第2話 彼が好きな物は(上)
――忘却、忘れ去る事。
どんなことも忘れる事ができる彼は自分の名前すら忘れている。
生まれも育ちも両親も、生活に必要な常識さえも。忘れられない事は無い。
彼は呼吸をすることを忘れた事もある。息を止めたのではなく、腹筋の使い方も喉を開いて空気を流し込むことも。この時は管理者(ブリーダー)の人工呼吸で一命を取り止めた。
呼吸を忘れても無理やり呼吸をさせられる。その事実を知った次は酸素の摂取を忘れた。赤血球に含まれるヘモグロビンが機能しない状態になり、脳に酸素が行かなくなれば数分で脳細胞の破壊と委縮が始まり死につながる。たとえ処置が早くても重度の脳障害になる。
しかし、緊急対応可能な管轄内だった事、会話をしていた管理者が瞬時に酸素の摂取を忘れたのだと判断した事。幸い同じ血液型であることを確認済みの為その場での大量の輸血。病院での赤血球交換の後に奇跡的に後遺症も無く日常に復帰した。
――彼に知識を与えると逆用し自殺する傾向にある。
管理者は何度か彼に自殺の仕方を忘れるように命じ、心肺停止、酸素の不摂取、脳の活動停止、その他多くの自身への忘却を禁じている。彼に他者を忘却させる力があれば大混乱の中心となっていただろう。
――成長の忘却は可能か。
人は産まれ老いて死ぬ。誰もがこの理から外れることはできない。外れずとも老いる事を忘却することは可能だろうか。もとい、成長の副産物が老いであり、成長そのものは細胞分裂にある。全ての細胞が細胞分裂する。細胞も老化し死亡する。それは血液を流れいずれは老廃物となる。
彼に成長を忘却する命令を出していないが成長を忘れた場合、全身の細胞分裂が停止し、全身が細胞分裂をしない老化した細胞となっていずれ死に至ると考えられている。
不可能ではあるが死を忘却した場合は細胞が停止することなく分裂し続けるとして、それは俗にいうゾンビのようなものになるか、吸収と肥大し続ける肉の塊になる可能性もある。
彼が背負う禁則事項の一つとして管理者は把握する必要がある。
――忘却したことは思い出すのか、また、再学習について。
忘却は忘れるだけであり、思い出すことは可能なのか。
彼は彼自身の名前と過去を思い出せない。どのような資料を彼の前に出しても記憶が戻る事はなく、体験ではなく新しい知識でしかなかった。
資料を見せ資料以上の情報を引き出すことはできず、あらゆるアプローチを行っても『思い出す』行為は不可能だった。
上記に呼吸の忘却、酸素摂取の忘却の件があるが、上書きは可能。新しい経験を積み重ねることは可能。また本人が間違った記憶を重ねる可能性も大いにある。
記憶の忘却が完璧な以上、国は緊急時に全忘却をする前提で潜入捜査のエージェントとして利用することを計画している。
――複数回の忘却の懸念。
記憶の忘却の忘却。繰り返される忘却で記憶することを忘れてしまう可能性。記憶あっての忘却であり、記憶することを忘れ、忘れ続けれは記憶障害の廃人か禁則事項を忘れれば死人へ。結末は悲惨でしかない。
人は元来忘却するがそれは不必要なことだから忘却する。忘却することを忘却してしまった場合、全てを記憶する可能性もある。町ですれ違った人の顔を全て記憶しても何も特にはならない24時間を全て記憶する可能性もある。その場合脳へかかる負担がどれほどのものかは不明。忘却できない人間はこの世の中に存在せず彼が一番最初の被害者となるだろう。
今後の彼がどちらに傾くのか、これからもただ忘却を自在に操れるだけなのかは前兆を見逃さないようにしなければならない。
――忘却の拒否。
彼は忘却できないことは無い。しかし、本人の意思で忘却したくない事は何か。
現在同居する私はそれを知らない。資料にも載っていない。
彼に関する禁則事項はあっても、彼が何を忘却せずにいるのかは不明。もとより人が何を記憶しているかなど把握できるものではないとしても、彼の望みは願望は希望は忘れたくないことは何なのか、記載するべきである。
国や第三者が彼を利用するとしても、また敵意ある存在が利用する場合もあるので把握しておくべきだと私は思い、今回の追記を始めようと思う。
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