鈴印争奪戦
すばやく朝服に着替えて仲麻呂は庭で大声を上げた。
「輿など用意する必要はない。馬を牽け。馬で平城宮へ向かう。一刻を争うのだ」
鎧を身につけた巨勢麻呂が二十人ほどの兵を連れて来た。屋敷では次々と篝火が焚かれる。
「これだけしかいないのか」
「兄者、無理を言うな。矢田部が門番たちを連れて行ったから、すぐに動ける連中はこれだけだ。宮へ行けば、五衛府の兵も足せるからこれで十分だろう。真先と朝狩が舎人や武具を集めているから、じきに百の兵になるが、もう少し待つか」
「何を悠長なことを言っている。これは訓練ではなく我らの生き死にが掛かった実戦だ」
「心配しなくても良いだろう。政の中心は藤原恵美の家で、内裏には訓儒麻呂がいる。淳仁天皇様は我らの見方だ。年寄りの真備、女の太上天皇に何ができよう。内裏へ我らが入れば、草木がなびくように百官は我らの前に跪き、物事は収まる」
巨勢麻呂の言葉と同じように、兵たちの顔や体もだらけている。
「慢心するな!」
仲麻呂のきつい言葉が巨勢麻呂のにやけた顔を飛ばした。
「敵は先手を取ってきた。奈良麻呂の乱や宿奈麻呂の謀反を、自分が察知していたように、孝謙は我らの動きを知っている。孝謙一人では何もできないだろうが、軍略家の真備は我らの体制が整う前に次々と手を打ってくるぞ。法華寺は宮のすぐ横にあれば、いまごろ訓儒麻呂が苦労している。敵が次の手を打つ前に我らは宮を占領しなければならない。自分は正一位大師なのだ。奈良麻呂や宿奈麻呂と違って権威権力があれば兵も動かすことができる。自分に逆らうことはできないことを天下万民に教えてやる。ぐずぐずするな!」
巨勢麻呂を叱りつけて、下人が牽いてきた馬に乗ろうとしたとき、若い男が転がるようにして屋敷の中に入ってきた。
巨勢麻呂が連れて来た兵たちが刀を手にして仲麻呂の前に出て構えたが、若者が訓儒麻呂の舎人であると分かると太刀を下げた。
「訓儒麻呂様は、賊徒の矢を受けて亡くなられました」
若者の第一声に、仲麻呂は脳天を叩かれた。
仲麻呂の「詳しく話せ」という大声に、若者はおびえながら口を開く。
「訓儒麻呂様が内裏で天皇様と夕餉を召し上がっていらしたところへ、山村王様が見えて、駅鈴と御璽を強引に持ち出そうとされました。お怒りになった訓儒麻呂様は、山村王様が内裏を出るところを押さえて一旦は鈴印を奪い返しますが、山村王様の応援に駆けつけた坂上苅田麻呂らと戦いになり、内裏に逃げるところで敵の矢の餌食となりました」
「兄者、訓儒麻呂が死んだとはどういう事だ」
「大声を上げるな」
仲麻呂は内裏の方角を睨みつけた。
「矢田部はどうした」
「矢田部老は、訓儒麻呂様が殺されてから到着しました。すぐに苅田麻呂らと戦いになりましたが、二十人程度の兵では歯が立たず、矢田部は敵の矢に当たり、他の者たちも多くが斬られたり射殺されたりしました」
「二十人全員が! 敵は何人いたのだ」
仲麻呂の叫び声に、若者は首をすくめた。
「敵はおよそ五十名。苅田麻呂は五衛府の兵を使って全ての宮門を閉じた後、駅鈴と玉璽を持って出て行きました」
「天皇はどうなった」
「天皇様は内裏の中に監禁されました。内裏は苅田麻呂が連れてきた兵によって守られています。自分は隙を見て外へ出ましたが、もう宮中へ入ることはできません」
若者は言い終わると、四つん這いになって肩で息をした。
「訓儒麻呂が死んで、宮中が敵の手に落ちた? 二十人の兵が全滅だと。何ということだ」
訓儒麻呂が殺された…… 嘘であって欲しい。
訓儒麻呂は死ぬには若すぎる。天皇の伝奏役として出世し、藤原恵美の家を盛り立ててゆくはずだった。
息子を殺した責めは必ず負わせてやる。苅田麻呂や真備、永手、八束はもちろんのこと山村王や孝謙も許さない。
「兄者、法華寺を襲って鈴印を奪い返そう。訓儒麻呂の敵討ちだ」
巨勢麻呂の声で仲麻呂は我に返った。
「お前に言われなくても、訓儒麻呂の無念は晴らす」
空は知らないうちに黒い雲が出ていた。真っ暗な空の下で、法華寺の方角だけがほのかに明るい。風に乗って馬の鳴き声も聞こえてくる。
仲麻呂が「行くぞ」と声をかけようとしたとき、大伴古薩が息を切らせて田村弟に入ってきた。
「大変です大師様! 東大寺では工人に武器と鎧を配っています。工人の数は三百ほど。篝火が焚かれ、馬も集められています。吉備真備様が指揮を執っています」
言い終わって古薩も地面に這いつくばった。
自分の周りにいる兵は二十人ほど。他に三十人の授刀舎人。舎人や下人たちに武器を渡しても、屋敷で兵として使えそうな者は百人程度しかない。東大寺の三百には及ばない。宮中が押さえられたのならば、五衛府の兵も出てくる。自分が集めている兵は十五日にならないと都に入ってこない。このままでは押しつぶされてしまう。
「兄者、状況は俺たちに不利だ。どうする」
「分かっている! 宮へ行くのは中止だ。一族を集めよ。真先や朝狩も呼んでこい」
仲麻呂は「ぐずぐずするな」と巨勢麻呂を急かして、門を閉ざした。
背後に人の気配を感じると、塩焼王が寄ってきていた。
「太上天皇たちは我らの動きを察知して先手を打ってきたらしい」
「言われなくても分かっている」
仲麻呂の不機嫌な声に、塩焼王はムッとした表情で返してきた。
「東大寺は篝火と兵で満ちているという。いずれ田村弟に押し寄せてこよう。どうなさるおつもりか」
「人に聞くばかりでなくお前も考えよ」
怒鳴りつけた塩焼王の背後に、真先、朝狩たちが来ていた。二人は不安そうなまなざしで見つめてくる。
塩焼王の言うとおり、ここで時間を費やせば敵の兵に囲まれてしまう。
畿内の兵は間に合わない。宮中に押し入ろうとすれば、五衛府の兵だけではなく、東大寺から駆けつけてくる敵とも戦わなければならなくなる。田村弟にいる者だけではとても無理だ。
ならば、どうするか……
「越前の
「兄者! 田村弟を出るのか」
「そのとおりだ。保良宮で越前、近江、美濃の兵を使って体勢を立て直す」
仲麻呂は深呼吸して近くにいる者たちを見た。
「今から百年前、天武天皇様は吉野を出て東国へ向かい、
「訓儒麻呂はどうするのですか」
「訓儒麻呂は殺された」
真先と朝狩の顔が引きつった。
「刷雄もいませんが」
「薬師寺へ使いを出せ。言われる前に動け」
仲麻呂の言葉に追われるように真先と朝狩は走ってゆく。
「船王と池田王もいないが」
「船王と池田王にも使いを出せ。だが奴らを待っている余裕はない。奴らも和気王と同じく裏切ったのかもしれない」
塩焼王は泣きそうな顔をして見つめてきた。
日頃威張っている奴こそ、役に立たない。
「御身も残りたければ残ればよい」
大股で歩き出した仲麻呂の後に塩焼王が従った。
天武天皇には
真っ黒な雲は早足で北に流れてゆく。雲間から顔を覗かせた青白い月に、仲麻呂は照らされた。
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