後編

 二月十三日

「……やっちまった」

 インフルエンザである。

 医者に行き、鼻の穴をゴジゴジされた結果がこれである。


 会社に電話して休みをもらったのはいいが、私の軽自動車の中には、でっかい紙袋二つ分の義理チョコが置いてある。


一応会社の経費だからと

「ゲホッ! ……チョコはどうじまじょう?」

『ん~! どうしよう? 社長に聞いてみるね』

 メロディのあとに聞こえてきたのは社長の声だった。


『そうねぇ……誰か取りに行かせるわ。お大事にね』

 タ○フルのおかげで楽になった夜、メールが入る。アイツからだ。


《社長命令でチョコを取りに行くことになったんだが……インフル大丈夫か?》

 何であいつが来るのよ! でも今日中に渡さないと、いや、あくまで義理の方……だけ?

《あたしの車の中にある。チャイム鳴らしてくれたらキーを渡すから勝手に持っていって》

《わかった》


 すぐにチャイムが鳴る。

 お~~~~~~い! 早すぎだろ!

 酔っ払った私を何度も送ってくれたから、今さらひどい顔や汚部屋おへやを見られても何とも思わないが、インフルが感染うつって会社がパンデミックになったらエライことである。


 マスクをし、鍵を開け、ドア越しに車のキーを渡す。

「キーは……ドアのポストに入れておいて」

「わかった。お大事にな」

 再び布団に潜り込んだ私のスマホにけたたましいベルが鳴る。当然アイツからだ。


「なに?」

『わるいな。車の中に……その……別の袋の、高そうなチョコがあったからな。これはどうしたら……ひょっとして社長用なら明日俺が……」

 もう頭フラフラな自分に理性なんぞある訳がない。


「あ~それあんた用。そのまま持って帰って」

 無言になる電話口。

 なぜかイラっと来た。

 礼ぐらい言えよまったくよぉ!


「……勘違いしないでね! それは義理より下の慰めチョコ! ヘタレなあんたはそれを食べて元気出しなさい!」

『そうか……ありがとう。じゃあ、おやすみなさい』

 優しいアイツの声。営業トークでもない。こんな声出せたんだ。

 

 二月十四日、目覚め

(あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”)

 今さらになって事の重大さに体が締め付けられる。

 インフルエンザだから数日は休めるからいいけど……というか、アイツがあのチョコを食べている姿を想像してさらにもだえる私。


 その夜、もっとも会いたくない人間からのメールが飛んできた。

《お見舞いしてもいいか?》

 もうどうにでもなれだ!

《手ぶらなら即! 塩をまく!》


 すぐさまチャイムが鳴り、鍵を開け、チェーンを外す。

 ドアの隙間から覗いたのは、マスクをしたアイツの顔と、ずっと行きたかったケーキ屋の箱だった。


”許す!”


と心の中で呟き、アイツを寝室件居間のワンルームに入れる。


 テーブルに置かれた箱の中は、こぢんまりとしたまぁるいチョコケーキだった。

「よく買えたね。予約したの?」

「ん? 知らないのか? ここのパティシェさんって総務部の……」

 ここで出てくるお局様の名前。

 あの女、既婚者なのかよ! なんだあの絵に描いたようなお局様っぷりは! 欲求不満かよ!


「じゃあ、この時期やクリスマスに休むのって……」

「ああ、売り子のお手伝いをしているんだ。今日もばっちり顔を見られちまった」

 

 休み明け、めんどくさいことになりそうだが、そんなことを考えるよりまずケーキだ! 

 さっそく一口。

「うまいか?」

「うん!」

 何か餌付けされているみたいだが、そんなことは気にしない。


「じゃあ俺も頂きます」

 そう言うとアイツはアタシがあげたセレブチョコの封を開けると、マスクをはずし、一つ口に含んだ。


「おいしい?」

「おう」

 バカップルである。

 もういい! とことんバカップルになりきってやる!

 だって、その為のチョコケーキでありセレブチョコである!


「お前もこれ、食べるか?」

「うん! あ~~ん」

「でかい口だな。もう少し閉じろよ」

「うふひゃいな」


 わずかに口を開けた私の中へ、チョコが入ってくる。彼の唇でフタをして……。

 ベタだ……。って言うか、もしチョコが喉に詰まったらどうするんだよ! ヲイ!

 二人で舐めあうチョコと舌。サクランボのヘタですら結べそうである。


「……汗かいた」

「んじゃ拭いてやるよ」

「……変態! ウジ虫!」


 それが私の最後の言葉だった。いや、死んでないけど。

 それから彼は私の汗を拭いてくれた。タオルではなく、自分の体で。

 それでも湧き出てくる私の汗。

 それを彼は何度も何度も、私の体の外も、

 そして中も……。

 

 最初は優しく、そして一生懸命に、最後には激しく拭いてくれた。


 彼も沢山汗をかいた。まるで苦しそうに、体中から絞り出すように……。

 でも気持ちいいと耳元でささやいてくれた。

 昨日、電話で聞いたあの優しい声で、何回も何回も……。


 二月十四日が終わる最後の瞬間、私が目にしたのは首元から一本だけ伸びた、彼の無精髭だった……。

  

 二月十五日朝。すでに彼はいない。

「ヤ○逃げかよ……」

 再び枕に顔を埋める。男臭い。股が痛い。お腹すいた。

 でもそれ以上の充実感が私の体を満たす。

「インフルエンザ……様々かな?」


 数日後。インフルエンザの診断書を持って総務部へ行く。

「お体はもう大丈夫?」

「はい! ご心配をおかけしました」

 お局様から人生の先輩へと昇格した女性に向かって、私は深々と頭を下げる。


「ケーキは美味しかったかしら?」

「ええ! それはもう! ……あっ!」

 慌てて口を押さえる。

 さすが人生の先輩、一枚も二枚も上手である。

「そう、彼もがんばったのね。いろいろと……」


 普段、彼は営業で外に出ている為、会社内でも会うことはあまりない。

 ヤ○逃げされたことで今さら気になるアイツという訳ではない。


 しかしその日、なぜか会社内で私を見る眼が違った。

 インフルになって痩せた訳ではない。そりゃあ多少、”運動”もしたけど……。

 その理由を女社長が話してくれた。


「彼、この前のプレゼンでライバル会社に油揚げをさらわれたからね。罰ゲームとしてバレンタインの日、義理チョコを彼の手から男性陣に配ったのよ」

 この女社長、鬼である。

 もっとも、そうでなきゃ女社長なんてやっていられない。


「外回りや出張、休みの人間には、彼が書いた手紙を同封して机の上に置いておいたわ。次の日、阿鼻叫喚が会社中に吹き荒れたわね」

 見てみたい気もするが、休みでよかったと胸をなで下ろす。

 いや、そもそも私がインフルにかかったからそうなったとも言えるが……。


「ホモやゲイ疑惑まで飛び交ったけど、彼も男を見せたわね。


『今、貴女とつきあっている!』って盛大にぶっちゃけたわ」


 ……ヲイ! 私が休んでいる間に、ヤ○逃げ野郎がなんか言ったみたいだが。


「それ……今初めて聞きました」

「え? あら! だって彼もインフルにかかったからてっきり……」

 いや、まぁ、その……確かに思い当たることは多々ありましたがね……って彼もインフルにかかったのかよ!

まぁいいや。今夜にでも“アイツ”を締め上げて白黒はっきりさせよう。


「でもまぁ、あんまり女性陣にバレンタインの負担を掛けるのもアレだし、そうねぇ、来年から始末書の数が一番多い男性社員が義理チョコを配る事にしようかしら……ウフフ」


 女豹のようなしなやかな声が、女社長の妖しい唇からこぼれ落ちた。


                     ―― 完 ――  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インフルエンザの功名 宇枝一夫 @kazuoueda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ