通りゃんせ

「最終工程準備完了、だね。三月のタイミングで――いって」

 何も置かれていない広いだけの会議室には、三月と慈姑だけだった。

 黒沢のツイートは即座にネットニュースになり、あっという間に広まった。世間では正体の見えない日本妖怪愛護協会という組織が、即物的な敵とみなされた。先日のイベントで黒沢が警察に連行されたという目撃情報――そして現在消息不明であるという事実が、さらに信憑性を高めていた。

 だがその風潮とは正反対に、日本妖怪愛護協会には一部の界隈だけからのみ、多くの支持が寄せられていた。

 こちらから連絡を入れるより早く、十塚が招聘を打診し、断られた時に伝えた連絡用のメールアドレスに、怒涛のようにメールが殺到した。それらは全て、日本妖怪愛護協会に協力したいという旨のものだった。

 少佐の読みは当たっていた。単純な信用のなさゆえではなく、皆、彼らから見た常軌を逸した言動や著述からすでに何かを感じ取っていた。

 それに加えて日本妖怪愛護協会は、騒動直後から彼らに直接協力を打診している。その前提があれば、日本妖怪愛護協会がいかに重要な位置を占めるかがすんなり理解できたはずだ。

 よって、協力を申し込むことは簡単だった。空亡の設定資料を送り、これを一笑に付さず、真剣に考察し、意見を出してほしいと求めた。

 山住がかき集めた見鬼と特捜で保護していた見鬼は老若男女さまざまだったが、とにかくその日の内に三十人が集まった。当然全く事情を呑み込めていないようだったが、山住が信頼に足るかの選別も兼ねて全力で言い含めると、全員から渋々協力すると同意を得られた。山住はほかの見鬼が自分が引きずり上げられた視座にいかないよう、最大限の注意を払っていた。その努力はそのまま、熱意として受け取られたようだった。

 六人ずつ五つのグループに分けて別室に入ってもらい、五つにパート分けされた空亡の設定を渡す。それを読み込んでもらっている間に、三月がなんでもない世間話をして回った。わずかでも精神的接触をしておく――それが三月という投影機に繋がるケーブルになる。

 そして先刻、五つのグループそれぞれが提示した設定をそらで言える状態になったことを確認し、三月がこの会議室に入ると、妖怪関係者から大量の返答が返ってきたことを伝えに慈姑が入ってきた。

「ねえ慈姑」

「なに?」

 準備ができた――そう告げても、慈姑は急かすことはない。

「ここにいて大丈夫なの? その――アレが出てきたら、えらいことになるかもしれないし」

「だからだよ。三月の盾代わりくらいにはなろうと思っただけ」

「冗談?」

「うん」

 やっぱりかと三月は笑う。慈姑は命を賭してまで三月を守らないという意味――ではない。慈姑は確信しているのだ。今から起こることが安全かつ、必ず事態を好転させると。

 それはつまり、ただ慈姑が理由もなく三月のそばにいたいだけということなのだが、そんなことを口に出す慈姑ではない。三月を信じると堂々と宣言したくせに、そうした個人的な感情は表に出したがらない。

 慈姑はどこまでいっても、三月の知っている慈姑だ。たとえ世界が終わろうが、慈姑は慈姑のまま死んでいく。それを確認できただけで、三月には充分だった。

「じゃあ――いくか」

 慈姑が頷き、三月は大きく息を吸って吐く。

 三月が果たすべき役割は投影機。今この場に集まった数多の空亡への意見書を基盤として、見鬼というサーキットへ空亡の想念を流す。ここまでは完了した。あとはそれを現実へと出力させる最終工程――それは、至極単純だ。

「空亡」

 三月は大きくも小さくもない、それまでの慈姑との会話と同じトーンで、そう口にした。

 同時に、会議室のドアが開く。

「お疲れ様。成功だよ。うん、実にいい」

 ドアを開けて入ってきたのは、かぶきり小僧だった。だがその声、口調から、即座に今喋っている相手がなんなのか見抜く。

「〈妖怪ばけもの〉――」

 自身に感染したかぶきり小僧をアバターとして使っている、ミームファージ。

「ありがとう三月。君に感染できたことで、僕はどうやら目的を果たせそうだ」

 満足げに頬を緩める〈妖怪ばけもの〉に、三月は静かに訊ねる。

「私が投影機だって、やっぱり知ってたの?」

「当たり前じゃないか。でも聞かれなかったからね。言わなかった」

 随分と都合のいいことを言う。最初から三月を狙っていたくせに、そんな素振りはおくびにも出さなかった。

「でも、私たちに協力してくれるんでしょ?」

「協力したよ。空亡はどうかと提案させてもらったしね。いいアイデアだっただろう」

 三月はそこで絶句する。

 慈姑を見つめ、恐る恐るその目を覗き込む。

 空亡の名前を最初に出したのは、慈姑だ。

 慈姑は普段通りの覇気のない顔で、溜め息を吐く。

「大丈夫だよ。僕は感染していない。ただ、昨日の夜、〈妖怪ばけもの〉がかぶきり小僧を使って僕に接触を図ってきた。その時に空亡の名前を出されて、僕はそれを採用した」

 ただ――慈姑は倦み疲れたような声で続ける。

「〈妖怪ばけもの〉の目的への協力も請け負った」

「目的って――〈モノ〉に汚染された妖怪を元に戻すことでしょ?」

「ミームファージ――その意味を、本質を考えれば、最初から答えは出てる」

 三月は信じられない思いで慈姑を見る。

「そのために生み出したのが、全てを終わらせる最強の妖怪」

「その通り。三月を介して生み出されたのなら、それはすなわち僕のアバターとして使えるからね」

 そうだ――そのことを完全に失念していた。三月はミームファージに感染している。その三月が接触した妖怪に、〈妖怪ばけもの〉は感染できる。本来ならその事実を真っ先に指摘するはずの慈姑は、沈黙を貫いていた。もっと冷静に状況を見ていれば、この明らかな異変に気づけたはずだった――三月は唇を噛み締める。

「時間もちょうどよく逢魔時だ。どうやら、もう始まっているようだね」

 この会議室の中からでもわかった。外から騒ぎ声が聞こえてくる。

「鬼島さん! 外が!」

 咲が青い顔をして駆け込んでくる。三月が〈妖怪ばけもの〉を見ると、どうぞとばかりに手で促された。

 咲と一緒に外に駆け出す。ほかのメンバーや集められた見鬼たちも全員外に出ていた。そこに広がる光景に、三月は言葉を失った。

 妖怪だ。

 凄まじい数の妖怪が、行進をしている。

 基本は空の高いところを浮かんでぞろぞろと歩いているのだが、地上にもかなりの数の妖怪が列をなしている。当然それを見て、あるいは触れられて、市民は悲鳴や怒号を上げている。とんでもない混沌の極みだった。

「これって――」

 文字通り、そのものずばり――。

「百鬼夜行だよ」

 いつの間にか隣に立っていた慈姑が、三月に答える。

「空亡はそもそもが百鬼夜行絵巻のラストを飾る火の玉だ。百鬼夜行が終わる時に現れる――なら、空亡が現れるという条件を作ってしまえば、因果は逆転してまず百鬼夜行が始まる」

「大変なことになってる――この百鬼夜行、日本全土を縦断してます!」

 少佐がスマートフォンを凄まじい勢いで操作しながら叫ぶ。

「どういうこと――これで日本を滅ぼす気?」

「なんでそうなるかなあ。妖怪は国を滅ぼしたりなんてできないよ。それは〈モノ〉の領分だ。妖怪は弱い。百鬼をなそうがそれはどうやっても変わらないよ」

 そのまま繰り広げられる百鬼夜行を呆然と眺めていると、あることに気づく。

 怖くない。

 そう、どれだけ妖怪を見ようが、そこから得られる感情に、恐怖というものがまるで含まれていないのだ。

 妖怪たちはわいわいがやがや騒ぎながら、素っ頓狂な踊りや笑い声を響かせてどこまでも行進する。

 それを見ていると、不気味だとか汚らわしいだとかいう感情は早々に消えてなくなってしまう。

 悲鳴も怒号もいつの間にか消えていた。

 皆が――この国全体が、気づきだす。

「あ、馬鹿だ」

 そう――一旦気づいてしまえば、もうどこからどう見ても、この行列は馬鹿の極みなのである。

 まず第一に、妖怪というのはそもそもが異装である。常時では決して目にすることのない、奇っ怪で間抜けな恰好――それだけでその空間が盛り上がるのは必至なのだ。

 そしてその行動が、とにもかくにも馬鹿だった。

 一反木綿はその布の身体を絞った雑巾のようにツイストさせて踊り狂い、鎌鼬は三匹でトリオを結成してどつき漫才を繰り広げ、おとろしはどしんどしんと地面に落ちる音をベースにボイスパーカッションを披露する。

 朧車に片輪車に輪入道はそれぞれに乗り手の妖怪を見繕い、本気の妖怪ラリーを開催する。

 河童が通行人に相撲をしかけ、何人もの強者がそれに応じるのはまだ序の口。

 百々爺は堂々たる仁王立ちで、聞く者を惚れさせてしまうようないい声を存分に使いネット上の有名なコピペを朗読し、一部から爆笑を引き起こしている。

 飛縁魔は三味長老や琵琶牧々や木魚達摩といった楽器系の妖怪の奏でるエモーショナルなビートに乗り、フリースタイルラップで通行人と壮絶なディスり合いを繰り広げる。相手の女性は相当な腕前らしく、飛縁魔の名前を聞くと即座に丙午の迷信のせいでその年だけ出生率が下がることへの批判を食らわせ、それに負けじと飛縁魔は迷信をいつまでも信じている頭の悪さと、それへ同調する芯のなさを痛烈に批判した。

 そして斧を持ったかぶきり小僧までもが、その斧をギターに見立ててエアギターのパフォーマンスで観客を湧かせていた。もはやこの妖怪が人々を襲っていたことなど、この馬鹿騒ぎの中では関係がないようだった。

 これが――日本中で起きている。

 騒音や交通の麻痺といった問題は、早々に忘れ去られた。そんなことにかまけているよりも、この狂乱の中に飛び込んだほうが得策だと即座に理解できてしまうのだ。

「妖怪は馬鹿だ」

 笑声と歓声ばかりが広がる光景を見ながら、慈姑が呟く。

「馬鹿は好きなように言い換えていい。余裕、娯楽、アソビ――。〈モノ〉が妖怪を汚染できたのは、ひとえに妖怪が馬鹿だという認識ができなくなっていったことからなんだと思う。妖怪は存在しない――それゆえに、妖怪を楽しむことができる。存在しないという大前提の上で、ないものをあるものと扱うことで楽しむ。この虚実の被膜が認識できなくなってきていたんだ。ネタをネタとして楽しむことをせず、妖怪を真面目な顔をして否定するくせに、自分に都合のいい嘘だけは肯定する。その考え方はとろけるように甘い。それを知っている自分こそが優位に立っている――ほかの人間は全員愚かだと切って捨てることができてしまう。そしてそれはやがて、隔てられた虚実をないまぜにしていく」

「だから――溢れさせた?」

「うん。それならもう、妖怪を溢れさせて、その馬鹿さ加減を知らしめてしまったほうが手っ取り早い。全員が全員、妖怪は馬鹿なんだと認識してしまえば、そこにはもう〈モノ〉のつけ込む隙はなくなる」

「待ってください。この先に待つのが空亡――日の出ということは、この妖怪は全て――」

 少佐の質問に慈姑は答えない。三月がそれを引き継いでどうなるのかと訊ねると、何事もなかったかのように答えた。

「消える」

「それが――〈妖怪ばけもの〉の狙いか」

 妖怪というミームを食らい尽くす。それこそがミームファージの本質。〈妖怪ばけもの〉もそこは変わらない。

「なんで――慈姑。慈姑は、妖怪が好きなはずでしょ? それを消すって――」

「メタ視点に至るということは、本来到底耐えられることじゃないんだよ」

 百鬼夜行に加わらず、外からそれを眺めるかぶきり小僧――その像を使っている〈妖怪ばけもの〉は、さも慈姑の一番の理解者であるかのように、三月に言い含める。

「妖怪が存在しないと確信しながら、妖怪の存在を認める。そんな絶えず回り続ける矛盾は、どうあっても一人の人間の中に収まる容量じゃない。慈姑は今まで、全身を消えない炎で炙られ続けてきたようなものなんだよ。妖怪が存在しないという前提のまま生きていられたらどれだけ楽か――慈姑はそう思い続けてきた。それを実現させるための誘いに乗せるのは簡単だ」

「あまり、ヒトをなめるなよ。ミームファージ」

 慈姑は、毅然とそう言い放つ。

「僕がこの視座に至ったのは、ただ三月を信じてきたからだ。三月が視たというのなら、それを認めることがどれだけの苦痛でも、僕は信じる。僕はとっくの昔にこの地獄の中で生き続けることを選んだんだ。そこにどんな救いの手を差し伸べられようと、それを取ることは絶対にない。僕が三月を否定することは、絶対にないから」

「まあ、そうだろうね」

 そうして〈妖怪ばけもの〉は照れるように笑った。

「いや、僕がヒトの感情も理解できない情報の流れだなんて思われていたのなら心外だよ。そもそもがヒトの生みだした妖怪というミームに寄生しているわけだし、三月の中で君をアバターとして使ってから、君と三月の関係はいやというほど理解している。となるとやはり、僕と君は同じ前提に立っていたにも関わらず、互いを騙しているように見せかけていたということか。全く馬鹿だなあ」

「いや、正解だったと思うよ。僕は三月を感染させたお前を信用していない。そこに妖怪を救うだなんてお題目を唱えられても、お前の提案には乗らなかった。僕を誤解したように見せかけて、妖怪を消し去るために協力しろと迫られたからこそ、僕はこの前提の上でお前に協力するふりをした。ただ、一応謝るよ〈妖怪ばけもの〉。僕はお前を自分の利しか見ていない、妖怪の本質が見えていないミームファージだと思っていた。お前が妖怪に寄生しているという時点で、気づくべきだったね」

 どういうことだと三月が頭をこんがらがらせていると、路上でひときわ大きな歓声が上がった。

 少佐が素早く、有名なロックバンドのボーカルが、アコースティックギター一本で皇居前に現れたと情報を伝える。

 この状況で、ゲリラライブを行う気らしい。もう日本中どこもかしこもゲリラライブ状態のような気もするが、お祭り騒ぎに身体が勝手に動いてしまったということだろう。

 そして、この状況に最も相応しい大合唱が始まった。金沢が目を潤ませ、ハチ公前の時の再現です――と感極まった声で漏らす。

 誰もが知るその曲。街中にその合唱が届いていた。そして三番のクライマックスで、慈姑と〈妖怪ばけもの〉が、同時に叫ぶ。

「お化けは死なない」

 そうか――そういうことなのか。

「そうなんだよ。空亡が火の玉なのは、要は夜明けのことなんだ。逢魔時に百魅が生じて、夜明けとともに消え去る。でもそれは結局、自然の流れでしかない。出やすい時に出て、お呼びでないと察すれば消える。これはただ、その自然のサイクルをとんでもなく馬鹿でかくしただけの、一夜の夢だ」

「その通り。正直、妖怪というのはもう僕に食らい尽くせるような代物じゃないんだ。だって、お化けは死なないんだから。滅ぼそうとしても滅ぼせるわけがない。僕は妖怪に恭順した。〈モノ〉はミームファージであろうとした。あいつとの一番の違いはそこかな。実際、〈モノ〉のやり方には舌を巻いたよ。はっきり言って僕だけじゃ勝ち目はなかった。妖怪を内側から食い破ろうとしたんだから、全く慧眼だよ」

 三月を見てから、どこまでも広がる馬鹿の饗宴に目を細める〈妖怪ばけもの〉。

「でも、こうして始まった百鬼夜行という大きな流れに呑み込まれれば、〈モノ〉に汚染されたことなどどうでもよくなる。というより、〈モノ〉に汚染されていようが、それすらもよしと受け容れられてしまう。見なよあの馬鹿な連中を。ああ、本当に、馬鹿というのはいいものだなあ。そして、妖怪はあるべき姿に還り――人々は思い知る」

 妖怪は馬鹿だと、身をもって理解できてしまう。こんなものを見せられたあとで妖怪憎しなどと言えば、笑い飛ばされてしまうだけだ。

 馬鹿――あるいは無数にあるその言い換えは、決して忘れてはならない、生きていく上で絶対に必要なものである。しかしそれにずぶずぶと浸かっていてばかりでは悲しいが立ち行かない。それを、この一夜だけの夢で思い知らされる。

「そういうわけで、これから妖怪は次のフェーズに移行する」

 慈姑はそれを聞くと、やっぱりかと苦笑する。

「お前の狙いは最初からそれか。火事場泥棒もいいとこだよ」

「どういうこと?」

 三月が訊くと、穏やかに笑う〈妖怪ばけもの〉に促され、慈姑が話し始める。

「妖怪という概念が大衆文化として地に落ち、芽を出し、初めて実を結んだのは、江戸時代後期辺りになる。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』シリーズが出て、黄表紙が一般的に広まり、妖怪はキャラクターグッズとして扱われるようになる。浮世絵に描かれ、ペーパクラフトのように遊ぶおもちゃ絵や、双六やカルタとしても人気になっていく。当然、江戸の人間はみんな妖怪が存在するなんて信じてはいなかった。野暮と化物は箱根から先――ないものは金と化物――下戸と化物はなし――妖怪はいないという大前提の上で、人々は妖怪を楽しんでいた」

 どこか懐かしむような目をして、〈妖怪ばけもの〉は慈姑の話を聞いている。

「でも、文明開化やら戦争やらを経ていく内に、いつの間にか妖怪はいてもおかしくないものになっていた。『ない』という前提条件が通用しづらくなっていってしまったと言ってもいい。そうすると、自然と妖怪を十全に楽しむことができる層が定まっていってしまう。僕が言った、保全層がこれだ。妖怪という大雑把な概念の共有が全体でできていて、妖怪のことを楽しむことができる人たちがいるからこそ、妖怪は像を成す。でも本来は、層に分けて考えるっていうことは、酷く不健全なことなんだ。それはやがて互いの乖離と侮蔑を引き起こす。妖怪を楽しむということに、本来貴賤や優劣はないはずなんだ。その乖離に、〈モノ〉はつけ込んだ」

 妖怪を本当に楽しむことのできる保全層は、いくら拡張層や基底層が間違っていこうが、所詮は自分たちには関係がないと割り切る――あるいは、それすらも一歩引いた視点で観測しようとしてしまう。隔絶された層は歪みを拡大させていく。全員が、同じ妖怪という概念の上に立っているというのに。

「ならもういっそ、妖怪を溢れさせた一夜を作り、全員が全員、妖怪を楽しむということを理解してしまえばいい。別に同じ感情を持つ必要はないんだ。馬鹿でも阿呆でも間抜けでも楽しいでも面白いでも汚いでも気持ち悪いでもなんでもいい。全員が同じ方向を見るんじゃ押しつけもいいところだからね。ただ、妖怪という前提に、この一夜があったという認識さえ植えつけられれば――この国の妖怪への想いは変わっていく。存在するしないなんてことはもうどうでもいい。ただ、妖怪というものがあるという前提のもとで、それぞれがそれぞれに好き勝手やっていくことができるようになれば――それでいい」

 それが慈姑の願いなのか。そして何も言わずにただ慈姑に話させる〈妖怪ばけもの〉の目的――慈姑と〈妖怪ばけもの〉の予見は一致していた。だがその至るべき場所は、本当に同じなのか。

「うん。僕も目下のところは同じ意見だよ。まず第一に、〈モノ〉の企みを粉砕する。それを成すには慈姑の目指す――今から始まるフェーズへの移行が一番だろう。妖怪のシステムを転換する。それを繰り返した先を、僕は野次馬として眺めていたい」

 江戸時代に妖怪なんていなかった――笑いながら、〈妖怪ばけもの〉は話す。

「それが妖怪が非存在であることが明白となり、妖怪という共通認識が機能しだしたら、妖怪は実在化を始めた。実は妖怪がこうして妖怪らしく現れるようになったのは、そんなに昔のことじゃないんだ。この時代――妖怪を受容できるぎりぎりのラインに踏みとどまった綱渡りのような状態で、妖怪はその存在を現した。その転換点が、この夜というわけだね。いや、きっと好転するよ。妖怪があるという前提――未だかつてないその前提の上で、人間がどうあがくのか、本当に楽しみだ」

 そう急く必要もないと、〈妖怪ばけもの〉は欠伸をかます。

「鳥山石燕から水木しげるまで、僕は百三十四年待たされたんだ。その間にパラダイムシフトが一回起こっているほどだよ。水木しげるがその役目を終えて、まだたったの四年しか経っていない。これだけ情報が残存する時代だ。あと百年か、二百年か。妖怪という概念そのものを変えてしまうような転換点が来るまで、僕はのんびり流れていくだけだよ」

 このミームファージは、その本質を完全に放棄したわけではない。ただ、本当に妖怪が滅び去ってしまう時まで、気長に構えるだけの余裕を持っている。要するに、根本的には馬鹿なのだ。

 無秩序だというのに、暴動ではない。暴力もトラブルも起きない、なんとも平和な馬鹿騒ぎは続いた。三月たちは桜田門に座って、警視庁の前で警察官も関係なく加わる行進を眺めていた。

 十塚は慈姑と〈妖怪ばけもの〉の話を聞いた時点で、この騒ぎに水を差さないようにと、内閣官房に釘を刺しておくことを忘れなかった。それが幸いしたかは定かではないが、公僕だろうとこの騒ぎに乗っかっている。

「長き世の」

 慈姑がひとりごちる。すでに深夜を回っている。街は未だ大騒ぎだが、少佐や咲たちは、笑いながら庁舎の中に戻って眠りに着いた。恐らく家の中では多くの人が同じ行動をとっている。

「遠の眠りの」

 やがて空は白み始める。その先に現れるものこそ、三月たちが苦心して作り出し、まんまと〈妖怪ばけもの〉に乗っ取られた――日の出。

「みな目覚め」

 夜が――明ける。

「波乗り船の音のよきかな」

 妖怪は皆、とても楽しそうに暁へと消えていった。それまでの騒ぎが嘘のように、辺りは夜明けの静寂に包まれている。

 かぶきり小僧も――つまりはその像を使う〈妖怪ばけもの〉も消えている。

「三月、左目」

 慈姑に言われて、三月は左目を限界まで見開く。ただ、何も起こらない。

「約束は守ったか。非礼は詫びたけど、礼は言わないよ」

「え? なに? どういうこと?」

 三月が首を傾げると、慈姑は小さく笑って立ち上がる。

「僕が〈妖怪ばけもの〉に協力する時、条件を出したんだ。まあ、騙し合ったつもりになってたのに、結局は最初からどっちも同じ目的だったんで、交渉材料としてはそんなに価値は持たなかったけど」

 欠伸をしてから伸びをして、早朝の空気を吸い込む。

「これが終わったら、三月の中から出ていくこと。それだけだよ」

 言われて自分の身体を確かめる。一目連の突風は起こらないし、足洗い屋敷は上から落ちてこない。どうやら三月の身体を構成した妖怪というのは、すなわちミームファージの力だったようだ。それで十塚と山住の呪術が効かなかった黒沢に干渉できたことに説明がつく。

「人間に――」

「戻れたなんて言わないでよ。おじさんも言ってたでしょ。三月はずっと人間だよ。ただ、ミームファージに感染したままじゃ、いつ身体を乗っ取られるかもわからない。〈妖怪ばけもの〉は〈モノ〉のようなことをしないにしても、間違えて三月をクラッシュさせる可能性がなかったわけじゃない」

 そんな馬鹿なと笑うが、馬鹿だからねと返された。それもそうだとまた笑う。

 別段、変わったとわかるようなことはない。〈妖怪ばけもの〉も、〈モノ〉ですら、消えたわけではないのだし、無論妖怪という存在が消えてしまったわけでもない。

 全てが解決したなどと宣言することはできない。ミームファージがいる限り、いつだって危機はすぐそばにある。実際に妖怪による被害者や、黒沢という人死にすら出ているし、〈モノ〉はその気になればもっと多くの死人の山を作れるだろう。

 それでも、この夜明けはそんな懸念も何も、全て晴れ渡らせてくれるようだった。気まぐれでも徹夜明けの妙なテンションのせいでも、構いはしない。結局は――。

「いい夢だった」

 慈姑の言葉に、三月は笑って同意する。

 それでいい。三月はビルの隙間からなんとか地平線を見ることのできる角度を探し出す。

 巨大な火の玉が、その威容を現していた。

 それは結局、ただの太陽だったのだけれど。

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スペクタークラフト 久佐馬野景 @nokagekusaba

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