瀬田橋の残骸
仲麻呂は田村弟にいた一族と授刀舎人、塩焼王を連れ夜陰にまぎれて平城京を脱出する。女子供を連れた一行は宇治を回って十三日に、瀬田川西岸にある保良宮に着いた。
仲麻呂の前に、宮は焼け落ちた無残な姿をさらしていた。
贅を尽くした保良宮が廃墟になっている。
宮門は八つの大きな柱を残してきれいに燃えていて、屋根から落ちた瓦が山になっている。白木の柱は黒い消し炭の柱に変わっていた。黒こげになった柱が等間隔に立っているので建物があったことが分かる。屋根をなくした柱は灰色の空に向かってむなしく立っている。何棟もあった屋敷は全て燃え落ち、所々にくすぶっている熾から白い煙が上っている。穀倉も焼かれて、香ばしい臭いが漂っていた。厩や犬小屋までも焼かれていている。仲麻呂が公卿百官を睥睨した大極殿は跡形もなく燃えていた。白壁の塀は外に向かって倒されていて、保良宮があった場所からは琵琶湖がよく見えた。焼け跡から白い煙が上っていなければ、百年前に捨てられた宮だと言われても疑うことはない。
迎えに来ているはずの、近江介阿倍小路の姿もなければ、保良宮に務めている舎人や采女も一人としていない。大火事のはずなのに、焼け死んだ人や牛馬は見あたらず、火を消そうとした様子もない。むしろ燃やし尽くそうとした感じさえ受ける。焼け跡を見物に来ている人もいなければ、近くの家にも人影がない。
仲麻呂が連れてきた一族、従者たち二百人余も呆然と焼け跡を眺めた。
仲麻呂が保良宮の宮門跡に立ちすくんでいると雨が降ってきた。雨で熾火はジュウジュウと音を立てて消え、白い煙は湯気に替わる。衣が濡れて容赦なく体温を奪ってゆく。雲は厚く本降りに変わるかもしれない。風も吹いてきた。
仲麻呂が焼け残った大黒柱を眺めていると、真先が息を切らせながら走り寄ってきた。
「瀬田橋が燃え落ちています。近江の国衙や美濃へは行けません」
仲麻呂は真先に先導されて瀬田橋に急いだ。
瀬田橋は、両岸のわずかな部分を残して見事に落ちていた。近江路の要衝として毎日多くの人や荷物が行き交っていた、立派な橋の姿はない。点々と立つ橋脚が橋の大きさを語っている。河原に落ちた橋の残骸は炎を上げていて、沢蘭や枯れた葦を焼いている。川の淀みにはすすけた木が回りながら浮いていた。
雨が仲麻呂の全身を打つようになると、川原の火は消えてゆき、消し炭の匂いが鼻をついてくる。
東岸には、三十人ほどの武装した者たちが、刀や弓を手に立っていた。
「おまえたちは誰だ」
仲麻呂が呼びかけると、赤絲縅の鎧を身につけ、長い太刀を佩いた男が出てきた。
「自分は
「おまえが保良宮と瀬田橋を燃やしたのか」
三船たちは大笑いした。
「私を正一位大師と知っての嘲笑ならば許さぬぞ」
「正一位は昔のこと。藤原仲麻呂と一族は、官位官職を剥奪、官籍除籍。藤原の氏姓を使うことも禁じられた。つまり、お前はただの人なのだ。宮中を我が物顔で闊歩していた人間も官位がなくなれば傘の一つもさすことはできない。惨めなものだ」
三船たちの笑い声が瀬田川を波立たせる。
仲麻呂は拳を握りしめた。
「誰に命じられて、保良宮と瀬田橋を燃やした」
「吉備真備様の命令だ。天網恢々疎にして漏らさずとはよく言ったもので、おまえの悪巧みは、大津大浦と高丘比良麻呂、和気王によって、太上天皇様の知るところとなった。太上天皇様を飛鳥に閉じ込め、国を乗っ取ろうとは。まぎれもなく謀反である。謀反人はおとなしく裁きを受けよ」
「従五位下の下級官吏風情が何を言う。私は正一位大師である」
三船たちは再び声を上げて笑う。
「太政大臣は昨日までのことだ。今日は謀反を起こした大罪人。軍師真備様はお前の動きを見通している。真備様はお前たちが宇治を回るだろうと考え、伝令には田原道を使うように命じた。自分は伝令から命令を受け、保良宮と瀬田橋を焼いた。ついでに、お前が出した使いも捕らえて斬った。逆らった阿倍小路は死に、近江の国衙は我らの手の内にある。逃げるところはないと知れ。おとなしく縛につけば妻子くらいは生かしてやろう」
三船たちは大歓声を上げて足を踏みならした。
保良宮が焼かれ、近江国衙は占領され、小路は殺された……
いったい何が起こっているというのか。
対岸から矢が射られてきた。ほとんどの矢は瀬田川に落ちるが、まれに足下まで届くものがある。
仲麻呂たちは後ずさりした。本降りになった雨は顔を洗い、濡れた衣が体を押さえつけてくる。
「大師殿、どうなさるつもりか」
塩焼王の言葉に、真先、朝狩が不安そうに見つめてきた。
「湖西を通り愛発関を越えて越前を目指す」
「越前へ?」
「越前だ。近江の国衙は三船に占領されている。保良宮では雨を防ぐことも、飯を炊くこともできない。あてにしていた近江兵もいない。ここにいれば、都からの追っ手が迫ってくる。越前には辛加知がいる。辛加知の兵と合流して都に攻め入る」
「本当に大丈夫なのか」
「塩焼王殿が残りたければ止めはしない」
塩焼王は頭を垂れた。
仲麻呂は重い体を引きずり、一族を連れて、越前を目指した。
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