虜囚
猫田芳仁
虜囚
2つの小さなみどりの焔。
それは眼だ。僕を見つめる、らんらんと輝く瞳。
懐中電灯の光をもろに受けてもまるでたじろがず、瞬き一つしないその焔の主は、鱗を煌めかせた龍でも爪を光らせた獣でもなかった。
人だ。
よく見れば耳はわずかにとがっているし、肌は懐中電灯の光を差し引いても色味なく白い。それでもその姿かたちは人に酷似している。しかも映画俳優みたいにきれいだ。すっと通った鼻筋なんて、彫刻かなにかのよう。真っ赤な唇は挑発的な笑みを崩さない。これなら街を歩いたって、誰が気づくだろう。
人間じゃないだなんて。
そのおぞましい事実の証拠は、張り巡らされた鉄格子。
両脚まとめてがんじがらめにした、銀の鎖。
短い鎖で繋がれた、両手首の枷。
首を壁につなぐ、黒い首輪と鎖。
そして、何という皮肉。一目で囚人とわかるような格好を強いられてなお、鎖の下でしわを作っているのは僕の眼にも明らかに、仕立ての良い黒い夜会服。
「看守殿、お初にお目にかかる」
やや訛りのある、だが耳に心地よい声音の英語。みどりの焔の主はまるで客を迎える主人のように、堂々たる態度で言った。
「ようこそ、我が独房へ」
***
なぜこの仕事が僕に回ってきたかと言えば答えは簡単。僕が暇だったから。まともな仕事がもらえるのはちょっと誇らしくもあったけれど、仕事の内容がどうも気が進まない。はっきり言って、怖い。
――妖物を捕獲したから、監視をしろ。
いつかはこういうことがあるだろうと、多少は覚悟していたけど。化け物と七日七夜一緒にいるっていうのはぞっとしない。もちろん僕が寝泊まりするところと牢とは分厚い扉で仕切られている。逆に言えば扉しかない。ついでに言うと一年に二回くらいは檻を破った妖物のせいで死者が出ている。
怖い。
何が怖いって、こんなこと言うのもなんだけど、僕は本物の妖物を見たことがない。いや、幽霊や子鬼の類なら何度もある。でも、人に本格的に害をなすような、危ない奴らには会ったことがない。
そんな僕に上部は、「妖物の首領」を監視しろという。資料も回ってきた。かなり曖昧なものだけれど。「ある組織」で指導者のような立場にいた妖物らしい。知能は高そうだ。人間で言うと、マフィアの幹部のようなものなのだろうか。
ぐだぐだ考えていても仕方がない。僕は牢のある地下に降りた。これが地獄にでも繋がっていそうな狭くて暗い石の階段で。僕は棺桶を連想して、あわてて振り払った。冗談じゃない。
階段を降りて、右に曲がって、二番目の扉。それを開けると、さらに扉が二枚。片方がしばらく僕の部屋になるところ。もう片方が、牢屋。僕はちょっと考えて、牢への扉に鍵を差し込んだ。
そして話は冒頭へ。
自信たっぷりなその顔は、とても囚われ人には思えない。僕は自分の方が囚人なんじゃないかと錯覚しそうになった。彼は白い牙を零してくつくつと笑った。
「そんなに固くならんでもよろしい、お若いの。獲って喰おうってんじゃないんだから」
彼は鎖を見せつけるように、両手を少し持ち上げた。こういう拘束具は、一応、妖物の格に合わせてつけるらしい。だから、大丈夫。
の、はず。
僕は壁に背中をつけて、できるだけ彼から離れた場所にいた。今、彼は牢のちょうど真ん中あたりに座っている(むしろ、転がっている?)状態だ。そこそこの距離はある。鉄格子は問題じゃないんだ。僕の気分的に。
「ところで、看守殿のお仕事は如何なものかね。見たところ私を打つ鞭は持っていないようだが」
そういう彼はどこか楽しそうだ。なめられているのか。僕は何とか厳しい声を出そうとしたが、どうしても震えてしまう。
「僕は日が落ちてから昇るまで、ここであなたを監視するだけです。暴力は振るいません。必要がないからです」
そこまで言って気がついた。僕はどうして彼に丁寧な言葉を使っているのだろう。彼は、化け物なのに。
「そうか」
彼は上げていた手を下ろした。鎖が涼しい音を立てる。そこで、僕は気がついた。
そうか、彼は貴族なんだ。
裸で鎖をかけられていても、彼は看守にまるきり同じ対応をするだろう。彼はそういう種類の生き物なのだ。妖物なのに。化け物なのに。ゲームの雑魚キャラみたいないわゆる妖物どもとは格が違うんだ、間違いなく。
僕の恐怖は多少和らいでいた。話の通じる相手というのがありがたい。それに外観もほとんど人間だ。
怖くない。怖くない。
「ずっと見張っているんだろう、椅子でも持ってきたらどうだい」
やっぱり、怖い。
優しげな声音でも僕は飛び跳ねそうに驚いた。恐れているからなのか。彼が真昼の町中で郵便局への道でも聞いてきたら怖くないのだろうか。
とりあえず、彼の言う通り椅子を持ってくることにした。用意された部屋に向かう。電気をつけると本当に普通の部屋だ。こんな物々しい牢のそばには似合わない。
椅子は二つあったので、片方を牢に置きっぱなしにすることにした。椅子を持って部屋を出ようとして、僕は少し考えた。このまま一晩中起きているんじゃ、眠くなりそうだ。
コーヒーで一服してから戻ろう。
ついでだし読みかけの本、ちょっとだけ読もう。
あ、棚にビスケットがある。ちょっとだけ……。
***
いけない、うとうとしちゃった。時計……七時。
おかしい。僕が来たのは十時過ぎのはずなんだから。嫌な予感に突き動かされて腕に巻かれたデジタル時計を見た僕は、「やっぱり」と「そんな馬鹿な」に挟まれて愕然とした。
ああ、朝だ。
僕はあれから、ぐっすり寝てしまったんだ。
***
「椅子一つ運ぶのにずいぶんかかりましたな、看守殿」
みどりの焔は煌煌と燃えたぎり、その下の赤い唇は静かな、だけれどいくばくか尊大な笑みを浮かべている。僕は赤頭巾の人食い狼と対峙する気分で、椅子に腰を下ろした。懐中電灯の明かりを顔にぶつけてやると片目をすがめただけで、さして嫌というのでもなさそうだ。
僕は天井についている電灯の明かりを調節して、少しだけ、部屋を明るくした。彼は相変わらず鉄格子の間からみどりの瞳で僕を見ている。辛いとか苦しいとかそういう様子は見られない。僕は大きめの黒い鞄に詰め込んだ本から一冊を抜き取って開いた。タイトルは「殺戮のチェスゲーム」。その一行目を読み終える前に、笑いを含んだ声がした。「こんなに暗い中で本を読むと、目によろしくないぞ」
じゃあもっと明るくしていいのかと尋ねたら、彼は一向に構わないらしい。光を嫌う妖物ではないのだろう。せっかくなのでもう少し明るくさせてもらった。細かい字を読むのに不自由しない程度に。
僕は本を読むとどこまでものめり込んでいくたちなので、上巻を読んでいる間に何があったのかはわからない。わからないけれどおそらく怖いくらい何もなかったのだろう。なぜなら彼は、彼のみどりの焔は僕が頁を繰り始める前と寸分違わぬ位置で静かに燃えているから。まさかあれからまるきり動いていないというわけでは。少し背中が寒くなった。考えるのはよしておこう。
さすがに長いこと同じ姿勢でいると疲れる。首を回すとぱきぱき鳴った。次の本に取りかかる前に、コーヒーでも飲みに行こうか。でも昨日の失態を考えると少々はばかられる。
「看守殿」
もう少しで本を取り落とすところだった。心の中を見られたような気がした。そして、それをとがめられたような。
もちろん、違った。
「なにゆえに我々を嫌うのかね」
僕は迷わなかった。
「人を害するからです」
それを聞いて、彼は笑った。
「では看守殿は、野兎を食べる狐を『兎を害する』と嫌うのかね」
「それは、生きるためです」
「吸血鬼が生き血をすするのも、夢魔が魂の端を齧るのも、生きるためだ」
「しかし、やり方が悪意に満ちています」
「では看守殿は、食べるために罠を仕掛けたり毒矢を用いることも悪意だというのかね」
そこまで言うと彼は僕に背を向けて横たわった。彼が動くたびにざらざらと鎖が鳴る。それきりぴくりともしない。眠ったわけでもなさそうだけれど。僕はそっと椅子から立ち上がり、コーヒーを沸かしに行った。
同じ失敗をしないためにも、コーヒーを注いだカップを持って僕は牢に戻った。僕がいない間に起き上がったらしく、鉄格子のすぐそばまで寄っていた彼は僕を認めるとわずかに目を細めて、湯気を上げるマグカップを見た。
「そら、コーヒー豆の悲鳴が聞こえる。くく」
さも楽しげに笑って、彼は鎖を引きずりながら牢の真ん中あたりまで這いずって行った。そこから夜食のビスケットを齧り、コーヒーを飲む僕をじっと見つめる。僕はふとさっきの問答を思い出した。彼が人間を食料とする妖物なら、餌が餌を食べているのを見ていることになる。僕が飼料をついばむ鶏を見ているようなものだろうか。
ビスケットを半分残し、僕は二冊目の本を手に取った。
***
目が覚めたのは昼ごろだった。べつだんやることもないので「ヴァン・ヘルシング」のDVDを見たりしてごろごろしていた。ゲームなんかもあったけど、時間を忘れそうなのでやらないでおいた。今日は少し早目に行ってみようかな。
***
まだ夕焼けの色が空に残っているうちに、僕は彼の牢を訪れた。そして、思ってもみなかったものを見ることになった。
彼が寝ていた。
彼が眠らないと思っていたわけではない。実際、昨日僕が立ち去る時は少し眠そうにしていた。でも立って寝るなり眼を開けて寝るなり、そういったことをしてくれそうな気がしていたんだ。
しかし彼は今、「寝て」いた。
やや曲げられた腕を床に投げだし、だらしなく横たわり、こんな状況に置かれているにもかかわらずそれなりに幸せそうな顔で眠りこけていた。何たる無防備。なんの力もない僕でも今なら仕留められそうな気がする。寝言まで言っている。誰かの名前を呼んだようだ。
面白いからもう少し、このままにしておこう。僕は音を立てないよう椅子に座り、鞄から出した「真紅の法悦」の背表紙に指を乗せ、彼をじっと見つめた。昨日と、逆だ。
さほど経たないうちに、彼はもそもそと動き出した。寝起きの濁った眼をしばたかせ、頭をくしゃくしゃと掻く。少しの間ぼうっとしていたが、僕に気がつくとその目はみるみる大きく開かれた。
「や、これは、看守殿。お早い、お越しで」
彼はあわてた様子できちんと身を起こし、乱れた髪をざっと撫でつけた。肩幅くらいしか腕を開けないので、やりにくそうだ。
「いやはや、無様なところを見られてしまったらしい」
彼は僕を見て照れ臭そうに笑った。うん、こうして見ると、あまり、怖くないかもしれない。いや、それじゃ、駄目だ。ほら、笑った口元には人間離れした鋭い牙が見える。あの手を見ろ、爪はナイフみたいに切れ味がよさそうじゃないか。
そう、人間に害なすものだ。妖物だ。恐れ、憎み、排除しなければ。
とりあえず、コーヒーを沸かそう。
戻ってきた僕の手には、なぜか二つのマグカップを乗せたプレートがあった。
片方を何も言わずに彼に差し出した。「や、すまんな」少し意外そうな、少し嬉しそうな顔で彼は鎖を引きずってそれを受け取った。そのまま鉄格子のそばでカップに口をつける。僕も床に座った。どうしてそんなことをしたのかさっぱりわからない。とにかく、彼と僕は今までで一番近い場所にいる。
彼はコーヒーをうまそうに飲んだ。妖物の彼は、コーヒーを知っているのだろうか。尋ねて見るとすん、と鼻を鳴らして、馬鹿にするなと答えた。或る程度以上の妖物は人とさして変わらない暮らしをしていると彼は言う。見え透いた冗談だ。しかし、少なくとも彼はそういった生活の経験者なのか、コーヒーよりも紅茶が好きだとのたまった。
「そういや、食事は何が出るんですか」
訊くのは少し怖くもあったが、好奇心で尋ねてみた。妖物相手にシリアルなんかは出さないだろうな。でも人を食べさせているはずもないし。
彼はなんでもない様子で「なにも」と答えた。
「なにも、って……捕まってから、何も食べていないんですか」
「ああ。どうせ殺す手はずの化け物だ、餌などいらんと思っとるのだろ」
てっきり食事は僕じゃない誰かが運んでいるものとばかり思っていた。資料の内容を僕はなんとか思いだす。彼の処刑は僕がついてから一週間後。その前から捕まっていたのだろうから、実に十日近く、飲まず食わずにしておくということになる。
「それに食わせようと思ったら、贄の羊は誰になるかでもめるだろう。連中、面倒なことはやりたがらないしな」
彼はそう言うとにやりと笑った。みどりの焔がひときわ激しく燃えた。ああ、彼は人食いの妖物なのだ! 薄らぎかけの恐怖心が再び僕の首根っこを捕まえた。血の気が引いてゆくのをはっきりと感じた。
「どうだね、看守殿」
彼は僕を見つめたままで、骨と皮ばかりの細い腕をすうっと伸ばした。僕の方へ。燃える瞳に僕はくぎ付け、まるで動けなかった。
「ひとつ、私に喰われる気はないか」
ほの暗い牢の中にそれだけで浮かんでいるような白い顔。手。逃げなくちゃ。嫌だ、逃げたくない。頭の中が溺れている。水じゃない、よくわからないもので溺れている。どうしようどうしようどうしようもないもう何も考えられな――。
小さな爆発音。見ると彼の指が伸ばされかけた形でひたりと止まっている。その先からゆらゆらとたちのぼる一筋の紫煙。彼はゆっくりと、じれったくなるほどゆっくりと手を引き戻し、焼けて赤くなった指先を口に含んだ。
「その格子は――」一つ息をつき、僕は努めて平静な調子で言った。「聖化済みです。まともに握ったら、手が使い物にならなくなりますよ」
「そうか」指をしゃぶりながらだったので、彼の言葉は少しくぐもって聞こえた。「気をつける」指を口から出した彼は、不敵な笑みで僕に言った。
「君も気をつけたまえ。人ならざるものと目を合わせるな、というのは教えてもらったはずだろう」
***
今日も起きたのは昼ごろ。昨日より少し遅かった。このままいったら夜明けとともに眠って夕暮れ時に起きる、吸血鬼みたいな生活になってしまいそうだ。そうなったら、元通りにするのが大変だな。
僕は鞄に「ミッドナイト・ブルー」と「狼男の逆襲」を放りこんで、「血まみれ伯爵の冒険」をめくりながら紅茶を飲んで日暮れを待った。
***
彼は今しがた目覚めたようだった。まだぼんやりしている彼に、「おはようございます」と声をかけ、紅茶のはいったマグカップを渡す。彼は生返事で受け取り口をつけ、ちょっとむせた。猫舌なのだろうか。
「今日は紅茶にしたんですけど、どうですか」
「わざわざ、かね。コーヒーでも良かったのに、いやはやすまなんだ」
頭がはっきりしてきたらしい彼は、美味いと言ってカップを傾けた。ナントカがどうのと茶葉の名前らしき単語を口にしていたけれど、僕、紅茶はさっぱりわからない。
「ビスケット、食べますか」
「……もらおう」
こういうものも食べるらしい。彼はいったいどんな種類の妖物なんだろう。視線を感じたのか、彼が顔を上げる。一瞬、目が合った。
だけれど昨日のようなことは何も起こらず、彼はこれで結構甘党なんだと苦笑した。
昨日のあれはなんだったのだろう。思い出さない方がいいのだろうか。
「ときに」彼はカップの中に視線を落として言った。「きみはここで働いていて、幸せかね」
言葉に詰まった。
彼の言う幸せとは、何を指すのだろう。
でも、きっと。
「……あまり、幸せとは言えないかもしれませんね」
彼が面白そうな顔をする。他人の不幸はなんとやら、そういう顔ではないけれど。
「では、君はどうすれば幸せになれるのかね」
「……わかりません」
僕の答えに、彼は満足そうだ。
「では、探すがいい。疲れ果て、目がつぶれても、這いずってでも探すといい」
「……あなたの幸せは、なんですか」
いつも妙なことばかり尋ねる彼に、いつか何か尋ねてやろうと思っていた。だが、残念ながら僕の期待した通りにはいかなかった。彼はさして驚いたふうでもなく困ったふうでもなく、目をひとつふたつしばたいた。
「そうだね……何だろうね」
彼は意味ありげに笑った。僕は自分の首筋に彼の視線を感じた。
***
やはり起きたのは昼。DVDを半ばBGMがわりに流して過ごした。「ロストボーイ」と「フライトナイト」。ちらちら見てはいたけれどそれよりも掃除と料理が忙しくって内容はさっぱりだ。早めの夕食はスパゲティ。トマトの水煮缶があったのでそれをソースに使った。もうちょっと濃いめの味付けでも良かったような気がしないでもない。
紅茶入りの魔法瓶にマグカップ二つとクッキー一箱、ファニュの怪談集を一冊持って、さぁ、彼のところへ行こう。
***
「おはよう」
「おはようございます」
持ってきた皿にクッキーを半分ほどあけて、鉄格子の向こうへ置いた。紅茶の入ったカップは手渡しで。彼はもうおなじみの、「や、すまんな」を言って笑顔で受け取った。
いつもの通りの、とりとめのない話。途切れたら、僕は本を読む。しばらくすると、どちらともなく話す。また沈黙。また本を読む。また――。
そのぬるい空気にいらついていたのかもしれない。風雅な古典文学のページが、思いもよらぬ凶暴さで僕に牙を剥いた。
思わず指を引く。紙にしてはずいぶんと深い傷のようだ。ぱたと音をたてて、赤い雫がページを叩く。
「切ったのか」
彼の声がいつもより低いように思えた。見せてみなさいと言われて思わぬ量の出血に慌てていた僕は、なにも疑問を持たずに檻のそばまで行って鉄格子の間から腕を差し出した。蜘蛛の足を思わせる細く長い指が、氷の冷たさで僕の手に絡みつく。そこではたと気がついた。僕は今、理性ある猛獣の檻に手を突っ込んでいる!
手を引っこめようとしたけれどもう遅い。軽く押さえているようにしか見えないし感じないのに、引けども引けども腕が動かない。本当に、ぴくりともしない。何か訴えなければ。僕は彼の顔をまともに見た。ああ、牢の薄暗がりに燃えているのは、みどりではなく真紅の焔。瞳孔は裂け目のように縦に長い。僕は今度こそ、ぴくりとも、動けなくなった。
指の腹、傷口の上を、濡れた冷たいものが這いまわる。彼の舌だ。痛みはない。むしろ、どこか心地良いくらいだった。二度、三度、傷口を舐められるうちに、だんだん頭がぼうっとしてきた。貧血になるような量じゃないはずなのに。なのに。なのになのになのに。
微かな熱が傷に灯った。いや、これは、痛み? 傷口に太い針のようなものが押し入ってくる。不快感は一瞬。指先からひたひたと打ち寄せてくるのは――まぎれもない快感。僕は自分を支えきれなくなって、その場にへたりこんだ。
「――ほら、ふさがった」
途端、急速に現実が戻ってきた。そろそろと指を自分の方に戻し、見ると、傷は跡形もなく、とはいかないまでも薄紅色の線を一筋残すのみ。もう痛くないだろうという彼に、僕は我ながらおもちゃみたいな動きでかくかくうなずいた。
「昨日の晩、君は言ったね」彼はひとつ舌なめずりをした。唇も、舌も、血のように赤い。「私の幸せとは何か、と」瞳はいつもの通り、静かなみどりになって光っている。
「とりあえずは美食だね……君は、大変美味しい」
なんとなく気恥ずかしくなって、僕は眼をそらした。椅子に戻って本を開く。赤く濡れたページ。そのページの一行が、ひどく目を引いた。
――あなた、死ぬの怖くて?
怖い。怖いよ。背筋が寒くなるほど。目の前が暗くなるほど。でも。
彼に貪られたら、どんな心地がするだろう。
指先を噛まれただけでこれなんだ。彼の爪が僕の皮膚を破り、牙が肉に食い込み、温かい僕の血がほとばしる――想像すると嫌悪感よりも、微かな陶酔が先に立った。食べられるというのは、実は心地いいものなのだろうか。
いやいやいや。何を考えているんだ。ばりばり喰われるんだぞ。そうとも、肉はずたずたに裂けるし、血はたくさん出る。このとおり、本のぺーいで指先をちょっと切って、ほんの少し血が出ただけでも痛いのに。出血その他で死ぬより先に、痛みでどうにかなってしまうに違いない。
「君、もう一度噛ませてほしいと言ったらどうする」
ほんのりと笑いを含んだ彼の声が、僕の思考を打ち切った。人外の妖物に自ら指を噛ませるなんて、狂気の沙汰だ。その常識と僕の口から出てきた言葉は、うらはらなものだった。
「どうしましょうか。考えておきます」
彼の声に震えた背筋は、驚き、ということにしておこう。
***
いつもより早い時間に目が覚めた。指の傷は、今度こそ跡形もない。その指で自分の唇に触れる。彼の冷たい舌を思い出して、少しぞくりとした。
昨日のことがあったせいか、「夜ごとの調べ」に手が伸びた。今日は短編の気分。フランス人探偵の怪奇事件シリーズをとっくり味わって、「影のない男」を読み終わったところで本を閉じた。
ああ、日が暮れる。彼のところに行く時間だ。
***
僕は珍しく、たったの一ページも本をめくっちゃいない。読みかけの「フォーリング・エンジェル」は鞄の中だ。紅茶の一口も飲んでいない。ましてや、ココアビスケットのひと齧り。
僕は今床にひざまずき、腕を鉄格子の向こうへ差し出し、手を彼に預けている。
どうしてこうなったかというと経緯は至極簡単だ。部屋に入るなり、彼が鉄格子の向こうから晴れやかな笑顔を投げかけてきて、「噛ませてくれ」と一言。僕はちょっとためらったけれど、結局手を差し出した。理由はわからない。自ら毒蛇の口に指を突っ込むようなことを、なんでまた。
彼は僕の手を取ると、いいのかいと尋ねた。僕は答えず眼を伏せた。
親指の根元から手首にかけてのあたりに、熱を伴った痛みが二つ。皮膚を破って沈みこんでくる冷たい柱が二本。
熱い。
手首から先が、溶けてしまいそうだ。
僕は我知らず鉄格子に捕まって体を支え、いつの間にか眼を閉じていた。苦しそうな喘ぎが聞こえると思ったらどうやらそれは僕の声らしい。
彼の牙が抜けるまで、ほんの数秒か、五分もかかったのか、さっぱりだ。傷口を幾度か舐められた。背筋がぞくぞくする。
御馳走様、美味しかった。彼の声。手を放された僕はずるずると床に延びた。抵抗できない脱力感。少し、汗をかいていた。黙っていたら涼しすぎるくらいの室温なのに。鉛になったように思い手を視界に入るよう引きずると、やはり薄紅色の、針で突いたような跡が二つ。きっと明日には、跡形もなく消えてしまうのだろう。
「初めてだろうからね。辛いかい」
僕は床に転がったままうなずいた。今のままじゃ立てそうにない。そんなに持っていかれただろうか。「はじめて」だからかもしれない。昨夜の出来事は物の数に入っていないのだろう。
「私がこんなでなかったら、部屋まで運んで行ってやるのだが」
勿論お姫様抱っこでね、という彼の笑い声が降ってくる。彼は今の僕同様立つこともできないんだっけか。半ば忘れかけていたその事実がじんわりと浮かんでくる。頭に霧がかかったようだ。下手をしたら、このまま眠ってしまいそう。
「明日で、7日か……」
彼の呟きも上の空。もう、何も、考えら れ な
***
どうやら本当に寝てしまったらしい。あちこち痛い。目の前、檻の中では彼が死んだように眠っている。起こさないようにしないと。僕はなるべく音をたてないように部屋を出た。
***
夜が近づくにつれて僕は落ち着きを失っていった。彼の言葉のせいだ。もう今日しかないんだ。今日で以前の生活に戻ることができるんだ。喜ぶべきだ。嬉しいはずだ。でも。なのに。これっぽっちも、嬉しくない。
僕の手に、もう傷は残っていない。それが妙に寂しかった。傷があったなんて思えない肌を見て、僕はため息をついた。
間もなく、最後の夜が来る。
***
彼は明日の正午に首を落とされる。そういう手はずになっている。古風なギロチンで、ざっくりと。ばっさりと。彼の痩せた首に、ギロチンの刃が落ちてくる瞬間を夢想する。自分の首が叩き落とされるような錯覚。
暗い気分だ。それでも紅茶の入った魔法瓶とサブレの箱は持っていく。本は持たない。残された一晩、できる限り、彼の近くに。
扉を開けると、檻の中に彼はいなかった。
もしや処刑の日付が早まったか。それとも僕の記憶違いだったのか。じんわりといやな汗が浮く。だが、何かがおかしかった。
銀色に光る鎖の群れが床に幾筋も這っている。よく見ればどれもこれも、引きちぎられたようだ。接続部分が完膚なきまでに破壊された手錠を見て、僕の期待は確信に変わった。
彼は逃げ出したんだ、ここから。鎖をものともせず、檻をすり抜けて。
もしかしたら最初から、彼は逃げようと思えばいつでも逃げられたんじゃないだろうか。そして僕を、僕たちを、からかって遊んでいたんだ。僕は自然と微笑んでいた。やはり彼は、人間なんかの手に負えるものじゃなかった。そうとも、すがすがしいくらいに。
彼の悪ふざけに、僕は乗せられたってわけだ。
それなら、さよならも言わずにいなくなってしまったのも仕方ない。いや、看守に別れを告げて出ていく囚人がどこにいるというんだ。
大事なものを無くした時に似た感傷に沈んでいく僕を、後ろから抱き締める腕があった。
驚いた。声も出ないほど。
息をのむ僕の予想していたより上の方から、押し殺したくつくつという笑いが降ってきた。片腕が腰を離れ、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。背面にぴたりと押し付けられた体にぬくもりはない。ただ、しんしんと死者のような冷たさを伝えるのみ。
こわばっていた僕の体は、少しずつ柔らかさを取り戻していった。とりあえず、声が出せるくらいに。
「……戻ってきたんですか」
「君を迎えにね」
すっかり聞きなれた声。笑いを含んだその調子。本当に、彼が、戻ってきた!
思わぬ出来事にあろうことか幸せをかみしめている僕の肩へ彼の手が滑り落ち、続いて前、一番上のボタンにかかった。
「私が何なのかは、もうわかっているのだろ」
ボタンが外される。僕は抵抗しない。
「君が望むなら、連れ去ってあげよう」
もうひとつ。地下室の空気は素肌をさらした首に涼しい。
「望まないなら、忘れさせてあげよう」
首に冷たいものが触れた。見えなくてもわかる、彼の唇だ。血のような、真っ赤な、蠱惑的な。
「どうする?」
心底愉しそうな声と一緒に、冷たい吐息が首にかかった。僕は――
虜囚 猫田芳仁 @CatYoshihito
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