っている。手入れされていない木は伸び放題に大きくなっていて、鳴きわめく川鵜の巣になっていた。

 掘立柱の建物は朽ちて潰れ、蔓草が山のように乗っている。建物の残骸から、狸の親子が慌てて逃げ出していった。礎石建ちの母屋だけは、かろうじて形をとどめていた。

 仲麻呂は、腰の高さの草を押し倒しながら母屋にたどりついた。母屋の扉には蔓が絡まっていて開けられそうになかったが、蹴ってみると簡単に内側に倒れていった。黴と埃が舞い上がり、思わずむせる。母屋の床は抜け、ひょろひょろの草が顔を出していた。大きな蜘蛛の巣には、捕らえられた蝶が暴れていた。鼠の群が突然の来客に混乱してドタドタと走り回り、太くて長い青大将が鼠を追っていった。

 母屋は外観を保っているが、使えそうにない。仲麻呂の後ろに付いてきていた陽候は、両手で顔を覆って泣いていた。

 仲麻呂は草むらに座り込んでいる兵たちの元に戻った。

「まだ負けた訳ではない。状況は良くないが、越前の辛加知、美濃の執棹が必ず来るはずだ。越前と美濃、そして近江の兵があれば都にいる奸物どもを一掃できる。真先は柵を直せ。朝狩は母屋を燃やせ。巨勢麻呂は何人が連れて見張りに行け。ぐずぐずするな!」

「母屋を燃やしていいんですか。火が出ると敵に見つかってしまいます」

「敵も我らが三尾の城に来たことぐらいは知っている。火を焚いても焚かなくても結果は同じだ。盛大に燃やして服や鎧を乾かし暖を取れ」

 朝狩は数人を連れて行った。代わりに陽侯が何か言いたげに近寄ってきた。

「お前は女たちを使って飯の用意をせよ」

 仲麻呂は、泣いている陽侯を追い立てて空を見た。雨は上がっていたが、厚い雲に覆われて月や星は見えない。強い風で琵琶湖は大きくうねっていた。漆黒の夜が全てを飲み込もうとしている。

 見渡せば明らかに人が減っていた。愛発関で討ち死にした以上に数が減っている。都を出たときには二百人以上いたのに、今は百人を切っている。しかも、女子供の方が多い。舎人や下人たちは自分を見限って逃げたというのか?

 何かが狂っている。

 自分は正一位大師として日本を司ってきた人間なのだ。宮中にあっては、天皇が教えを請いに来て、すべての人が跪いた。田村弟の門前には客が列をなし、よく手入れされた庭は四季の花が咲いて明るく、旨い食べ物と音曲が常にあった。

 今はどうだ。泥に汚れた衣をまとい、腹を空かせ、雨風に打たれている。養ってきた兵や下人たちは自分の元を離れ、跪いていた者たちからは矢を射られる。

 何かが狂っているのだ。

 塩焼王が呆然と立っていた。

「塩焼王も女子供を使って柵を直し敵に備えよ。火を焚いて暖を取り力を取り戻せ」

 塩焼王は仲麻呂を一瞥してから何も言わずに、のそのそと街道の方へ歩き出した。

 母屋に火が付いて明るくなると同時に、「敵だ!」「愛発の兵だ」という叫び声が何本も上がった。

「兄者どうする」

 泥だらけの顔をした巨勢麻呂が聞いてきた。

「どうするも、こうするもない! 戦え!」

「湖に逃げよう」

 巨勢麻呂の言葉に湖を見たが、琵琶湖は荒れていて船が出せる状態ではない。

 薄暗がりに見える敵は、騎馬一騎に徒立ちが十人を超える程度だった。

「あれしきの兵、ものの数ではない。返り討ちにしてやれ」

「すぐに本体が来るぞ」

「攻者三倍という。城は守るに易く攻めるに難しく、守り手の三倍いなければ落とせない。明日になれば、愛発関のむこうから辛加知が兵を連れて来てくれる。明後日には、執棹が美濃から兵を率いてくる。それまで持ちこたえればよい。城から逃げればひとたまりもないぞ」

「辛加知は本当に来るのか」

「敵の策略に乗るな。辛加知は必ず生きて助けに来てくれる。執棹も生きている」

 敵は顔が分かるほどに近づいてきた。

「生きて朝日を見たければ戦え」

 仲麻呂は声を張り上げて走り出した。

「弓を引ける者は弓で応戦せよ。女子供は石礫を投げよ」

 仲麻呂勢の反抗に、敵兵は足を止めた。

「敵は二十人もいない。跳ね返せ。柵の守りは堅いぞ。楯で矢を伏せいで、射返してやれ」

 仲麻呂は叫びながら、守り手の薄いところ、敵の厚いところに人を移動させて防戦する。

 兵たちは死力を尽くして矢を射り、刀を振るう。女たちは泣きながら石礫を敵に向かって投げつけた。

 仲麻呂勢は三度敵の突進を食い止めた。味方で討ち死にしたものはいない。倒れかけの柵でも十分に役立った。

 敵は三十間退いて集結した。

 戦いで疲れた体を、再び降ってきた雨が容赦なく打つ。暖を求めて皆が燃えている母屋に集まって、へなへなと座り込んだ。兵や下人たちは、泥と血にまみれ、顔からは気力が失せていた。敵は不気味な黒い影を作って、モゾモゾとうごめいている。

 乾いた衣に着替えて、熱い酒を飲み、手足を伸ばして寝転びたい。

 真っ黒な闇と冷たい雨は、仲麻呂の願いを許してくれそうにない。バチバチと音を立てている焚き火がわずかな救いになった。

 ようやく立ち上がることのできるまで、体力が戻ってきたときに、敵陣から歓声が聞こえた。

「何事だ」

「敵の援軍が到着したようです」

 仲麻呂が柵に近寄って目をこらすと、焚き火の光に敵が浮かび上がった。

 騎馬武者五騎に率いられた三百ほどの兵が、愛発の兵に合流していた。

 敵の歓声が収まると、立派な甲冑を身にまとった武者が二騎近づいてきた。

 汚れていない鎧甲からは殺気が立ち上がっている。

 宿奈麻呂と蔵下麻呂!

 二人は仲麻呂を見つけると声を上げて笑った。

「この前は良くも痛めつけてくれた。今度は失敗することなく殺してやろう」

「いいざまだ。正一位と威張っていた影もない。すでに都は太上天皇様が押さえ、豊成も難波から呼び戻された。越前の辛加知と美濃の執棹は斬られ、お前に味方する者はいない」

 宿奈麻呂は、鐙の上に踏ん張ると大声を出した。

「逆賊どもに告ぐ。仲麻呂の首を差し出せば罪一等を減じ、死罪だけは免じてやろう」

「だまされるな! 正義は我らの側にある」

 宿奈麻呂は大声で笑った。

「あの世で太上天皇様に詫びよ」

 宿奈麻呂が空をめがけて矢を放った。鏑矢がヒュルヒュルと音を立てて飛ぶと、三百の兵が一斉に襲いかかってきた。

「出迎えよ。柵を倒されるな。矢を射返せ」

 仲麻呂の命令に、幾筋もの矢が飛び何人かの敵が倒れた。敵は直ちに楯を前面に出して、仲麻呂勢が射かけた何倍もの矢を降らせてきた。

 仲麻呂勢の矢はすぐに尽き、敵の矢を拾って射かえすしかなくなった。

 仲麻呂が持っている楯の影から、朝狩が出て敵兵を射ようとしたときに、矢が大量に降ってきた。矢が楯に当たる音と振動に思わず目をつむり、再び開けると朝狩が倒れていた。腹、腕、頭と何本もの矢が立っている。

 敵は大歓声を上げて向かってきた。女子供は泣いて逃げ惑う。兵たちは柵を挟んで戦い始めたが、疲れ切っている仲麻呂勢は次々と倒されてゆく。

 宿奈麻呂の「仲麻呂を討ち取ったものに、恩賞は望みのままだ」と叫ぶ声が聞こえてきた。

 仲麻呂が楯を持って後ずさりしていると何かに躓いた。

 巨勢麻呂が全身に矢を受けて倒れていた。

 仲麻呂の目の前の柵がゆっくりと倒れた。歓声と共に敵兵がなだれ込み、女たちの悲鳴が大きくなる。黒い鎧をまとった敵兵は魔神の集団のように暴れ、馬は竿立ちになっていなないた。

 馬の鳴き声は地獄の獣の声、敵兵の歓声は鬼の叫びのように聞こえる。

 仲麻呂は楯を捨てて走り出した。

「父様、こっちへ」

 真先に手を引かれ、息も絶え絶えに湖畔に逃げてくると、船着き場で大伴古薩と陽侯が小舟を用意していた。

「舟で対岸へ逃げましょう」

 すっかり夜になって、湖は全く見通せないが、大風が吹いて湖面が荒れていることだけは分かる。真っ黒な湖は地獄の入り口のようで、小舟で渡りきれるとは思えない。

 三尾の古城の歓声や悲鳴は聞こえなくなった。味方はあらかた殺されたのだろう。仲麻呂の元に残っているのは、真先、陽候、古薩しかいない。

 雨が痛いほどに仲麻呂の頬を殴ってゆく。足首まで砂に埋もれ、湖の冷たい水に体がしびれてくる。

 古城でうろうろしていた松明の一つが、砂浜に降りてきた。松明に、敵兵三人の黒い影が浮かび上がる。

 真先は背負っていた矢を敵に向けて射かけた。松明を持っていた兵が倒れ、ジュッという音を立てて明かりは消えたが、残った二つの影は、真先の矢に導かれるように、真っ直ぐに向かってきた。

 「早く」という叫び声に、仲麻呂は陽侯と共に舟に乗った。真先が櫓を持つと、古薩が舟を押し岸から離してくれた。

 古薩は舟に飛び乗ろうとしたときに、背中に何本もの矢を受け、水しぶきを上げて湖に倒れた。

 矢が仲麻呂をかすめる。仲麻呂は船縁をつかみながら、船底に顔を付けるように伏せた。

 バシャバシャと敵が水に入って追ってくる様子がしたが、二の矢はなかった。敵は湖岸で大声を上げて仲間を呼んでいる。

 仲麻呂は真先を急かしたが、櫓をうまく扱えない真先に波と風が邪魔をして舟はなかなか進めない。

 仲麻呂は大揺れの舟に何度も顔をぶつけた。目の中に星が飛び、口の中を切って血の味がしてきた。仲麻呂は船底に頭をつけて目をつむった。水に濡れて冷えた体が震えだす。

 突然、眠気に襲われた。

 寝て起きれば田村弟にいて、輿に乗って宮中へ行くことができる。

 都の人々は輿を見るとひれ伏し、朱雀門では百官が勢揃いで出迎えてくれる。訓儒麻呂は淳仁天皇の側に控え、真先は公卿の先頭を歩く。朝狩が百官に号令をかけ、辛加知や執棹は任国から産物を山のように運んできて皆を驚かせる。法体の刷雄は大僧都として寺をまとめ、孫たちは花束を持って、笑いながらじゃれついてくる。

 全身に冷たい水がかかって、仲麻呂は現実に引き戻された。

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