第2話 彼が好きな物は(下)
「わっくんは何でも忘れることができるけど、忘れたくない事って何
?」
「しゅーくりーむかな。あれは忘れたくない。甘い柔らかいおいしい!」
「そっか、わっくんはシュークリームが好きなんだ。今度また買ってくるね」
まず一つ目の解答。答えが一つではないはず。何度か質問をして彼に考えさせる必要があった。
「やったー! ……あ、う、ん」
「どうしたの?」
彼はシュークリームの話しに笑みを浮かべていたが、急にその顔が真顔になり、表情が停止した。この急激な表情変化は忘却した時に似ている。
「僕、今言ったことは嘘だと思う。嘘言っちゃった」
低く落ち着いた声が、先ほどとの感情の温度差が、部屋を冷すかのようだった。
「……僕は何でも忘れられるから、シュークリームがおいしい、大好きだって記憶は、何回も記憶してる気がする。僕はシュークリームを食べる前にシュークリームが美味しいって記憶を消してから食べてる気がする。それで毎回感動して、食べる前に消してる。そうすれば……何回でもシュークリームが美味しいって思えるから……」
だから、と彼が続けた。
「僕は、忘れたくないことなんて無いのかもしれない」
彼の無表情は絶望だったのかもしれない。
産まれてきたことも、両親も、手に入れた忘却も、偶然拾われた現状も、どれも忘却できること。
忘れたくないことがどれ一つも無い。それに彼は気付いた。
彼は忘却する時、手で銃の形を作り額に当てる。まるで自殺するかのように、
「まっ待って!」
私は彼を……いや、彼が忘却しようとしているのを停止させた。
どこも見ていない彼の前に、しっかり目線をそろえるように座る。
「私は……私もね、本当は覚えていたくないことたくさんあるけど、忘れちゃいけないことだから覚えてる。わっくんは何でも忘れられるけど、本当は忘れちゃいけないことや、忘れられないことばかりなんだよ……」
「僕は忘れることしかできない。誰かとの違いとか、国に拾われた理由とか、それは忘却することだけだ」
「そうだけど、そうじゃない。私だって誰かとの違いも国に拾われた理由も……喪失だったから。いつ喪失が起こるかわからない以上、私と一緒に居てくれるのは……君だけ……なの。だけど、私の自分勝手な願いは! 私の喪失を何も思わない人がいいの! 君じゃなきゃ……それはできないから……。だからいつもわっくんにお願いして、私の喪失を忘却してもらってる……」
「うん、お姉ちゃんが何か僕に忘れてって言ってるのは覚えてる。内容はよく覚えてないけど」
「もし、私が……喪失の力が無かったら……私の事を忘れないでって言えるんだけど……ごめんね」
「別にいいよ。僕がどこかに行くとき、お姉ちゃんのこと忘れないとだし」
私たち事故物件の同居は、私が望んだから始まった。彼か私のどちらかが国に使役される時、彼は私のことを忘れる約束になっている。
それでもいいから、私は少しの間でもいいから、誰かと一緒にいたかった。動物ではなく、人間(ひと)と。
「わっくんが消えちゃうと私は悲しいから、近くにいてほしいけど、離れていた方がいいの。忘れなくちゃいけなくても、ずっとそばにいてあげられなくてごめんね……」
「お姉ちゃんは、僕と一緒にいたいの?」
「うん、本当は一緒にいたい。私の都合で、私の願いで、一緒にいてほしい」
「そっか……じゃあ、えーい!」
目線を合わせているので、彼が私の首元に絡みついてくる。
「あのね、お姉ちゃんは僕のこと嫌いなんじゃないかって思ってた! 他の人となんだかちょっと離れてる気がしてた。だから本当は僕のこと嫌いなんじゃないかって思ってた!」
「ええっ? でもこれは、私の喪失の力が……」
「でも言ったよね。お姉ちゃんは本当は一緒にいたいって」
「そう、だけど……」
「お姉ちゃんのそうしつ? がよく分からないし、忘れちゃうけど、お姉ちゃんが一緒にいたいってことはわかった! だから一緒にいる!」
ぎゅっと強く抱きしめられる。私なんかと一緒にいてくれる……。
弱い力なのに、締め付けられて、涙が絞り出される。
「ごめんね――ううん、ありがとう……ありがとね……」
「僕ねお姉ちゃんのこと、忘れたくないよ。命令で忘れないといけなくても、忘れたくない」
「うん、うん……」
私も強く彼を抱きしめた。今日だけは、今だけは喪失の力を恐れずに、力一杯無くならないように抱きしめた。
後日、
私は彼に関する記載に追記をしなかった。
現在完成している書類に訂正は無しと管理者に送り返した。
「ねえわっくん、シュークリーム食べたくない?」
「しゅーくりーむ! 食べるー!」
これからシュークリームを買いに行こうと思う。
食べる前に、たった一人の同居人に『一緒に食べたシュークリームが美味しい』ことを忘れないでね、と言おうと思う。
――END――
忘却くんと喪失ちゃん 神崎乖離 @3210allreset
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