太政官命令
保良宮を後にした仲麻呂は、十五日に高島郡
角野郷の長である
初老の家足は白髪が目立つ。顔は日に焼けて黒く、無精ひげが見苦しく伸びていた。頼もしい太い腕や厚い胸が、つぎはぎだらけの衣から出ていて、雅とは縁がない典型的な土豪である。
家足が出してくれた乾いた衣に着替え、熱い白湯を飲んで一息つくと疲れが出てきた。
「久しぶりである。一族は息災か」
「藤原様から任された角野をしっかりと守っております。急なお越しに十分なおもてなしもできませんし、小さな屋敷で窮屈かもしれませんが、おくつろぎ下さい」
「旧知の人間に会うとほっとする。供の者たちにも酒や衣を出してやってくれ」
仲麻呂の一族や従者は、家足の小さな屋敷には入りきらず、多くの者が庭で一晩を過ごすことになった。家足は一族と村人を総動員して、たき火をおこし、食事を作って歓迎してくれている。
家足は「承知しました」と答え、後ずさりしながら去ってゆく。代わりに下男下女たちが膳と酒を運んできて、仲麻呂たちの前に置いていった。
徳利から手酌で土器に酒を注ぎ口元に運ぶ。
漉されていない酒は、米粒混じりの酒粕が半分くらいある。醸造も下手で、酒の匂いはするが、酸っぱい味も混じっている。出された飯には、粟や稗が半分ほど混じっていた。精米も不十分で玄米の色が残っている。大振りの茶碗はゆがんでいて、縁が欠けている。おかずは瓜の漬け物一品のみでとても塩辛く、思わず口から出してしまった。塩のすまし汁に、大きなシジミが入っていることだけがうれしかった。
着替えに出された衣は、村祭りの時に使う神官の服らしい。家足が持っている衣の中で一番良い物を出してくれたのだろうが、何カ所も補修の跡があり、何回も洗ってあるのに、糸が太すぎるので麻特有のごわごわした感じが残っていた。家足の体に合わせてあるのか、仲麻呂には大きすぎる。乾いていることがせめてもの救いだった。
正一位大師の自分が、何故にこのようなみすぼらしい食事を口にして、粗末な衣を身につけなければならないのか。惨めさに涙が出てくる。憎きは孝謙と道鏡、永手ら取り巻き連中だ。絶対に許しはしない。訓儒麻呂を殺された恨みを果たしてやる。
酸っぱい酒は、何杯飲んでも酔うことはできない。塩焼王や真先たちも仲麻呂と同様にしんみりとした顔をしている。巨勢麻呂だけはがつがつと飯を食べているが、陽候は早々に箸を置き、涙ぐんでうつむいていた。
「本当に愛発関を超えて越前へたどり着くことができるのだろうか」
塩焼王の独り言が胸に刺さってきた。
越前で再起を図ることができるのだろうか。都を出たときは、先手を取られたぐらいにしか考えていなかったが、保良宮や近江の国衙に先回りをされ、雨に打たれながら旅をすると、心が折れてしまいそうになる。普通ならとっくに越前国衙についている時期だが、女子供を連れた大人数では早く動けない。
いまさら、許しを請いに戻ったところで、年増の女帝や永手たちは話を聞いてくれないだろう。川の流れが遡らないように、動き出したものを止めることは出いない。自分が殺されるか、孝謙や永手を殺すかのどちらかでしか決着はつかない。
乾いた衣、まずい酒と、貧相な食事ではあるが、一息つくことができた。今できることをしなければならない。
仲麻呂は、真先に紙と筆、太政官印を持ってこさせた。
墨をすり、太い字で黒々と書いた後に、印に朱をたっぷりと塗って押した。
真先は紙を受け取ると、大きな声で読み上げた。
「僧道鏡にたぶらかされた女帝が都を騒がせ、長年の功臣を追い出した。子供のない女帝によって皇統は途絶え、国は滅びようとしている。心がある者は大師の元に参じ、
「数枚書くから、真先は家足に命じて高島郡や近隣の郡司に配ってくれ」
塩焼王が不思議そうな顔をして、
「大師の書いた命令書にある今帝は、平城宮に捕らえられていますが、『奉じて入る』とは?」
と聞いてきた。
「塩焼王様のことです。塩焼王様は新田部親王様のご子息であり、天武天皇様の孫に当たる立派な血筋です。孝謙が心を乱している今、
「儂が、天皇?」
「左様です。古来、日本では臣下の推戴を受け大王に即位してきました。臣下筆頭の私が、塩焼王様を天皇に戴きたいと申し上げます。天神地祇もお許しくださるでしょう」
「淳仁天皇がいるのに儂は即位できるのか。儂に天皇が務まるのか」
「淳仁天皇のそばにいた訓儒麻呂が殺されました。おそらく天皇も殺されたことでしょう。塩焼王様に即位していただかなくては国が治まりません。太政官印を持ってきておりますれば即位は可能です」
「だが、都には孝謙太上天皇が……」
「人々は権威に従います。天武天皇様の玄孫の年増女よりも、塩焼王様のほうが貫禄や権威があります。塩焼王様が帝として立たれるならば、越前、近江の民は喜んで参じましょう。太政官符も生きてくるというものです。集まってきた民に武具を与え兵とし、都の逆賊を討ち滅ぼせば、誰憚ることのない天皇になれます」
酒で酔って赤い顔をした塩焼王は「よし」大きな声を上げた。
仲麻呂は命令書を書き終わると真先たちに持たせた。
仰向けになって両手両足を伸ばすと、仲麻呂の体は悲鳴を上げた。ふくらはぎは張りつめ、腕や足の節は痛くて動かせば音が出そうな気がする。背中に床板の継ぎ目が当たっていて痛い。
床は汚れていて衣は黒く汚れる。部屋の角には埃がたまっていて虫が動いている。見上げると、屋敷に天井はなく、茅葺き屋根の裏側が見えた。ときおり梁の上を鼠が走って屋根の裏に付いている煤を落としている。柱や壁も煙でいぶされていて黒くなっている。田村弟の物置でさえもう少し上等な造りをしていた。
自分は日本を統べる大師である。謀反人と罵られる覚えもなければ、あばら屋に寝て体を汚すいわれはない。
越前から兵を率いて南下してやる。孝謙、道鏡、永手、八束、真備、苅田麻呂…… 奴らの命は風前のともしびだ。
仲麻呂は、塩焼王を先導して大極殿に立ち、朝堂院中庭に跪く公卿百官を睥睨している姿を思い浮かべて、そのまま寝入ってしまった。
夜が明けると、家足の一族はきれいに消えていた。家財や食料、馬や牛などはすべて残されていて、仲麻呂たちが寝ている間に人だけがどこかへ去ってしまっていたらしい。仲麻呂が太政官符で集合するように命じた近郷の村人も集まる様子がない。
陽候が、残された食材で朝餉を作って持ってきた。
「きのうの夜半に、流れ星が、長い尾を引きながら南の方へ落ちていきました。不吉な印なのでしょうか」
「馬鹿なことを言うな」
仲麻呂の強い口調に、陽候は思わず膳を落としそうになった。
「流れ星が南へ落ちたのならば、孝謙たちの上に落ちたのだ」
陽候は膳を仲麻呂の前に置くと、右手で口を押さえ泣きながら立ち去っていった。
阿倍小路は戦う前に殺され、角家足は逃げ出し、陽候は泣いてばかりいる。塩焼王に王者の資質はない。どいつもこいつも不甲斐ない奴らばかりだ。
仲麻呂が粟飯を食べ、塩辛い漬け物を口にしたときに、鎧甲に身を包んだ真先が入ってきて、出発の用意ができたと告げた。
戸口に立つ真先は、光を背にしてまぶしい。黒絲縅の鎧はすがすがしく、甲につけた雉の羽が美しい。籠手を付けた手に持つ長弓は、矢籠に詰められた矢をどこまでも飛ばしてくれそうだった。
「まだ負けたわけではない」
屋敷を出ると、朝狩と巨勢麻呂が鎧甲を身につけて出迎えてくれた。仲石伴、石川氏人、大伴古薩、村国嶋主らも短甲を身に着け、気合いを入れている。
昇りたての太陽が仲麻呂たちを照らしてくれた。
仲麻呂が「出立」と号令をかけると、真先たちは「オウ」と大きな声で返してくれた。
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