愛発関の戦い
十八日の昼過ぎに、仲麻呂は近江国と越前国の境にある
瓦葺きに白壁の堂々とした塀は、仲麻呂の行く手を遮っている。雨は止んでいたが、空を覆う灰色の雲は、足早に北に流れてゆき、風が近くの林を揺らしていた。
愛発関で出迎えてくれるはずの辛加知の姿はなく、代わりに完全武装して弓を構えた三十人ほどの兵が固く閉ざされた関の上にいた。
「正一位大師、藤原朝臣恵美押勝である。開門せよ」
塀の上に立つ兵たちは、仲麻呂の言葉に動く様子も、畏れを抱く様子も見せない。兵たちは答えに代えて弓を構えた。ひげ面の男が出てきた。
「我が国に大師などいない。逆賊藤原仲麻呂は、降参して我が縛に付け」
男の大声は、関の内外を振るわせた。
「無礼者! 名乗れ」
「我は物部広成。太上天皇様より太刀を預かって愛発関を守る者である。仲麻呂一党の悪事はすでに伝わってきている。太上天皇様を畏れ敬うならば、すみやかに太刀を捨て跪け」
「無冠の下郎が何を言うか。我が命に従え」
「お前は、官位官職、名前の全てを奪われた老いぼれに過ぎない。ごたくを並べるならば、弓矢で分からせてやる」
広成の言葉に、兵たちは仲麻呂に狙いを定めてきた。
辛加知は、なぜ姿を見せない。自分が出した使者は越前国衙に着いているはずだが……
関を右から左へ見渡しても、辛加知の姿はない。
広成の横に、鎧甲を身にまとった男が出てきた。広成よりは小振りで若く見える。
「我は
辛加知が殺された? 嘘だ! 都を出てから七日しか経っていない。自分は休まず、へとへとになりながら愛発まで来たというのに、孝謙は先回りできたというのか。
「逆賊の考えることなど、太上天皇様はお見通しである。お前が都を出る前に、軍師吉備真備様は、近江、美濃、越前、伊勢の国へ早馬を出された。三関は閉ざされ、お前が出した使者は全て捕らえられた。瀬田橋を思い出せ。我は三船殿と保良宮、瀬田橋に火を放った後、越前国衙に急行し辛加知を斬った。美濃の国司である藤原執棹も、今頃は斬られているだろう。お前は孤立無援なのだ」
「嘘だ!」
辛加知や執棹が殺されて良いはずがない。二人は大師である自分の息子たちなのだ。
「お前の出した偽官符がある」
伊多智は手に持った紙を半分に破って捨てた。紙は風に乗って、ひらひらと仲麻呂の頭上を飛んでいった。
「太上天皇様は、太政官印の官符には従うなという詔を早々に出されている。お前に従う者などいない。角家足の一族はどうしたというのだ。一人もいないではないか」
「大師である私に逆らえば死罪は確実だぞ」
物部広成と佐伯伊多智は腹を抱えて笑った。
「まだ太政大臣のつもりでいる。お前の思い上がりには弓矢にて返答しよう」
広成が「撃て」と号令を掛けると同時に、塀の上から矢が射かけられてきた。
風切り音を立てて飛んでくる矢に仲石伴が倒れた。仲麻呂は真先が出してくれた楯によって、すんでのところで矢を浴びずにすんだ。楯にはコンコンと恐ろしい音を立てて矢が刺さる。女や下男たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
仲麻呂は二町ほど下がったところで隊列を整えた。鎧をまとい太刀や弓を持つ者は百余名、鎧をしていない下男五十名に楯を持たせれば十分に立派な軍団になった。
軍団を三つに分け、それぞれの大将に真先、朝狩、巨勢麻呂を、副将に村国嶋主、石川氏人、大伴古薩を任じた。日頃から鍛えている兵たちは、敵の先制攻撃に驚いたものの、関を出てくる様子がないと知って余裕の表情を浮かべている。
「敵は関にいる三十名程度である。我らは百五十人もいれば力で押し切ることができる。関を突破して越前の国衙を目指す。敵の大将を討ち取った者は国司に任じる。めざましい働きをした者には官位官職を与えよう。手柄を上げた者には好きなだけ褒美を与える。いざ進め!」
仲麻呂の号令にしたがって、兵たちは関を攻め始めた。
大歓声と共に、楯を持った兵を先頭にして前進してゆく。関から無数の矢が射かけられて、楯は見る間に矢で埋もれていった。
敵の矢の勢いが弱れば進み、強まれば止まる。尺取り虫のように、わずかずつ進みながら、関の手前まで来たときに、敵の矢が止んだ。
一瞬の静寂の後に、太鼓の大きな音がしたかと思うと、門が開き敵兵がどっと出てきて、たちまち大乱闘になった。鎧を身につけずに楯だけを持っていた下人は何人もが瞬時に斬られて倒れる。逃げ惑う下人は味方にぶつかって混乱を激しくし、刀がぶつかり合う音が鳴り響いて怒号や悲鳴が山にこだました。
四半刻ほど乱戦が続き、敵味方双方に疲れの色が見えてきたとき、銅鑼の大きな音がして、敵兵は一斉に門の中に入っていった。
仲麻呂勢が立ち止まって一息つこうとしたときに、関の上から矢が雨のように射かけられてきた。楯を拾う間もなく瞬時に何人もが矢の餌食になり倒れた。残りの兵たちは、算を乱して矢の射程外まで退いた。
関の前には死体が何十人と転がっている。雲は厚くなって昼間だというのに暗くなり、強い風も吹いてきた。
「なぜ敵を追って関に入らなかった! 固い関ほど内側からは脆いものなのだ」
仲麻呂は叱りつけながら隊列を整えた。
「巨勢麻呂は正面で大暴れして敵の注意を引きつけよ。真先は右から、朝狩は左から回り込んで攻めよ」
二回目の突撃で村国嶋主が矢に倒れ、三回目の突撃では石川氏人が死んだ。
仲麻呂が兵の四分の一を失った頃に夕暮れとなった。関を守っている兵の数を減らすことはできたが関はびくともせず、開く気配もない。仲麻呂の前には、昼と同じように白壁の塀が行く手を遮っている。関の前には死体や楯が無造作に散らかっていた。
降り出した雨が顔を洗い、声は嗄れて出なくなってきた。
「兵の疲れが溜まって来てます」
鎧に何本も矢を立てた真先が報告する。矢は鎧の下の当て木で止まっていて真先は無事らしいが、顔は泥と汗で汚れていた。
巨勢麻呂、朝狩も帰ってきて同様の報告をする。兵たちで無傷な者はいない。女たちが駆け寄り傷の手当てを始めた。兵たちは仰向けになったり、四つん這いになったりして戦いを続けられる状況ではない。
「南へ下ったところに三尾の古城があります。兵の疲れが頂点に達していれば、城に入り休みを取りましょう」
「三尾城といっても、昔に捨てられて石垣と柵が残っているに過ぎない」
かといって、兵たちは疲れ切っているし、愛発関は落ちる気配がない。夜になっては関を攻めることもできない。ここにいれば関を出てくる敵の餌食にされる。雨もしのぎたい。
「三尾の城まで下がる」
仲麻呂は、関から兵は出てこないように念じながら退却した。
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