九文字
「尾形先輩!」
部室棟の廊下を駆けていく彼女を呼び止める。
千代は息を整え、振り返る真由美に向かってゆっくりと歩きだす。
「やっぱり、先輩だった。先輩が、学校に蛇を放っていたんですね」
真由美は目を反らす。
「…………そう、だね」
「さっきの手鏡、アレを使って蛇を生み出していたんですか?」
真由美が答えにくそうにしているのを見て、千代ははにかむ。
「先輩には『尾形』の力があるんですよね。緒方三郎惟栄始祖伝説にまつわる、蛇の力が」
「なんで、そのことを……!」
「実は、私にもそうした力があるみたいで。先輩のようにはっきりとした来源があるわけではないですが……、ほら、私の名前、『鶴』ですから」
「それじゃあ、あなたは鶴を生み出すことができるの?」
「あ、いえ、そういうことは、できないみたいなんですけど」
「じゃあ、あなたの力は……?」
返答に窮する千代に、真由美は気を遣い、言葉を呑みこむ。
「ごめん。聞きすぎたね。私と同じような人に初めて会ったから、つい親近感が湧いちゃって。それにしても、私以外にも、名前の呪いに悩んでる人がいるなんて知らなかった」
千代の眉がピクリと動く。
「呪い……?」
「呪いだよ。確かに鶴来さんの言う通り、私には蛇を生み出す能力がある。でも生み出すなんて言えば聞こえはいいけど、実際は生み出すことができるんじゃなくて、蛇が勝手に私の体から生まれるの」
「どういうことですか?」
「私の一族は隔世遺伝でこの呪いを受け継ぐ。先代のおじいちゃんが言ってたの、蛇と鏡は同じだから、蛇は鏡から生まれるんだって。だから、私が触れた鏡からは無数に蛇を生み出すことができる。それだけじゃない。鏡と同じように、可視光線を反射して鏡像を映し出す物体であればなんでもいいの。例えば、水とか」
千代は真由美に初めて会った倉庫の出来事を思い出す。
確かに、彼女の足元には、不自然な水たまりがあった。
「じゃあ、自分の体というのは……」
真由美は自分の眼を指差す。
「そう、自分の眼、とかね。これも物体を反射するでしょ? ……ほら、見てて」
彼女は下瞼をつまんで、耳に入った水を抜くように頭を揺らす。
彼女の眼より大きな顔をした蛇が、彼女の瞼を捲りながら、彼女の眼窩から這いずり出てくる。大の蛇好きと豪語する千代にもその光景はさすがに堪えたのか、痛々しく目を細めた。
「あ、ごめんね。鶴来さん、蛇が好きって聞いてたから、つい……」
真由美はあっけらかんとした表情で、床をのたうち回る蛇を見下ろす。
「最近はこうして意図的に出すことができるんだけど、昔は、寝てるときとか、お風呂に入ってるときとか、ご飯を食べてる時にも勝手に出てきちゃって。その度にボロボロ泣いてた。家族の中でこの力を持ってるのはおじいちゃんだけだったから、お父さんやお母さんを困らせてる自分の存在を疎ましく思っていたの」
蛇は体をくねらせ、頭から尾にかけて自分の鱗に下あごを擦りつけていく。天地を把握して、ようやく落ち着きを取り戻す。
「この子たちに罪はないんだけど、でも他の人からしたら気味が悪いよね。だから私、小学校に上がるまでに、おじいちゃんと一緒に蛇の発生を制御できるように練習したの。コツとしては、くしゃみを止める方法と似てるんだけど、出てきそうになる時に堪えるの、息を止めてね。そうしたら、後は好きな時に出せばいい。大きく息を吸ったら、くしゃみが出るみたいに。きっかえさえ作れば、自由に出すことができる。そうやって訓練したの」
真由美がしゃがんで蛇の顎をさすってやると、蛇は彼女の足を伝ってあっという間に首筋まで上ってくる。彼女は「おかえり」と言って、自分のうなじに蛇を誘導する。千代が瞬きをすると蛇の姿は消えていた。
「完全に制御できるまで、私は家の外に出してもらえなかった。万が一、ご近所に知られたらいけないからって。化け物扱いされちゃうからだって。そんなの、呪い以外の何でもないと思わない?」
「でも、尾形先輩はそれを乗り越えられた」
「乗り越えたって言うと大袈裟かな……、化け物が化け物なりに社会に順応しようと足掻いてるだけだよ」
『化け物』というフレーズが、寂しい声色を奏でる。きっとまだ彼女の中でその言葉は新しい。恐らく、打ち明けたこのタイミングで思いついたフレーズなのだろう。
「じゃあ、今になってなぜその力を解放したんですか?」
真由美は申し訳なさそうな顔をする。
「それは……」
「蛇原先輩の撮りたい写真のため、ですか?」
「うん。ユーちゃんのためでもあったし、私のためでもあった」
「尾形先輩のため?」
「そう、私は、鏡君に勝ちたいっていうユーちゃんの気持ちを応援してた。そういう彼の姿が好きで、彼のためならと思って蛇を放ってたの。でも本当は……」
真由美は一拍置く。
「彼に、『尾形』のことを知って欲しかった」
千代を見る目に、熱が帯びる。
「好きな人には、自分の全てを知って欲しい。こんな異形の体でも、その全てを愛してほしいって思ってた。だから、彼が蛇を撮りたいって言った時は本当に嬉しかった。彼の役に立てるし、何よりとてもいい機会だと思った。でも、さすがに目の前でやる勇気はなくて、最初は2Aの教室に彼を呼び出した。そのあとは、鶴来さんも来た、校舎裏の倉庫。彼は、蛇に対する恐怖心があって、なかなか写真を撮れなかった。でも彼の眼はまっすぐ蛇に。蛇の写真を撮ることしか考えてなかった。どう考えても私が蛇を放ってるとしか考えられないのに、彼は蛇を撮ることしか頭になかったの」
気づいて欲しいのに、気づいてくれない。
そのもどかしさに、彼女は耐えきれなくなったのだ。
「だから、私とユーちゃんしかいない部室に蛇を放った。もう明らかに私しかあり得ないという状況に、彼を誘い込んだ。一言、『このヘビ、どっから持ってきた?』って聞いてくれれば良かった。でも、それも失敗した。結局、ユーちゃんは蛇を傷つけようとした」
そこで、最後の強硬手段に出るも、執行委員の邪魔が入った。
「いいの。元よりあんな方法で打ち明けたって悪い結果に転んでたと思うから……、あの場で鏡君に止めてもらってよかった。いや、鶴来さんに止めてもらった、って言った方が正しいのかな」
―――――本当にこうなるとは私自身全く考えてなかったのだけど……。
真由美は、沙耶の言葉と、彼女の視線の先を目に浮かべて、そっと微笑む。
「鶴来さん。どうして、私が蛇を生み出すって分かったの?」
千代は首を横に振る。
「ああなることが分かってた訳じゃないです。それから、尾形先輩が蛇を生み出すことができるのも、いま実際に見て分かったことです」
「それでも、『尾形』のことは知ってたんでしょ?」
「『尾形』の話は昨日、知り合いの司書さんに聞いたんです。その時はまさか尾形先輩と結びつくとは思ってなかった。だって『蛇』と『鏡』が近くにいるのに、彼らが蛇と無関係とは思えなかったんです」
「そうだね……。本当に、私たち三人が同じ部活なんてすごい偶然」
「でも事件の全容を紐解いていく上で、徐々に、私の中で尾形先輩の存在が大きくなっていきました」
真由美は目を丸くする。
「それは、どうして?」
「校舎裏の倉庫、あそこの鍵を借りる時、貸出簿を書きますよね?」
「う、うん……。それがどうかしたの?」
千代は真由美と同じように自分の眼を指差す。
「私は、人が書いた文字を見ると、それを誰が書いたかが分かるんです」
「え……?」
「それだけじゃありません。その背景も読み解くことができる。どういう感情で書かれた文字か、その時の情景まではっきりと目に映るんです」
「もしかして―――――」
真由美は何かに気づいてハッと口を押さえる。
「先輩は、あの時、貸出簿に『蛇原有哉』と書いて倉庫の鍵を借りた。今から蛇原先輩に全てを打ち明けられると意気込んで、彼の名前を書いた」
あの文字を見た時、不意に感じた恋情に私は戸惑った。あの倉庫は生徒が自由に借りることが出来て、夏場は避暑地と言われるくらい使用頻度の高い場所だ。そして、逢瀬を重ねる生徒たちにとっては、うってつけのデートスポットでもあった。私は、ある種の覚悟を持って、倉庫の扉を開いた。
張り詰めた空気が一瞬にして弛緩する瞬間を、尾形先輩の緊張が解けた表情を、私は覚えている。きっと彼女は、蛇原先輩がやってくる瞬間を今か今かと待っていたのだろう。蛇を生みだし、倉庫に閉じ込めておきながら、彼が来た時に掛ける言葉を繰り返し、頭の中で練習していたのだろう。
「勝手に尾形先輩の心を覗き見るようなことをして、すみません。それから、間の悪いことをして、本当にすみませんでした」
真由美は慌てて首を振る。
「そんな……! とんでもない! 私の方こそ、あの時は驚かせちゃったと思うし」
「先輩……」
「それに、鶴来さんは私と同じ呪いに苦しんでるんでしょ? その、文字を見ると情景が浮かんじゃうっていうのが、あなたの『鶴来』の力?」
「これは……、『鶴来』の力じゃないと、私は思っています」
「どういうこと? だってその力は生まれつきなんでしょ?」
「そうなんですけど、私には別に『鶴』の力があって、それは確かに『鶴』の力が働いてるって分かるんですけど、あまり明確に説明ができなくて」
『鶴の一言』のことは話せない。
「そう、なんだ。でもやっぱり不思議だね、なんでこんな力が存在するのかな」
「私も、それをいつか解明したいと思っています」
「手伝えることは手伝うから、困ったことがあったら何でも言って」
真由美は千代の手を取り、強く頷く。
「蛇原先輩には、『尾形』のこと伝えますか?」
千代は恐る恐る問う。
真由美はパッと表情を明るくして、満面の笑みを浮かべた。
「ううん、今は鶴来さんと私だけの秘密にしておく!」
*
「おい、鏡、どういうことだよ。真由美はいったい……」
真由美と千代が去った部室に、呆然と立ち尽くす蛇原。
沙耶と鏡が見合って溜息をつく。
「蛇原、君の馬鹿に尾形が付き合ってくれていたんだ」
「じゃあ、蛇を持ち込んでいたのはやっぱりあいつなのか?」
「そうだ」
「どうやって!」
「それは、分からん。僕だって知りたいくらいだ」
沙耶が蛇原の肩を叩く。
「ま、二人とも。そんなことはどうでも良いでしょ。どうすんの? 蛇原君はまだ蛇撮りたいの?」
「当たり前だろ。コイツに勝たなきゃ俺の写真家人生は始まらねえんだ。親父の遺志を受け継ぐんだよ。そのためにヘビに噛まれる瞬間を撮ってやる」
「―――――だってさ、かがみん」
沙耶はおや、と驚いた表情をする。
珍しく鏡が面白い顔をしている、そう感じた。ロボットみたいに表情のない彼が、感傷に浸って、顔じゅうに皺を寄せている。
「蛇原、君の父親の名前は何だ」
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
「いいから答えろ」
「……蛇原
鏡が大きく息を吸って顔を上げる。
「孝哉……! そうか、やっぱり、そういうことか」
「鏡、何が言いたいんだ」
「孝哉さんは "Living" という写真誌に『ヤカタ』というペンネームでコラムを投稿していなかったか?」
「お前、なんで、それを」
「ヤカタさんは、僕の憧れであり、目標とする偉大な写真家だ。僕はあの人になりたいと本気で願って今も撮影活動を続けている。いつか彼が撮るような絶景をフィルムに収めたい。その気持ちで今まで頑張ってきたし、今もその気持ちは変わらない」
鏡の瞼がじんわりと紅潮する。
「でも……、君の話を聞いて驚いた。そうか。あの人はもうこの世にいないことになっているんだな」
「……じゃ、じゃあ、なんだよ。俺が頑張ってきたことって」
「そうだな。奇しくも僕たちは最初から同じ想いを抱いていた。僕を越えたいと思うなら、君は動物を撮る必要なんてなかったってことさ」
鏡になりたいと願った、蛇原有哉。
蛇原有哉は鏡を見ていた。
自分の体を鏡に映した。
そして、自分が鏡と同じ志を持つ人間だと信じた。
しかし、蛇原有哉が鏡に映した自分の姿は自分自身ではなかった。
蛇原有哉は気づいていなかった。
鏡の姿が、自分の目指すべき父親を映していたことに。
蛇原有哉は父親と逆の方を向いていることを知った。
自分が、鏡映反転する蛇だったことを―――――。
「なんだよ、鏡。お前、そんな話、一度もしなかったから」
「君だってそうだろ。この部に入った初日に、志望理由を話したはずだ。その時、君はそんなことは一言も言わなかった」
「お前だって言ってないだろ!」
「僕は言った。昔読んだ雑誌の写真に感動したと言った」
「そんなんで親父の写真だって分かるかよ! せめて風景写真が撮りたいって言えよ」
「悪いが、すでに僕は動物写真の技術を先輩に見初められていた。中学でも、コンテストで入賞していたからな。敢えて風景写真が好きだと言う機会がなかったんだ」
「んだよ、こんな時にも自慢かよ! 才能のある奴は自分を立てなくちゃいけないから大変だよな!」
鏡の顔が真っ赤になる。
「な、なんだと! 君はまたそういう理屈をこねるんだ! いつもそうだ! 写真を撮るにも、ヤカタさんの血を継いでるのか知らないが、いちいち直情的に動くんだ! もっと周囲の環境に注視するんだ! そうでないといつまでたってもいい作品は撮れないぞ!」
「うるせえ! いつも上から物を言うんじゃねえよ! 俺だって風景の写真を撮らせれば、お前よりずっとイイ写真が撮れんだからな!」
「それは、そうだろう! 悔しいが、君はあのヤカタさんの子供だ! もっともっと美しい写真を撮ってもらわなきゃ困る!」
「言われなくても、そうするつもりだっつうの!」
気づくと二人は額を合わせて、お腹を震わせ叫びあっていた。
「……ふんっ」
「……けっ」
二人は互いにそっぽを向く。
その様子を見て、沙耶が呆れたように失笑する。
「お二人とも随分、仲がよろしいこと。その調子だと、まあ、大丈夫そうね。蛇原君、学園祭の件、正式に引き受けてくれる?」
蛇原は不本意そうに口を尖らせ、「おお」と小さな声で答える。
そこに鏡が子供をしつけるような強い口調で言葉を投げかける。
「おい蛇原! ちゃんと返事をしろ! 委員長直々のお達しなんだぞ!」
「うっせえなあ! 分かってるよ! ちゃんとやるよ!」
「当日の動きは追々説明するが、撮影係の使命はちゃんと頭に叩き込んでるんだろうな……?」
蛇原はムッとなって言い返す。
「分かってるよ! 『生徒がいちばん輝いてる瞬間を逃さず撮るべし』だろ!」
先日、この二人に散々と言われたからな。なんでも撮影係の創設当時から続く鉄の掟だとかで、代々の撮影係はその掟を書いた紙を胸ポケットに忍ばせているらしい。蛇原もそれぐらいの気概で取り組んでほしい、と。それだけは忘れないで欲しい。正直、それ以外は適当に聞き流して……、と後でこっそりあの委員長に耳打ちされた。
「よし、ちゃんと覚えてるな。まあ、君なら上手く撮るだろう」
「ついに、俺の実力を認めたんだな?!」
蛇原の顔が分かりやすく表情を変える。
「ああ……、この間、偶然見て驚いた。あの雲の写真はよく撮れていたよ」
「雲の写真……?」
浮かんだ疑問符をかき消すように、ある女子生徒の顔が思い浮かぶ。
「それって……、真由美の写真だろ!」
「なんだ。君の写真じゃなかったのか。さすがの僕もあの出来栄えには嫉妬したよ。もし同じ土俵に立っていたなら、まったく歯が立たないだろう」
「そんな……、じゃあ、俺が目指すべきは、真由美?」
「僕はあの写真を見て、君を撮影係に推そうと決心したんだ。委員長、もう一度検討の場を設けさせてください」
「おいおい!そりゃねえだろぉ―――――!」
蛇原の悲しい雄たけびが、晩夏の茜空に、馴染んで消えた。
気づくと、蝉の声が静かになって、鈴虫が鳴いている。
学園祭の秋は、近い。
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