墜として割って

一匹羊。

勇気を問う。

「問おう、君の勇気を」

 ——何故僕は、取引先の店長にこんなことを聞かれているのだろう。


 人は社長と言われてどんな人間を想像するだろうか。多分妙にオーラがあり良い食事をとっているのだろうなと一目でわかる体つきをした壮年の男性だろう。しかし今僕の目の前で尊大に長い脚を組む城之内花蓮と名乗った店長……女性は、ともすれば少女と呼んでも遜色ない小柄な体型をしていた。しているのに、妙にその、胸囲が豊かでいらっしゃるから僕は目線に困って、下を向きながら「勇気と申しますと」と精一杯の声量で答えた。

 城之内さんは桃色に染めてパーマをかけた髪をかきあげる。その仕草に何故かわずかな既視感を覚えながらも、僕は彼女の瞳を見つめるよう心掛けた。透き通ったブラウンが美しくってなんだかまた動悸がしてくる。クソ、どこを見ればいいんだ。


「分からない奴だな、君は。おうむ返しのその態度こそが相互理解を拒否している。つまり、積極性に欠けているんだよ。えてして営業というのは人当たりの良さではなく、積極性、即ち勇気だ。それから、熱意」


 自分でも自覚している、自分に勇気が足りないことは。それでも人──それも初対面の美しい女性に──に指摘されるだなんて思ってなかったから、かなり凹んだ。僕は平々凡々な男だ。自覚している。まず容姿に特徴がない。いわゆる塩顔だ。細身で小柄で、行動力もない。唯一勉強だけは出来たから大学はいいところに入れたが、そこでも人の役に立った記憶がない。女友達(滅多にできないが)には「なあんか友達にはいいんだけど、冴えないんだよね」と面と向かって言われたから、勇気以上に甲斐性もないのだろう。自分に対するコンプレックスは積もるばかりだ。なんとか営業マンになってからの初仕事は先輩の引き継ぎだった。なんでもこの店に先輩は長年通いつめたらしいが、遂に門前払いを食らうようになったらしい。追い払われるようになった店で契約を取ってこいとは、新人には辛口の配置だ。僕にこんな仕事、成し遂げられるわけがない——。

 そう思いながら訪問した店で、店長が開口一番発した言葉がそれだった。問おう、君の勇気を。


「君、聞いているかい」

「あ、はい。勿論です」

「その顔だと聞いていないな。私は嘘が嫌いだ。以後気をつけろ。いいかい、本来営業とはサーヴィスなんだ」


 さーゔぃす、と僕は繰り返す。妙に発音がいい。帰国子女か何かかと勘繰ってしまうほど。と、また頭の片隅で既視感が自己主張した。しかしそれよりも、彼女の言った内容が気になった。


「営業が奉仕、でしょうか」


「無論」彼女は鷹揚に頷く。自分の考えを微塵も疑っていない、そんな態度だった。


「どうすれば客の利益が上がるか考え、アポイントメント、プレゼンテーションと奮戦し、契約を取り付けたら定期的なアフターケア。相手の幸せをも心から願わずしてどうして成功する」


 上司からは商品の性能を盛ってでも契約を取り付けるように、としか言われていなかった僕にとってその言葉は酷く新鮮で、うつくしかった。営業とは同僚を蹴落とし、言葉巧みに客先を拐かすことだと思っていた。その価値観が一変するようだった。


「青天の霹靂、といったカオだな」

「自分の……価値観が狭かったのだと、痛感しました」

「気付けばいい。君の前の担当は酷かった。自社の利益……いや、自分の手柄しか見えていないのが透けて見えた。君に言ったことをそいつにも言ってやったんだがな、どうも頭が足りないらしく『で? 契約するのかしないのか』ときた。だからもう話を聞かないことにした」


 ふう、と椅子に深く腰掛け直し彼女は言う。


「私は無駄が嫌いだ」


 その瞬間全てのピースが当てはまった気がした。可憐な顔立ちに尊大な物言い、髪をかきあげる癖、流暢な英語。そして口癖の「私は無駄が嫌いだ」。鼻腔に甦るのは古い紙と木の匂い。口調は違えど、確かに彼女だ。


「……レンさん?」


 そう僕が恐る恐る問い掛けると、城之内花蓮店長……いや、レンさんはくすりと色っぽい笑みを漏らした。心臓に悪い。


「やっと気付いたか、タマ」


 ✳︎


 城之内花蓮は中学生時代、みんなのアイドルだった。その噂は二学年下の僕の耳にも届くほどだった。たとえば、曰く、名家の出身で毎朝高級車が送り迎えしている。曰く、全教科で百点を取った。曰く、大手事務所にスカウトされた。曰く、そんな出自でも使っている物は自分たちと変わらない。曰く、声が美しすぎて声優の道を打診された。曰く、いつでも明朗快活で非の打ち所がない。などなど。枚挙に暇がなかった。

 特に目立ったところのない田舎の学校で、彼女は正しくアイドルだったのだ。そんな彼女がどうして生徒会を辞めて図書委員になったのか。学期はじめの話し合いの教室で、その頃は黒だった長く美しいきらめきを盗み見ながら、僕……平野珠希は密かに興奮していた。僕も彼女の……ファン、だろうか。とにかく憧れていたのだ。流石に彼女が僕と同じ曜日の当番を希望した時には喜びどころでは済まなかったが。もちろんその後、僕らがタマ、レンさんと呼び合うような仲になることなんて、想像もつかなかった。


 ✳︎


「タマ」

「あっはい。聞いてませんでした」

「飲み込みだけは相変わらずいいな。将来性があると言うか、天然だと言うべきか。まあ私は、君のそんなところを好ましく思っているよ」


 まただ。僕はあなたも相変わらずですね、と思ったが、言えなかった。彼女の言葉はいつも率直で、反応に困る。僕には彼女のように言葉を扱えない。選んで選んで、それを綿で包んで保管して、結局腐らせてしまう。僕の胸の内は、腐らせてしまった可哀想な言葉達でいっぱいだ。

 レンさんは黙って立ち上がった。


「時間が押している。私の言いたいことは概ね言ったし、お帰り頂こうか。これでも店長なんだ」


 勇気がなくとも、口下手でも、仕事だ。僕は言葉を絞り出した。


「また、来ます」

「そうだろうな。ああ、また会おう」


 いくら既知の仲だと言えども、彼女を酷く不快にさせた会社の営業に、彼女は何故だか柔らかく笑いかけてくれた。


 ✳︎


 うちの会社は小さなアパレルメーカーだ。元は紡績工場に勤めていた男が自分でもデザインした服を売りたいと一念発起し、立ち上げたもの。主に女性用から手広く服を販売している。社長の手広い人脈を活かし近頃メキメキと業績を伸ばしている会社だ。僕もその将来性に期待して入社した。

 一方、レンさんは二年前、服飾店の激戦区、表参道にオープンした『dame』と言うお店を経営している。フランス語で『淑女』という名の通り、少し背伸びしたような装いをテーマにした品揃えが人気を呼んでいた。


「……資料、少ないな」


 眼精疲労を訴えるこめかみを指圧する。数件の取引相手を訪問した後(門前払いだった)オフィスに戻った僕は、インターネットでレンさんのお店、『dame』について調べていた。上司が全くやり方を教えてくれない以上自分でやり方を考えるしかない。僕には勇気はない。一朝一夕に身につくものでもないだろう。けれど、根気ならば。それなら諦めなければいいだけだ。自分でも不思議なほどやる気の炎が心の中に燃えていた。彼女の店に奉仕したいという真情は振り向かせようと追いかける熱情を盛り上げる。気分は天高く飛ぶ鳥を狙う狩人だ。


 僕は彼女を必ず墜としてみせる。


 『dame』のホームページにはニュース、取扱ブランド、アクセスなどが記されていた。取り敢えず、取扱ブランドに一通り目を通す。人気のブランドから高級ブランド、かと思うとアングラな印象を受けるブランドまで、取り扱う物は様々だ。これは直接品揃えを見て判断するしかないか。と、僕は肩を落とし、続いて『dame』の口コミの閲覧に向かった。


 ✳︎


 青いアンティーク調の扉を押すと、爽やかな薄緑の壁と、真鍮のようなハンガー掛けに下がった色とりどりの洋服達が僕を出迎えた。からん、と控えめな鈴の音が鳴る。僕は再び『dame』を訪ねていた。スーツ姿の僕は店内のお洒落な女子の中では目立つ。そして、一瞬振り向いた数組の瞳が「なんだ、冴えない」と落胆を写し、「ああ仕事か」と無関心を纏って、服に視線を移した。僕は入り口に立っていて、そして自分に言い聞かせる。慣れっこだ。僕には、よくあること。明るく髪を染めた店員二人も僕には近寄ってこない。大方間違えて入って来たのだと思われているのだろう。気にするな、平野珠希。ナンパの為にここに来たわけじゃないだろう。

 近くの服を手に取って物色する。自分にはファッションの詳しいことは分からないが、やはり系統の違う服が取り揃えられていた。僕は、値段とブランドと簡単な感想を手に取ったメモに残していく。漸く壁一枚分が終わるかというところで、カッカッ、と凛とした音が店内に響いた。


「市川さん、店内のどの客にも目を配ってください。ここに一歩足を踏み入れた以上彼もまた顧客となり得るのだから」

「……レンさん」


 柔らかい桃色の髪をかきあげて、ヒールを履いた、凛とした佇まいの彼女がそこにいた。堂々とした敬語は昔を彷彿とさせる。レンさんは僕のメモ帳を見ると、顎をくっとあげて嘲笑する。


「しかしお客様は、どうやら何かをご購入に来た様子ではないようだ。スパイですか?」

「ち、違います! 僕は……」


 僕は、何だろう。何のためにここに来たのだろう。……? 馬鹿なことを考えるな。契約のためだろうが。出世のため。そして彼女の店のため。

 本当に?


「……冗談だ、そんな顔をするな。奥に通そう。上がりたまえ」

「店長」

「心配なさらず。取引先です」


 市川と呼ばれた女性が、僕を警戒してか名前を呼んだが、レンさんは頓着もしなかった。


「それで? 何をしていたんだい、私の庭で。まあ大概予想はつくが」


 以前通された場所と同じ部屋、やはり前のように尊大に座った彼女が聞く。僕は俯いた。決して疾しいことをしていた訳では無いのだが、この人の前だとどうも萎縮してしまう。彼女は、生まれながらにして強者のオーラを纏っている。例えば、私という一人称も、この人が使うと女性を表す記号ではなく、もっと特別な響きを帯びるのだ。昔と違う口調は格好いいのだけれど、店員の前では使わないのだなと思った。


「あなたの店に貢献するには、あなたの店のことを知る必要があると思って……」

「三十点だ。本当は零点にしてやりたいところなのだがな、熱意を評価しよう。だがその一、社員として訪問するならばアポイントメントを取れ。その二、客の迷惑になるような行為は避けろ。その三、その程度のことは私に聞け。無駄は嫌いだと言った筈だ」

「すみません」


 返す言葉もなく、僕は謝ることしか出来ない。商品片手にメモを取る姿は、店員にも客にもさぞかし不気味に映ったことだろう。どうしてこうも気配りができないんだ。自分が嫌になる。


「勇気を問うとは言ったが、蛮勇を見せろとは言った覚えがないぞ。……手段を考えろ」


 ああ、慰められている。そう直感した。レンさんは昔から自他共に厳しい人だったのだ。その彼女が、何も責めない。おそらく。おそらく、僕の胸の内が分かったのだろう。自分を責めるしか出来ない弱いこころ。

 このままじゃ駄目だ。そう、強く思った。そう、誰かに憐れまれているようじゃ駄目なんだ。僕は勇気を問われている。そして、ヒントはもらった。


「では、お聞かせください。あなたのお店について、出来るだけ詳しく」


 顔を上げて懇願すると、レンさんは目を見開いた。そして、花開くように笑った。綺麗な笑顔だった。その笑顔が余りに昔を思い起こさせて、僕はドギマギと視線を泳がせる。


「及第点だ」


 立ち上がった彼女は、部屋の端の濃紺のポットで、紅茶を淹れた。「飲め。長い話になる」と。

 僕は気分の高揚を感じた。先輩からこんな話を聞いたことがあるのだ。営業先でお茶が出て来たら、それは契約への光明だと。しかし、いそいそと紅茶に口を付けた瞬間、厳しい声で「話をするだけだ。取らぬ狸の皮算用はしないように」と釘を刺されてしまった。少しは感動に浸らせてほしい。後、何で僕の考えていることがわかったんだ。


「君の勇気を問おうと、そう言ったことは覚えているかな、タマ」

「忘れません。衝撃的でしたから」

「あれは、我が店と運命を共にする覚悟、ひいては勇気があるかという意味だ。その面構えと行動から鑑みるに、少しは様になってきたと見える。さあ、まずは君が『dame』のことをどれだけ考えてくれたのか、それから聞かせてもらおうか」


 そう聞かれて僕は慌てた。本来今日は営業で訪問する予定ではなかったのだ。よって、昨日徹夜で作った資料はここにはない。そのことを彼女に告げると、暫く呆けた後で「馬鹿なのか君は」と言われた。ボキャブラリー豊富な彼女が直球で物を言う時は、本当に驚いている時だ。益々自分が恥ずかしく、不甲斐なく感じる。

 すみませんすみませんと、もはや誰に向かっているのかも分からない謝罪を繰り返しながら、僕は何とかスマホを駆使し、『dame』について調べたことを前頭葉と格闘しながら説明した。取扱ブランド、商品の傾向、年度ごとの客層、口コミ、ライバル店。ライバル店の傾向。値段帯……。しばらくすると頰を汗が伝い始めた。思ったよりも頭を使う作業だ。


「……これらのことから、『dame』のテーマは『変身』だろうかと予想しました。現在起こっているであろう問題点についても、前述の通りです。あの、本当に資料を忘れてしまって申し訳ありません。データに誤りがあるやも」

「いや、私が把握している通りだよ。……もしかしたらそれ以上かもしれない。君はここぞという時の洞察力も優れているが、それ以上に情報収集力、継続力が突出しているな。ここまで調べるのはさぞかし労力を要しただろう」


 自分でもどうしてあそこまで頑張れたのかは分からないのだ。ただ、今自分が褒められているというのはわかった。努力を、認められているのだということは分かった。それは、泣きたくなるような多幸感を僕にもたらした。実際少し僕は泣いた。自分でも気持ち悪いやつだと思う。でも、自分を揺さぶる大きな感情が僕を平静でいさせることを許さなかった。

 レンさんは僕の涙に気付かない振りをしてくれた。


「君は勇気こそないと自分で思っているかもしれないが、少なくとも人に寄り添おうとする才能は、確かにその身に宿しているよ。誇れ」


 誇っていいのだろうか。無二とまでは言わなくとも、誇れる才能があると、思っていいのだろうか。劣等感ばかり抱えてきた。何もかも人より出来ない自分が嫌だった。人に離れられるばかりの人生が嫌だった。だけどもう少し、自信を持っていいのだろうか。僕はより一層溢れてきた涙を堪えるのに必死だった。

 だから、レンさんが次に言った言葉がイマイチ聞こえなかった。


「何か、仰い、ましたか」


 レンさんは髪をかきあげる。桃色がふわんと舞って綺麗だった。


「君の仕事の都合がつくのなら、今晩食事でもどうだいと言ったんだ」


 ✳︎


 冴えない小学生だったことを覚えている。そして冴えない中学生になった。そんなことを言い出せば、その後引き続き冴えない歴を更新し続け、冴えない大人になった今があるのだが、それは一先ず置いておこう。中学の生徒は、ほぼ小学校からの持ち上がりだった。なのに僕は、中学一年、二回目の委員選びでも、クラスに友達がいなかった。よって同じ委員会に入ろうぜ、なんて言葉を言い交わすこともなく、淡々と図書委員になった。小四の頃から合わせれば八回目だ。皆勤賞だなと自分を嘲笑ってやったのを覚えている。どうせ今回も特に変わったこともなく終わるだろう。……ああ、でも。仲のいい司書さんと話せることと、それから。『あの人』の顔が見れることだけは、少し楽しみだな。そう思った。

 レンさん……当時は城之内花蓮さんと呼んでいた彼女は、よく図書室に来ていた。始めは月に一回程度顔を見れるくらいだった。学内の有名人は書まで嗜むのか、と慄いた。それから、なんだか普通に顔を出して話しているのが恥ずかしくなった。彼女は、当時もとてもとても美しかったから。二月経った程度から僕の担当する曜日に毎度来るようになったのは多分、毎日図書室を訪れていたのか、司書さんと話したかったのか、どちらかだろう。僕としてはその頃にはもう、彼女に憧れていたから、毎週その日が来ることが、楽しみなような、怖いような気持ちだった。

 後期、委員会。もう少し勇気があれば、彼女と言葉を交わすことが出来るだろうか……などと思っていた、中学一年九月の僕へ。


「本当に薄いなこのビールは。一体全体何をどうしているのか問い詰めてやりたいよ」


 社会人になった僕は、なぜかレンさんと、居酒屋に来ています。


『今晩食事でもどうだい』

 そう言われて、舞い上がる心がなかったと言ったら嘘になる。というか、こんな美人に食事に誘われて舞い上がらないやつがいたら、そいつは男じゃない。レンさんからお店の話をまだ聞いていないと思ったし、思い出話も、今の話も。沢山話したいことはあったけれど、僕らはもう、あくまで仕事の関係なのだろうと諦めていたから。ただ僕は真っ先に慌てた。


『あの、レンさん。僕そんなに今日持ち合わせがないです』

『うん? 何を言う』


 彼女が名家の出身であること、そしてその家はある大企業も運営していることはあくまで噂だ。確かめたことはない。でも、実際に今彼女は店を二年経営していて、その店は流行っている。服装一つとっても、彼女と僕の差は歴然だ。もしかしたら彼女は先達として奢ってくれるつもりなのかもしれないが、甘えたくはなかった。僕が二人分支払える、もしくはせめて割り勘出来る店を……!

 そう考えて己の経済力のなさに拳を握りしめていると、レンさんはふっと笑った。


『いいから付いて来い』


 そうして付いて来た先にあったのが、先に述べた居酒屋である。壁は汚れていてその上にベタベタとメニューというかお品書きが貼られ、テーブルがみっしりと置かれているような、どこにでもあるありふれた居酒屋だ。社会人の、いや、最早大学生の味方と言って差し支えないような。何なら僕は、同系列の店に大学生時代お世話になったことがあった。


「ふむ、しかしこれも一つの味わいと言えるな。醍醐味と言うべきか。何にせよこの安さであるならば、コストパフォーマンスは高いのかもしれない」

「いや、低いですよ。レンさんもしかして初居酒屋ですか」


 相変わらず発音のいいコストパフォーマンスはスルーし、僕は突っ込む。先程泣いているところを見られてしまって以降、気まずくて目も合わせられなかったのだが、流石にそれは突っ込んだ。前々からここの酒は、安いとはいえ薄すぎる。上機嫌な彼女は鷹揚に頷いた。


「機会がなくてな。おっ、このもつ豆腐とやらは何だ。実に興味深い」


 でしょうね、と僕は思う。彼女の身の回りは、彼女に相応しい品格高い人々だったんだろうし、彼ら彼女らはこんなところへは来ないだろう。

 それにしてもはしゃいでいる……。レンさんは普段の余裕と自信をたっぷりと滲ませた笑みではなく、年相応の笑顔を見せていた。可愛い。彼女が何か言う度ふわふわの桃色が揺れ、きらきらと柔らかく緩んだ目元が楽しい、楽しいと主張するのだ。眩しくて何だか見ていられない。動悸が凄い。何で僕をここに連れて来たんだろうとは思ったが、聞く余裕はなかった。


「君は何を食べる」

「え? えーと、こっち……のチーズピザかこっちの海老マヨか……」

「無駄は嫌いだ。迷うのは時間の無駄だ。食べたければどちらも食え。オーダーお願いします!」


 無茶苦茶だ。というか、食べきれなくて残すのは、金と食材の無駄じゃないのか。ぐちゃぐちゃとそんなことを考えていると「君は、注文したものを粗末にするような真似はしないだろう?」と来た。だからなぜ考えていることがわかるんだ……。


 ✳︎


 無駄は嫌い。レンさんは、本当に昔からそうだったな。委員会に入るや、今まで適当に回していた雑事の当番制を言い出した。誰かがするだろうと放っておかれていたことも彼女のおかげで浮き彫りになった。普通そんなことをすれば、疎まれそうなものだけど、彼女が言うと説得力しかなくて、レンさんと同学年の三年生も彼女に従った。

 そして、僕と当番をしている時も、「城之内先輩、こっちをお願いします」と言うと、途端に剣呑な目つきで僕を見た。その頃は柔らかかった……いや鋭かったな。今と少し違うけどその頃から鋭かった口調で。


「君とはこれから約六ヶ月の付き合いになるよね。その間ずっと城之内先輩って私のことを呼ぶつもり? 城之内先輩と花蓮では、その差はコンマ数秒かもしれない。敬語とタメ口でも同じでしょう。でもそれが六ヶ月続けばロスは一体何秒、何分、何時間になるのかな。私は無駄が嫌い。今すぐ改めて」


 僕は慄いた。女の子を名前で呼び捨てる、先輩にタメ口を使うなんて、したことがなかったから。しかも、憧れの相手を。頰が熱くなるのを僕は感じた。


「……花蓮さんじゃだめですか……?」


 そう聞くと、彼女は髪をかきあげた。多分この時が、彼女の髪をかきあげる癖を初めて見たときだったと思う。


「五十点。レンさんで許してあげる。私も、君のことは珠希じゃなくてタマって呼ぶから」


 その日から、放課後のカウンター当番が終わった後、校門までの短い距離を、何故かレンさんと帰るようになったのだった。彼女は仕事中は私語を慎む人だったから、それで僕は少しずつ彼女のことを知っていった。


 ✳︎


「余所見をするな」


 レンさんが僕の袖を引っ張った。そんな台詞、まるで睦言みたいだ……。

 まだ頰の全く赤くないレンさんが、そのまま拗ねたような表情で柔らかそうな唇を開く。


「私の店について聞いてくれるんだろう?」

「あっ、はい、そうですよね。そうです」


 それからは沢山話をした。レンさんの『dame』がどんな思いで立ち上げられ

 、どんな道程を乗り越え、どんな現在があるのか聞いた。一流大学を出て、いくらでも選択肢があったレンさんが店長になったのは、自分一人でも出来ることがあることを、証明したかったらしい。そんなことみんな知っているというのに。途中何度も追加注文をし、彼女は意外と食べるし、飲むことを知った。そして、自分が酔うと陽気になることも。……今までは一杯付き合ったら退散していたから。

 陽気と言うか、いつも腐らせてしまっていた言葉たちが元気になる。どこにそんなエネルギーを隠していたんだと突っ込みたくなるほど、言葉はぽんぽんとレンさんに投げつけられた。それを受け止めたレンさんが、何だか楽しげに笑うから、僕は無性に嬉しくなって、また無駄なことを喋った。


「レンさんはお家は継がなかったんですかあ」

「君は無知なようだから教えてやろう、家を継ぐのは長男と相場が決まっている。だが私は一人っ子だからな、婿養子を迎えることになるだろう」


 レンさんは、酒を飲んでいるとは思えないほどしっかりしていた。そして、その時だけなんだか、置いていかれる子供のような響きを声に含ませた。それが悲しくて僕は話題を変える。


「僕なんかと飲んでていいんですか。恋人なんかは」


 彼女は僕がそう言った瞬間物凄く不機嫌になった。そして言う。


「私が不貞をはたらく人間に見えるか」

「滅相もありません」

「恋人はいない。いたら君とここへは来ない。ああでも、恋人が欲しいと思うことはあるな」


 桃色の髪をかきあげて彼女が言うものだから、まるで普通の乙女だなと僕は思いながらフォローする。


「すぐ出来ますよ、レンさんなら」

「……それ以上に友達が欲しい。そうだな、他愛もないことをいつまでも語らえるような友が欲しいな」

「……えっと」

「嘘を吐くなとは言ったが、気休めの慰めまで禁じた覚えはないぞ」


 しばらく話しているとこんな話になった。僕が空けたグラスは五杯を超えている。


「なんで、そんな喋り方になったんですか」

「直球だな。君はいつもそうして喋るといい、無駄が省ける。……そうだな、私の容姿は整っているだろう?」

「えっあ……ハイ。タイヘンウルワシュウゴザイマス」

「……タマ。君は女性の褒め方も勉強しろ。まあ、私は私の容姿が世間でどう評価されるか知っている。そして、そのせいでどんな輩が引きつけられるかもな。実害も何度も被った。だから、物凄く変な奴になってやることにした」

「はい?」


 文脈が読めなくて僕は困惑する。彼女は桃色の髪をくるくるといじった。


「元から散々変わり者だとは言われていたからな。この珍妙奇天烈な髪色も作戦の一つだ。まあ一番効果があったのはこの喋り方だな。勿論TPOは弁えるがね、お陰で悪い虫は大分減ったよ……タマ?」


 気付けば僕は、自らの髪を弄る彼女の手を、そっとどけて、桃色の綿菓子に触れていた。柔らかい。


「僕には今の髪も、話し方も、すごく魅力的に思えるんだけど」


 ああ、何だかすごく眠い。今なら何でも伝えられそうな気がする。蛮勇でも何でもいいや。ああでも、これはだめ。でもあのことなら、とうとう伝えられなかった可哀想なあの日の僕の代わりに言ってやろう。


「レンさんは僕の初恋だったから、中身が一番すごく魅力的だってこと、僕は知ってるよ」


 レンさんが目の前で目を丸くしている。すごく可愛い。少し幼くて、あの頃みたいだ。あれ? ……どうして彼女は、泣いているんだろう。整った柳眉がくしゃくしゃに寄って、歪んだ目元からつうと涙を零している。


「タマが私の初恋だったって言ったら、嘘になるよ」

「だよね。分かってるよそんなの。アイドルがファンに恋をするなんて、ありえないべ」

「飲み過ぎだよ、タマ。お開きにしよう」


 ✳︎


 そうしてその日は別れた、らしい。気がついたらスーツのままマットレスの上にいた。窓の向こうでは朝日が強烈に街を照らし出していた。僕には昨日の記憶が途中までしかなくて、どうやって家に辿り着いたのかも分からなかった。僕はバスルームに向かう傍ら、昨日見た夢について思い出していた。


 僕は城之内花蓮に恋をしていた。男子中学生の恋なんて、他の子よりも可愛いだとか自分と話してくれるだとか、理由はそんなものなのだろうけど、とにかく僕は彼女が好きだった。ただぼんやりとアイドルに憧れていたのが、実際に話すようになって、少し身近になったのだ。相変わらず僕にとってアイドルだったことには変わりないが。昨日見たのはその頃の夢だ。


「本が好きなんだね」

「え? あ、はい。まあ。どうして……」

「重そうに角ばった厚手のトートバック。教科書はもっと大きいし、本かなって。それもいつも持ち歩いているから、かなりの本好き。恥じなくていいよ、私も本は好き」


 彼女の洞察力は凄かった。そして僕のコンプレックスの一つを、余裕に満ちた笑みで包み込んでくれた。

 今思えば、その時が始まりだったのだろう。僕は嬉しくて嬉しくて、笑いながらありがとうございますと言った。


「クラスの人には……からかわれるんで、隠してます。元々勉強しかできないやつだって揶揄されてるんで」

「やっぱり本好きだよね。揶揄って十三歳からは中々聞けないよ。まあどうしようもない部分もあるんじゃないかな。中学までって全教科、国語が出来れば大概何とかなるからね。後は努力と継続力だよ」

「大概って言葉も、十五歳からは中々聞けませんね」

「言うようになったじゃない」


 本の話も沢山した。先生の話なんかも。彼女としたのは他愛もない話が大半だったことを覚えている……あれ? 他愛もない話。僕は回想のテープの再生を止めて、考え込む。まただ。また、既視感がする。どこかでこの言葉を聞いたような。僕はシャワーを終えて、タオルで髪を拭く。だめだ、考えがまとまらない。

 取り敢えず、レンさんには謝らないとな。記憶が無くなるほど飲んでしまったこと、ああまた、こっ酷く言われる予感がする。ご機嫌取りに何か買っていこう。並の菓子は慣れているだろうから、そうだな、珍しいものを。幸い今日は土曜日だ。月曜また営業で彼女を訪ねる時までには何か買えるだろう。


 ✳︎


「モノで釣ろうなどという不埒な考えをする後輩に、君を育てた覚えはないのだが?」

「い、いえ、これは以前のお食事の時のお詫びと申しますか」

「尚悪い。モノで誤魔化すつもりか君は。まず何を謝罪したいのか述べろ」


 月曜日。僕は菓子折りを持って『dame』を訪ねていた。ところが、マトモにプレゼントもお詫びの品も渡したことのない僕は、「こんにちは、営業に参りました。あの、これよかったらどうぞ」という、ぎこちなさしかない渡し方をしてしまったのだ。案の定彼女は烈火の如く怒っていた。


「はい! えーとまず、先日前後不覚になるまで飲んだことと、そのためレンさんにご迷惑をおかけしたであろうことと、最後に先日の記憶が一切ないことについて謝りたく存じます」

「……無論知っているとは思うが、度を超えた飲酒には急性アルコール中毒の危険性がある。自分の酒量くらい把握しろ。それでも社会人か。とは言え君の様子がおかしいにも関わらず、飲ませ続けた私にも責任はある。すまなかった」

「そんな、やめてください。隠キャ極めすぎた自分が悪いんです」

「いんきゃ?」

「陰のあるキャラで隠キャです」

「自分を卑下しすぎだ。不愉快だぞ」


 また怒らせてしまった。彼女は誇り高い人だから、周りもそうでないと我慢ならないのだろうな、と自省する。兎に角、怒りながらも彼女は贈り物を受け取ってくれた。


「これはなんだい」

「飴です。鎌倉で購入しました。よければ」


 そう言った瞬間、彼女が大袈裟なほど大きな溜息を吐いた。髪をいつものようにかきあげる。


「タマ。君はこんな通説を知っているか。異性に贈る贈り物には、それぞれ意味があると」


 そんな話は知らなかったので首を横に降る。


「例えば財布ならば、いつでも貴方の側にいたい。ネクタイピンならば貴方を見守っている。口紅ならば貴方に接吻したい、というようにな。勿論菓子にも意味がある」


 説明とは言えレンさんの口から貴方にキスしたいなどと言われて赤面する僕の耳に、衝撃的な一言が飛び込んできた。


「飴に隠された意味は貴方のことが好き、だ」


 ……知らなかったとは言えなんてものを渡してしまったんだ僕は……! 内心頭を抱えながら、僕は「え、えっと! その、あの、人間的な意味で、あの、ちがくて」などと口籠る。瞬間。「アッハハハ!」と開けっぴろげな笑い声が部屋の中に響き渡った。笑い声の主はひーひーと腹を抱えている。


「まじないのようなものだよ。意味を込めて渡さなければ何の意味もない。すまんなタマ、意趣返しにからかわせてもらったぞ」

「なんの意趣返しですかぁ……」


 こちらは最早半泣きである。レンさんは「覚えていない方が悪い」などと意味不明のことを言った後、深く椅子に腰掛けた。


「それで? 口説いてくれるんだろう?」


 その言葉選びはずるい、と思いながら僕はずっしり詰まった鞄を掲げる。この土日、飴玉探しだけに奔走していたわけじゃない。軽く息を吸って、吐いた。さあ、ゲームの時間だ。今日こそ彼女を墜とす。


 その日僕は、初めての契約を勝ち取った。


 それから僕のスマホに、一人分の連絡先が増えた。


 ✳︎


 放課後の図書室は静かだった。

 よく晴れた日で、テスト前でもない日は来館者は少なかった。だからだろうか、自分の作業をする僕にレンさんが話しかけてきた。


「タマはお人好しだね。それ、タマがする必要あるのかな」


 僕は近くなった球技大会の、名簿作りとチーム分けに勤しんでいたのだ。別に僕は実行委員でも係でもない。レンさんにもそれは分かったのだろう。

 僕は気まずいなあと思った。以前同じことを言った時には、いいこぶってるギゼンシャだと笑われたのだ。


「でも、誰かがやらなきゃいけないんで。これくらいしか得意なことないし」


 レンさんは暫く黙っていた。呆れられたかな? と半ば諦めの入った思考をしていると、僕の持っていた書類から名簿が掻っ攫われていった。


「誰かに頼ることは出来るでしょ。それから、こういうのが得意なの、意外と色んな力がいるんだよ。だからタマはすごいよ」


 ✳︎


 あの日レンさんが教えてくれたこと。誰かに頼るということ、自分は案外すごいのだということ、どちらも余り理解出来ないまま打ちのめされて、僕は大人になってしまった。だけど、再び出会って、思い出した。意気地なしの僕でも出来ること。そしてそれを性懲りも無く忘れかけた時、レンさんはまるで袖を引くように、僕に教えてくれる。


「これでやっと十店舗目ですよ」

「そうか、おめでとう。今日は私が奢ろう」

「割り勘を所望します」

「意固地な奴め」


 彼女と食事をするのは六回目位になっていた。時間にすれば、一緒に過ごした時は半年をもうすぐ迎える。もう飲み過ぎるようなヘマはしないし、契約を取る前のあの張り詰めた感じもなくなっていた。今の僕らは彼女の言葉を借りれば、一連托生の仲間なのだから。……仲間、か。


「やっぱり勇気が欲しいんですよねえ」

「タマ、それは何度目だ。しつこい男は嫌われるぞ。それにな、私は、この数ヶ月で君にすっかり勇気が付いてきた気がするよ。十件の契約がそれを示している。それに、君には初めから踏み出す勇気はあったのだから」


 ああ、そんなことはないんですよ、レンさん。本当に僕は意気地なしで、だめなやつなんです。


 だってあなたに告白する勇気が湧かない。


 貴方が好きです。潤んだような猫目に長い睫毛が好きです。吊り上がった口元が好きです。どんな髪型も似合うと思います。几帳面に整えられた服装が好きです。余裕と自信を含ませた笑い方が好きです。呆けた時の幼い顔が好きです。髪の毛をかきあげる癖も、奇抜な発想も、男のような喋り方も、全て好きです。でも言えない。初恋だっただなんて言って、大嘘だ。今も好きなのだ、でも。貴方はずっと、僕のアイドルだから。アイドルは、手が届かない存在。そんな理由で、彼女を僕は諦めようとして諦めきれずいる。


「僕には勇気なんてないんです。ちょっと足を伸ばす労力は払えるけど、革命的には変われない」


 ふむ、と彼女は鶏つくねを頬張って考えた。余談だが、僕らが飲む時場所を考えるのはいつも彼女で、そこはいつも庶民の味方だ。


「ヘルマン・ヘッセは知っているね」

「あ、はい」

「彼の著書『デミアン』にこんな言葉がある。『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。 卵は世界だ。生まれようと欲するものは、 一つの世界を破壊しなければならない』。勇気を出すということは、現状を破壊する覚悟があるかということだと思うよ。また、人間関係は化学反応だというユングの言葉もあるね。私はこれは人間関係のみに限った話ではないと思うんだよ。戻れない、その覚悟を問うのだとね」


 どちらの言葉も知っていたが、それらを勇気に結びつけたことはなかった。僕にはあるか? 彼女との今の関係や今の僕自身を、革命的に破壊する覚悟が。

 ……ない。あるわけがない。だって今の関係は居心地がいい。あなたとずっとこうして話して、お酒なんか飲んで、隣で歩いている、その距離感が心地いい。ドキドキするけど、キスしたい、だとか、もっと先を考えないでもないけど、それはいけないと僕の中の誰かが警鐘を鳴らす。だから、今のままでいいと、そう、思っていたのに。


「もう会えない」


 もう何度目か分からなくなった逢瀬で、そう告げられた。彼女にしては珍しく、格式高いレストランに呼ばれて、僕はスーツを着ていたし、彼女はドレスに似たワンピースに身を包んでいた。僕は余りに動揺して立ち上がった。嗜めるような溜息が僕を宥める。無遠慮な視線に足が竦んで、折れるように座った。

 彼女は静かな、静かな猫目で僕を見ている。僕が恋した瞳だ。そしてその恋が今終わろうとしている。僕は項垂れて問う。


「何か僕、しましたか」

「理由をまず自分に問うのは君の美点だが、今回ばかりは私の勝手だよ。すまない。君のことは好いている」


 どくんと胸が跳ねた。好いている、と言われたことは初めてだった。多分僕の求める意味ではないのだろうけど。


「見合いの日が決まった。……ほぼその男に決まりだそうだ。言っただろう、私は不貞ははたらきたくないと」


 友達として会えないんですか、とは聞けなかった、だって、つまり、そういうことだ。

 一番夢を見た言葉を、一番聞きたくなかった形で聞いている。僕は縋るように言った。


「婚約、しないでください」

「その前に言うことがあるんじゃないか」


 ぴしゃりと返された。そうだ、僕はまだ大事な言葉を言っていない。だけれど、勇気が、今の状況を破壊する勇気がなかった。彼女を彼女の世界から連れ出す勇気がなかった。彼女の責任を負う勇気がなかった。

 ……レンさんは、桃色の髪に白色のワンピースで、今までで一番うつくしかった。そう、そういえば、あの時も同じ衝撃を受けた。レンさんがレンさんだと気付く前、彼女の価値観のうつくしさに胸を打たれて、多分その時に同じ相手に二度目の恋をした。

 終わってしまうのだろうか、このまま。


「君からどうしても聞きたかった言葉がある。たった二文字でよかったのだがな、……とうとう聞けなかった。少し話をしようか」


 僕は、今まで見た様々な彼女を回想していた。


「私は中学時代読書家だったのは知っているね。うちの図書室はどうも埃っぽくて困るな、と思っていたら、ある日一角が綺麗になっていた。次の週は隣の一角が。通い詰めると、水曜日に掃除が行われていることがわかった」


『一緒に帰らない? とは言っても、迎えがあるから校門までなんだけど』

 そう楽しげに笑う彼女は、相変わらず髪をさらりとかきあげていた。取り巻きに見られたらどうしようと青くなる僕に、くすくすと笑った彼女が『面倒を持ってくるやつがいたら私がやっつけてあげるから大丈夫』と言う。どうしてか、彼女は昔から僕の感情を読むのがうまかった。


「それから、貸出カードに私の知らない名前が増えた。どうやら彼は私と読書傾向が似ているらしく、色々な本でその名を見た。彼は水曜日に図書室を訪れるようだった。気になっていたら彼の名が入り口にある。本来あるべきだと思っていた係がうちの図書室にはなかったのだがな、彼は進んでそれを引き受けているようだった。司書に聞いたよ。彼は水曜日の当番だった。君だ、平野珠希」


 下駄箱で、三年のところで待つ彼女の元へ行く時間が好きだった。誰かが待っていてくれることの幸福を、待ってくれている誰かを探す幸福を、彼女が教えてくれた。


『友達が欲しいなあ』


 そう言った彼女に驚いた。彼女はあの時間以外はいつも誰かに囲まれていたから。それに、あの時間でさえも部活中の誰かによく邪魔をされる。彼女は孤独とは無縁だと思っていた。


『みんな私に遠慮する。気を遣って、それからゴマをする。そんな人間関係、うんざりしない? 私はまっすぐな言葉や表情と出会いたい』

『あ……それ、なんか分かります。僕ほら、目立たないんで。話しかけられても、どこか薄い壁を貼られてるみたいで。笑ってる時は、ああ何か頼みたいんだろうなってわかります』

『タマも? そっかあ……他愛ないことをいつまでも話せる友達、欲しいね』


 そうだ。あの頃から彼女は、友達を欲しがってたじゃないか。でも、僕らが話していたのは他愛ないことばかり、僕らは、何だったのだろう。友達、だったんじゃないのだろうか。そうだ、僕らは確かに、友達だった。


「私は君と同じ委員の曜日を、熱烈に希望したんだ。ある期待を胸にね。実際に出会ったタマは、優しく心細やかな気遣い屋で、面倒ごとを黙って引き受けるお人好しだった。そして、私のどんな言葉にも、純粋な反応を返す少年だった。とても表情豊かでね、考えていることが分かりやすかったよ。……初めて出会う人種だった。他愛ない話で、嬉しそうに笑ってくれた。期待通り君は友達になってくれた。でもその頃には私は君を……」


 言ってよ。僕は心の中で希う。でもそれが叶わないことは分かっていた。よしんば口にしたとしても僕に現状を変える勇気はない。

 そして恐らく、彼女にも。

 彼女は深く椅子に腰掛け直し、溜息をつく。運ばれてきた料理はすっかり冷めていた。


「君が初めて……担当されたのが私の店だったのは、君に期待をしていたんだろう。君にみんなが頼みごとをするのは君に頼り甲斐があるからだ。後は、利用されないことだ」


 違う。そんな人生の先輩ぶった言葉を聞きたいんじゃない。

 勇気を出せ、僕。全てを破壊する勇気を。

 泣きそうになりながら言葉の海を漂う僕に、彼女は笑う。初めての辛そうな笑顔だった。余裕なんてそこにはなかった。そして、丁寧に包装された何かを僕に手渡した。


「最後の餞別だ。受け取ってくれ。……さよなら」


 ……どうやって帰ったかは覚えていない。まるで初めの食事の鏡写しだ。記憶も消えて仕舞えばよかったのに、と僕は思った。狭いワンルームで、手渡された包みを解く。ああ、と嗄れた声が喉から漏れた。

 渡されたのはモスグリーンの、マフラーだった。いつか飴を渡した日、大概のプレゼントの意味は調べたし、彼女と飲みに行ったときそれを確認もされたから、確かだ。マフラーをプレゼントするその意味は。


『あなたに首ったけ』


 涙が止まらない。彼女は少なくとも、伝える勇気を持っていたのだ。僕と違って。


『問おう、君の勇気を』


 それから何度、僕は躓いてきたのだろう。でも、もう間違いたくない。意気地無しをやめたい。



『……タマ……?』


 差し出す言葉が見つからなくて、迷いながら息をしていた。しばらくして電話越しに聞こえた声は濡れていた。多分、この声を聞くのはこれが最後になるだろう。一音たりとも聞き漏らしたくなくて、僕はスマホを耳に押し付ける。そして叫んだ。


「レンさん。ずっと前から好きでした。好きです! 大好きです!」


 直接言えない意気地無しでごめんなさい。と言うと、『私もだよ、私もそうだよ』と返ってきた。


『私も好き、タマ。ずっと好きだよ。でもごめん。私は家を裏切れない』

「それでいいよ。あなたが手の届かない人になっても、ずっと好きです! ごめんなさい、気持ち悪いやつで……」


 僕が俯くと、『こら』と彼女が濡れた声で笑った。


『私の好きな人の悪口言わないで。全く君は時たま至極、想像力に欠けるね』


 レンさんは息を吸う。


『でも私は、君のそんなところもどうしようもなく好きだったよ』


 過去形になった。


「これでおしまい、そういうことだね」

『うん。でも忘れないから』

「酷いや」


 会えもしない、他の男のものになる彼女のことを、僕は諦められそうにない。そんな僕がいる限り、彼女は僕と会おうとはしてくれないのだろう。

 それでもいい。それでもいいと、そう思えた。僕は最後に、殻を割ることが出来たのだから。彼女のいる世界まではまだ遠かったけれど。


 通話を切った。夜は更けていく。そうしたらやがて、朝が来る。あなたのいない朝が。それはとても寂しいことで、今だけは泣いていいよな、と僕はシーツに頭を沈めた。

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墜として割って 一匹羊。 @ippikihitsuji

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