藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の乱

 九月十一日の夕方、仲麻呂が田村弟の庭で夕焼けを眺めていると、陽侯が息を切らせて走り寄ってきた。

「大変です! 太上天皇様が…… 大炊天皇様に鈴印を差し出すよう…… 武装した使者を平城宮に送りました」

 息が切れ切れの陽候の言葉は分かりづらい。

「どういうことだ。深呼吸をしてからゆっくり話せ」

 陽侯は両腕を開いたり閉じたりして二、三回大きく息をした。

「法華寺にいる采女たちの話です。和気王様と中務省の高丘殿が本日お見えになり、太上天皇様に奏上されました。内容は、大師様が謀反を企てている。畿内から集める兵を二十人から二百人に書き直すよう命じた。集めた兵で太上天皇様以下を亡き者にしようとしている、というものです」

「和気王が裏切ったのか! 前に呼んだときに元気がなかったが裏切るとは許せない」

「道鏡様は、大浦殿から大師様の謀反を打ち明けられたこと、決行は十五日であることを奏上なさいました。太上天皇様は激怒されて、すぐに東大寺の吉備真備様、坂上苅田麻呂様をお召しになりました。永手様、八束様、浜成様、宿奈麻呂様にも使いを出したようです」

「二十年来当家で養ってきた大浦も私を裏切ったのか! 何という恩知らずだ。計画が完全に漏れたのか」

 仲麻呂の大声が田村弟の庭に響く。仲麻呂は拳を握りしめ、法華寺の方角を睨んだ。薄い茜色だった夕焼けは、朱色に変わっている。

「吉備真備様は鈴印を法華寺に持ってくるよう献策され、太上天皇様は山村王様に宮中へ行くよう、苅田麻呂様には兵を集めるよう命じなさいました」

 駅鈴と玉璽を手に入れれば、兵を動かすことができる。孝謙と真備は先手を取って自分を攻め殺すつもりだ。

 拳を握りしめた手は震え、顔が熱くなってきた。

矢田部老やたべのおゆを呼んでこい!」

 陽侯は、仲麻呂に怒鳴りつけられて棒立ちになる。

「ぐずぐずするな! 巨勢麻呂や真先、朝狩も呼んでこい」

 陽侯は我に返って走り出していった。

 しばらくすると矢田部老が走って来た。

「孝謙が淳仁天皇から駅鈴を奪い取ろうとしている。訓儒麻呂くずまろが天皇伝奏役として宮中にいるが、一人では心許ない。矢田部は田村弟の授刀舎人を率いて宮中へ向かい、訓儒麻呂と一緒になって天皇を田村弟にお連れせよ。鈴印も忘れず持ってこい。法華寺は宮のすぐ横にある。時間との勝負だ。門に詰めている者だけでよい。今すぐ行け」

 駆けだしてゆく矢田部の背中を見ていると、握りしめた拳が痛くなったことに気がついた。

 孝謙に政を司る才覚はなく、子細は自分が全て取り仕切ってきた。自分がいたからこそ孝謙は天皇であり太上天皇になりえたのだ。感謝されても足りないくらいなのに、自分を殺そうなどとは……

 和気王や大浦を許すことはできないが、孝謙も許すことは絶対にできない。飛鳥に閉じ込めておけばよいと思っていたが、真備や取り巻きの連中と一緒に殺してやる。

 屋敷の中に入ろうとすると、山に沈もうとしている太陽に目を射られた。

 鈴印を田村弟に持ってくることを考えたが、自分が宮中に入れば良いではないか。正一位、大師の自分が淳仁天皇を従えて、大極殿に立てば、孝謙がいかに吠えようとも従う者はいない。年をとって子供のいない太上天皇よりも、若くて将来性のある天皇の方が、尼寺の法華寺よりも、荘厳華麗な平城宮のほうが権威がある。

 巨勢麻呂、真先、朝狩と、田村弟にたまたま来ていた塩焼王が寄ってきた。

「我々の企てが孝謙に漏れて先手を取られた。決起の日ではないが事を起こす。私はこれから宮へ行く。巨勢麻呂は、船王や池田王の屋敷に使いを出して、宮に入るように伝えよ。お前たちも武具を身につけ兵を率いて一緒に来い」

「畿内の兵はまだ集まっていません」

「敵はすでに動き出している。畿内で集めている兵を待つ余裕などない。田村弟にいる授刀舎人をすべて連れて行く。鎧が余ったら下人にも着せよ。宮中の兵と合わせて事を起こす」

「田村弟が空になりますが」

「かまわない。孝謙や永手を片付けたら、平城宮が我が屋敷となる。巨勢麻呂には田村弟を真先には法華寺をやろう。先ずは宮中に入って天皇と訓儒麻呂に合流して衛士府を掌握する。ぐずぐずするな」

 真先たちは仲麻呂の声に飛ばされるように走り出した。

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