末筆

「ただいまー」


 千代は居間の敷居をまたぐと、畳の上で横になっていた兄を見下ろす。


「兄さん、何してんの?」


 兄である人成が人目もはばからず、退屈そうに一冊の雑誌を広げている。彼の脇にはジュースの空き缶とポテチの袋が無造作に置かれている。

 こんなだらしない様子、さっちゃんやタッチには見せられないな……。


「何って、暇つぶし」

「本、読んでたの?」

「本?」

「それ、古い雑誌みたいだけど……、そんなのあった?」


 人成は雑誌から目を離さない。


「ねえ、聞いてる?」

「ああ」

「何、読んでるのって」

「これ?世界の絶景集。本っつうか、図鑑に近いよ」


 どこか外国の写真が見えたから、兄のことだし、どこぞの科学誌でも読んでいるのかと思った。でも確かに兄の読んでいる雑誌は普通より少し分厚く見える。卒業アルバムほどの厚さはあるだろうか。


「どこにあったの?」

「昼間、母さんに納屋の掃除の手伝いを頼まれてさ、カビた段ボール箱の中にあったんだよ。多分、父さんのかな」


 書斎を持たなかった父は、読み終わった書籍をよく空き箱の中に詰めて納屋の奥にしまっていた。廃品回収に出すわけでもないのに律義なものだと、当時は感心していたが、こうして月日が経つと、処分をするのが億劫になる。父は断捨離が苦手だったのだ。


「面白い?」

「面白いかどうかは分かんないけど、いい暇つぶしにはなるぞ。頭、使わなくていいからな」

「でも、兄さんも今まで海外で色んな絶景見てきたんじゃないの?」

「おい、研究者なめんな。旅行なんてしてる暇ねえよ」

「だってもう何年もアメリカで暮らしてるんでしょ。だったら、そういう景勝地の一つや二つ見てるはずじゃん」

「じゃあ、お前、日本に十六年も住んでてそういう景色をいくつ見てきたんだよ」

「え? あの、沖縄のサンゴ礁を見た時は感動したかな」


 何年か前、まだ兄が日本にいる時に家族で沖縄旅行に行ったことがある。普段、山暮らしをしている私にとって、海は存在そのものが貴重だ。そういう色眼鏡で見ていた一面はあるけど、あの時、現地のダイバーに連れられ行き着いたサンゴ礁は本当に綺麗だった。海中のお花畑、と呼ばれるのも頷けた。


「それ以外は?」

「それ以外? えと、あの……、日本でしょ? 絶景、かあ……」

「出て来ないだろ?」


 人成が鼻の先で笑う。


「人生で本当に記憶に残ってる景色って実はそんなに多くないんだよな。人ってさ、あの時すげえムカついたとか、死ぬほど嬉しかったとか、感情の記憶はその場面状況と結び付けてよく覚えてるもんだけど、自然の景色を見て感じることって思ってる以上に希薄だから、覚えられないんだよ。千代が思い出した沖縄のサンゴ礁の記憶は俺もよく覚えてるよ。でも、それは綺麗だったからじゃない。単に、海が珍しかったからだ」


 そう言われるとあの時は、親や他の親戚より、普段物静かな私たちの方がよくはしゃいでいた。両親は私たちより見慣れている分、感動も少なかったのだと思う。その点、私たちはテレビや本以外で初めて見る海の景色に心躍らせていた。その時の心の高鳴りがいまも、あの景色を鮮明に思い浮かばせるんだ。


「そういう意味で言えば、この写真集は面白いよ。見てると、色んな感情が湧いてくる。風も匂いも感じないから、視覚が研ぎ澄まされるんだろうな。四角い枠の中で繰り広げられる物語だけに集中してしまう。こんな所に橋が架かってんだとかさ、森の上を飛んでる鳥は渡り鳥の群れかなとか、この海の水平線の先はどうなってんだろうなとか。見えても気づかなかったモノもあれば、見えるはずのモノが見えないこともある。本物にはできない、写真にしかできないことだな」


 人成は、ハラッとページを捲る。


「お、この写真もいいな」


 私はスクールバッグを部屋の脇に置いて、その写真を覗き込む。


「お前、好きだろ。こういうの」

  

 それは、蛇の眼を通して反射する、森の景色を映した写真だった。


「これ何の種類だろう……?」

「爬虫類マニアの千代でもさすがに分かんないか」

「これだけ近すぎるとね。でも、これどうやって撮ったのかな……」

「目に映ってる景色から推測するに、野生の蛇だな。そう簡単に近づけないんだろ?」

「そうだね。餌でおびき寄せたとしても、カメラにびっくりしてのけぞると思うし」

「それに、こんなに近づいたら、警戒して蛇も目つむるよな」


 千代が「あ」と口を挟む。


「いや、蛇ってまぶたがないの。眼鏡板っていう透明の膜に覆われてるから、それで乾燥や衝撃から眼を守ってる。だから寝てる時も蛇は目を開けたまま……っていう表現が正しいかどうか分からないけど、蛇は目閉じないんだよ」

「へえ、そうなのか」

 

「そうだ。兄さん、ガズデン旗って分かる?」

 

 ふと蛇原のことを思い出す。

 真由美が蛇原の話をしながら、蛇にまつわるその単語を上げたのを思い出した。


「ガズデンキ?って……クリストファー・ガズデンの"Gadsden flag"のことか?」

「クリストファー・ガズデン?」

「アメリカ独立戦争で活躍した軍人の名前だな。海兵隊が創設された時、旗艦に掲げる旗を、海兵隊委員会のメンバーだったガズデンが作ったんだ。とぐろを巻いたガラガラヘビに、"DONT TREAD ON ME"という言葉をあしらった黄色い旗、それが"Gadsden flag"だ」

「"DONT TREAD ON ME" って?」

「『俺を踏むな』、だ。普段は温厚なガラガラヘビも攻撃されれば反撃する。小さいからってバカにしてると痛い目を見るぞって意味だな。この"Tread"には『踏みにじる』とか『蹂躙じゅうりんする』って意味があるから、当時、自由を主張していたアメリカにとっては国威発揚の象徴でもあったんだな」


 スラスラと言葉の出てくる兄に感心する千代に、人成は眉をひそめる。


「で? それがどうしたって?」

「ううん、大したことじゃないけど、臆病な蛇を写真に収めようと思ったら、やっぱりあの子たちの背中を踏まなくちゃいけないよね」

「でも、逆に噛みついてくんだぞ」

「私、ちょっと嫌なこと想像しちゃったかも」


 千代は鼻持ちならない様子で、写真を睨む。


「この蛇、死んでるんじゃないかな……!」


 人成が顎をさする。


「なるほどな、死んでる、か」

「いや、正確には、踏んで殺されたのかも。その後、亡骸の瞳をカメラで撮ったんだ。じゃないと、こんな状況あり得ないよ。こんな寸分先まで近づけるわけないもん、絶対そうだよ―――――」

「まあ、落ち着け、千代」


 青筋を立てる千代の肩を諫めて、人成は優しい言葉を掛ける。


「ぜんぶお前の想像だよ。もし本当に死んでるなら、地面に伏してるはずだ。でもこの写真を見る限り、蛇が体を起こしているようにも見える」

「こんなに近距離から撮ってるのに、体を起こしてるかなんて分かんないよ!」

「それにだ。別に、踏んで殺したとは限らないだろ。元々死んでたのかもしれない」

「じゃあ、もっと虫やハエがたかっていても可笑しくないでしょ! 鱗は堅いから大型の動物じゃないと噛み千切れない。でも眼なら小さな虫でも蝕むことはできる。つまり、この蛇は死後間もないってこと。この写真を撮った人が、自分の作品のためにこの蛇を殺したんだよ!」

「おい。落ち着けって」


 語気を荒げる兄に千代は委縮する。


「ごめん、なさい……」


「これも全部、写真の魔力だな。ワンフレームでそこまで人に想像させちまう。面白いもんだよ」


 人成は、写真の端に記載された名前を目で追う。

 

 


―――――Photographs by YAKATA.




( 鏡映反転する蛇 終わり )













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ツルギノ 白地トオル @corn-flakes

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