女学生

KisaragiHaduki

 女学校と醜男

 男はそう居ないであろう程の醜男で、あった。

 これといって良いところもなく、男女関係なしに嫌われ、誰にも望まれず、褒められないままに生きてきた。

 

 男はいつも考える。

 ――どうせ皆、俺のことを嫌うのだ。俺のことをこの醜い醜い容姿だけで判断し、気味悪がり、嫌うのだ。だったら俺も、皆のことを嫌ってやろう。ありもしないレッテルを貼り付け、嫌いぬいてやろう。

 そう男は考え、今まで人間と……親以外の人間とは殆ど関わらず、関わったとしても過度な干渉はせず、ただ一人で生きて来た。


 そんな、ある日の事である。男は風呂敷を片手に、町中を徘徊していた。 

 特に、これといって目的があるわけではない。今日は日差しが良いから、母親に荷物でも送ってやろう。そう考えて、男は郵便局に足を向けていた。


 男は不意に、とある路地裏で足を止めた。自分の数メートル先を、一人の女学生が歩いている。

 その女学生は友人とではなくひとりぼっちで、此方を気にすることなくゆっくりと歩いている。そのことに少し、ほんの少しばかり苛立った男は、足を速めると、その女学生のことを抜かそうとした、が。女学生の横で、男は思わず足を止めた。口をあんぐりと開け、間抜けな声を漏らす。

「――あ」

 それは何故か? 答えは単純である。その女学生は、あまりにも麗しく、あまりにも美しかったのだ。その女学生の姿を見た時、自然と、男の胸はトク、トク、トク、と音を立て――今までに男が感じたことのない程までに高鳴った。

 まるで濡れ烏の羽色の如き黒髪、パッチリとして、常人よりもよっぽど大きな、周辺の景色を映す瞳。そして、それの美しさを引き立てる長い睫。

 その少女は、このごろ流行りのファッション・モデルなどよりもよっぽど美しい球体人形のような体に、どんな女優が束になっても敵わないであろう美しい顔立ちをしていた。

 生まれてからこの方、女に恋をしたことのない男は戸惑った。まるで非現実的な少女の美貌に。そんな美貌に魅せられている自分に。 

 男がボンヤリと少女の事を見つめていると、少女は突如、男の方を振り向いた。

 暫く少女は、訝しんで男のことを見ていたが、男が、その場で間誤付いているのを見ると、申し訳なさそうに顔を顰め、ぺこり、と頭を下げて、その場を足早に立ち去った。

 それを見た男は軽い感動さえも覚えた。少女は、あの少女は、容姿のみならず、性格さえも美しい。あの年頃の娘だったら、きっと自分を怪しみ、俺が何かしようとしなかろうと、不審者よ、とでも言いながら俺が逮捕される様に仕組んだだろう。しかし少女は、それをしなかった。彼女には、無害なものと有害なものを見分ける、賢明さがあった。

 どれだけ完璧な人間なのだ、彼女は。男は感動と感激とで、涙を流しそうだった。いや、実際流した。容姿も美しく、性格も良し、賢明さもある。あぁ、少女は女神のようだ。

  

 男は立ち上がると、普段とは考えられないほどの早さで、付近にある高等学校へと向かった。男の記憶が正しければ、少女はセエラー服を着ていた。黒と赤で纏められた、薄暗い雰囲気のセエラー服を。

 それが、それが本当に正しければ、少女がこの付近の学校に通う女生徒だ、ということは確然的だった。


 男は校門の前に立つと、学校の敷地内に入っていく女生徒の顔を、さりげなく、出来る限り悟られないように、ひとりひとり覗いた。

「あっ」

 男は思わず息を吐いた。其処に居たのは、少女と同じ艶やかな髪を持つ少女。男は駆けていくと、その少女の顔を垣間見た。

 しかし、其処に居たのは、不美人、という言葉の良く似合う女生徒、であった。

 男は歎息を吐いた。

 あの少女と比べれば、ただでさえ醜女なこの女生徒の顔も、一段と酷い物に見える。

 男は目の前に居る女生徒に詫びを入れると、その場を立ち去った。あの女生徒を見て気が付いたのだが、あそこの高等学校のセエラー服と、あの少女が着ていたセエラー服とでは、デザインが大幅に違う。

 基本的な作りは同じだが、色合いが違う。

 男が先程行った高等学校のセエラー服は、青と白の麗らかな色合いをしていた。が、男が探している少女が身に纏っていたセエラー服は、黒と赤のおどろおどろしいような、薄暗い色合いのものなのだ。

 男は落胆の息を吐いた。少なくとも男は、あそこ以外に高等学校を知らない。何処に有るのかはおろか、どんなものがあるのかさえ知らない。

 意気消沈して、男は近くの土手に座りこんだ。

 さらさらと流れる小川を、古き良き渡し舟が、流れていく。そんな他愛のない景色に、ふと男は目を留めた。 

 その渡し舟に、二、三人ほどの女学生が乗っている。

 男は目を凝らして、その女学生たちに服装を見た。黒色のセエラー服。赤色のリボン。

 これだっ! 男は大声を上げると、その場で立ち上がり、渡し舟の行く先へと目をやった。

 それは……川の先にある湖……そしてその中央に位置する小さな孤島……であった。其処には、茶色い古めかしい建物と、それを隠す様にして立ち憚る、森林……その二つのみがあった。

 男はじっ、とその孤島を睨み付け、渡し舟が孤島に着き、女学生たちが森の中にかけていくのを見送った。

 ――あぁ、あの森の奥に、女生徒が……いや、あの少女が居る。

 そう考えただけで、男は行動せざるおえなかった。

 男はたたたっ、と足音を立てて駆けだすと、渡し舟の乗り口へ足を向ける。

 

 乗り口には、木で出来た舟二隻と、それぞれそれの番をする老人二人が居た。

 男はまるで機械の様にぎこちない動きで舟の前に立った。老人はそのぎょろぎょろとした宇宙人のような目で、男のことを睨む。恐らく、自分のような醜い男が、女学校になんの様だ、とでも言いたいのだろう。

 男はふぅ、と息を吐き、自分を落ち着けると、その掠れた声を絞り出した。

「……この船に、のせては……くれないか」

 老人は何も言わずにまた男のことを見る。

 男のことを嘗め回すように見つめた後、彼のことを怪しみつつ声を出した。

「あそこは……男人禁制じゃ」 

 ぎょっと男はする。これでは自分は、男人禁制の女学校に行きたがってる、不審者ではないか。

 男は間誤付いた後、自分の手に握られていた風呂敷を徐に突き出した。老人に。

 はじめ、老人はぼんやりとその風呂敷を見ていたが、そのまま男が固まってしまっているのを見ると、顔を顰め、眉間にしわを寄せた。この男は、一体何がしたいのだ。そう言いたげに。

「……いも、いもっとが……家に忘れ物して……」

 老人の眉間に寄せられていた皴が一層深くなる。

 老人はゆっくりと手を持ち上げると、男の背後を指差した。

 其処には、まるでお化け屋敷のような、木で出来た、古めかしい建物がある。

「此処は全寮制じゃ……ほれ、其処に建物があるじゃろうに」

 その言葉を耳に入れた途端。男は、目にも留まらぬ速さで走り出していた。

 これでは自分は、本当の本当に不審者ではないか。

 男は家まで引き返してから、自分の手に、風呂敷が握られていない、ということに気が付いた。

 しまった。男は頭を抱え、あの船着き場の様子を思い浮かべた。

 あそこの、それもあのジジイのところへ置いてきてしまったのだ。

 男はがっくりと肩を落とし、家への道を、とぼとぼと歩んだ。 

 

 が、逆に考えてみてはどうだろう? 男の脳裏に、そんな声が響いた。

 俺は、侵入こそ至らなかったものの、あの少女の学校を特定した。寮と学校間の道をうろうろしていれば、いつか、彼女と巡り合えるのでは。 

 そう考えるが否や、男の足取りは重い、どんよりとしたものから、軽やかかつ、ランランとしたものに変わった。


 男は家に帰って、一枚の画用紙を取り出した。 

 包丁や食器などが乱雑に置かれている卓袱台の上を整理して、画用紙を置く。

 そして、鉛筆と、線引きを利用して、自宅、少女の学校、少女の通う寮周辺の地図をサラサラ、とその紙に書いた。

 それは、お世辞にもうまい、とは言えない地図だったが、男にとっては上手い下手はどうでもよかったのだ。

 男は嬉々として、今度は筆立てから青色鉛筆を手に取ると、自分なりに考えた道すじをそれに書き込む。

 まず、自宅から女子寮へ向かう。そうして、少女を探し出し、隙を伺う。

 もし彼女が一人で歩いていたり、何処か人気のないところに駆け込んでいったりしたら、声を掛ける。

 其処まで考えて、男は思考を取りやめた。 

 ――声を掛けて、一体どうするというのだ?

 男は、自分の気持ちが萎えるのを感じた。一体全体、あの美しき少女に声を掛けて、一体何をしよう、というのだ。

 彼女に自分の思いの丈を伝えようか? 

だめだ。こんな醜い男に告白されたところで、彼女が困るだけだ。

 それとも、彼女に名前と住所でも聞いて、友人になろうか? 自分のような醜い男が友人だ、と知れたら、彼女はきっと虐められてしまうだろう。

   

 ――自分は、一体何がしたかったのだろうか。男は茫然自失して、目の前に広がるちぐはぐでぐちゃぐちゃな地図を視認した。

 さっきまでとても素晴らしく見えたはずのそれが、今ではただの汚らしい紙切れに見える。

 男はそれを徐に手に取ると、ぐちゃぐちゃに丸めた。そしてそれを自分の視界から消そうと、近くにあるごみ箱に、ぶっきらぼうに投げ込んだ。

 

 何とも言えないほどの脱力感が、男を襲う。

 男は小さな唸り声をあげると、すぐ傍に敷きっぱなしになっている布団に、身を包んだ。

 がっくりと首を垂れ、大息を吐く。


 今までの自分は、一体全体、何に浮かれていたのだろうか。男は布団の中で縮こまりながら、男は肩を落とす。

 美しい少女を見つけた。それは解る。しかし、その少女の学校を特定して、一体全体どうしようというのだ。

 男は自分の浅はかさを、心から嘆いた。自分の頭の悪さに、がっかりした。けれども、脳裏にはしっかりと、あの少女の麗しく、かつ愛らしい笑みが焼き付いている。

「あああああああああああっ!!」

 苛立って男は、自分の上にずっしりと圧し掛かる掛け布団を、勢いよく振り払った。途端、冷ややかな北風が、男の背中を撫でる。

 男は背中を丸めた後、スヤスヤと寝息を立てて眠りについた。北風は今も尚、ぴゅうぴゅうと音を立てている、というのに。


 ――まるで夢のような光景だった。いや、夢の中なのに夢の様だ、というのも些か可笑しいのだろうが、物を知らない男にとって、目の前に広がるこの光景は、『夢のよう』としか形容のしようが無かったのだ。


 少女が、居た。いや、ただの少女ではない。背中に翼を生やし、頭に金色のリングを掲げ、美しいその裸体を晒し、天使のような風体の少女が、男の目の前に居た。

 少女は男ににっこりと、まるで毛布の様に柔らかい笑みを浮かべると、踵を返し、男の正面に立ちはだかる、大きな十字架に目を反らした。

 其処には、血塗れの何かが磔にされていた。じっ、と男は目を凝らす。そして、その正体を視認した。いや――して、しまった。それは、男のことを渡し舟に乗せることを拒否した、あの老人だった。

 男の腰は、自然と抜けた。男は足をがたがたと震えさせ、息を切らす。

 少女は――男には正確に視認出来たわけではないが、僅かに笑っている様に見えた。少女は指を前につきだした。ピコーン、という電子音がして、その指から、刃物――包丁が、出てくる。

 それを手に、少女はぐったりとしている老人の腹を勢いよく、突き刺した。その勢いから、老人が一撃で死んだ、というのは明白であった。だが、少女は攻撃の手を休めることを知らない、という様に、二刺し、三刺し、と、老人の身体に包丁を突き刺していく。

 

 一方男は、恐怖で体がすっかり固まってしまい、少女を止めるでも、老人を助けるでもなく、ただその場で、その光景をぼんやりと見つめることしか、出来なかった。

 少女は、もう老人に息がない、ということを突如確かめると、老人の身体を指で、上から下になぞった。

 その瞬間、老人を吊し上げにしていた十字架が、凄まじい程の轟音を立てて、地面に埋まっていく。

 些か非科学的な光景だったが、男はようやくそこで、これは、自らが見出している夢である、ということを思いついた。

 だとしたら、醒めることは確実だ。醒めろ、醒めろ、醒めろ――。男は、何度もそう口内で唱えた。が、しかし。夢は一向に醒める兆しがない。

 少女は土から頭が若干はみ出ている老人の遺体を放置して、男の方へ踵を返した。

 目を細め、にんまりと、何処か不気味、かつ美しい笑みを浮かべながら、少女は徐々に男の元へ近付いて来る。

 男は泣き出しそうだった。尿が漏れた。首を振った。しかし、少女は嫌悪感を微塵もあらわにせず、だんだんと近付いて来る。

 そして、男の頬を、手で撫でた。


 夢は、それで終わっていた。

 男は、自分の背中を吹き抜ける風を感じつつ、布団を見た。

 ――その日、男は十年ぶりに寝小便をする羽目になった。

  男はそしてその日、一日をただ何もせず、無為に過ごした。とても何かするような気分にはなれなかったし、何かするような気力もなかった。

 男はただ、天井の染を数える。そんな作業に没頭していた。

 

 唐突に、玄関から、ごとん、という鈍い音が響いてくる。――ああ、新聞か。男はいったん作業を中断すると、重い腰を持ち上げ、玄関の郵便受けに、乱雑、かつ乱暴に投げ込まれたのであろう新聞を手にした。一番初めの頁には、大々的に、近頃巷で流行っている、という映画スターが死去した、という下らないような記事が書かれている。

 男は新聞を開くと、その記事にざっ、と目を通した。

 そして、ある一つの記事で目を留めた。

「老人の変死体 滅多刺し、怨恨か?」

 其処には、老人の顔写真と、遺体と、遺体が発見された際の写真が載せられている。それは奇しくも、夢の中で出て来たあの老人と、とても似寄っていた。

 腹につけられている幾つもの刺し傷、ぐったりと首を垂れる老人、土から若干はみ出る頭。すべてが、全てが一致していた。

 男は駆け足で卓袱台へと向かうと、その上にあるであろう包丁を、カッターナイフの代わりに使って、その新聞記事を切り抜こうとした。だが、包丁は何故かそこにはない。

 うんざりとしつつ男は、筆立てからもう赤錆びて血の如き色合いになっているカッターナイフで、その記事を切り抜いた。

 机の下に、まるで仕掛けられたかのように堕ちている画鋲を拾い上げ、壁に貼り付けた。特にこれと言って意味のある行動ではない。ただ、もしかしたらあの老人が死んだ事件に、自分が関わっているのかもしれない、そんな、自己保身故の行動だった。

 男はまじまじ、とその記事を眺めた。何度見ても、老人の遺体は変化しない。


 突如、グー、というくぐもった音が、辺りに響いた。それは、男の腹の音だった。

 それを聞いて、男ははっ、とする。

 そういえば、起床してから三時間。自分は、一切合切物を飲み食いしてないではないか。男は立ち上がると、自分の身なりを確認した。

 マリリンモンロー、とかいう女優の書かれたTシャツに、古びたズボン。これなら、外に出ても恥ずかしくは無いだろう。

 男は外に出ると、もう五月だというのに、寒い、ここら一体の気温を恨んだ。風がぴゅうと、男の肩を撫でる。

 渋々男は、新たにできた商店に入ると、その中に陳辣されている、和紙に包まれたあんぱんを一つ手に取った。アンパンの上には、桜の塩漬けが乗せられている。男はそれが嫌いだった。

 男は誰一人として人間の居ないレジに、百円玉をたたきつけ、道を出た。

 

 和紙を破り、あんぱんを口に含む。桜の塩漬けのわずかな塩気と、餡の甘味が男の口の中に、じわり、と広がった。

 男は、桜の塩漬けの味に対して顔をしかめると、まるで狂人の様に、世捨て人の様に、近所を徘徊し始めた。食いかけのアンパンを片手に。

 何か、面白いものはないか。空虚で、虚脱な自分の心を満たしてくれるような、そんな面妖なものはないだろうか。そんなことを考えつつ歩き、不意に、男は足を止める。

 おそらく、自分が、あの女学校へ、無意識に足を向けている、ということに気づいたのであろう。

 男はあんぱんをもう一口口に含むと、踵を返した。あの少女のことを考えれば考えるほど、恐怖が背中を這う。恐怖と、狂気とかがいっぺんに押し寄せて、胸が苦しくなる。

 はぁ、と男は嘆息をいた。だというのに、自分はあの少女の笑顔に、何処かひかれている。あの笑顔を、どうか、どうかもう一度、自分に向けてほしい、と思っている。

 

 突如、男の脳裏に、一筋の光が差した。そうだ。汽車にのって、何処かへ行こう。行先は何処でもいい。こんな田舎町ではなく、都会の――江戸に行けば、少しは気分も晴れるかもしれない。

 男は軽い足取りで、駅へと向かった。駅は、男を除いて数人の中年女性と、二人の少女のみしか居なかった。

 切符を、男は鉄道屋から買い、二番ホームに向かった。そこには、二人の少女が、仲睦まじい様子で何か話していた。

 男はじっ、と目を凝らし、その少女たちの容姿を見つめた。そして、音もなく眉を潜め、顔をしかめた。

 なぜなら、その少女ら。一人は、男とさほど変わらぬ用紙を持つ醜女。もう一人は――あの、少女だったのだ。

 男の胸はどきり、と痛んだ。いくら、狭い田舎町だからといって、こんなに頻繁に、会えるものなのだろうか。

 愕然として少女のことを見つめる男。

 ふと、もう一人の少女がこちらを振り向いた。男の容姿を見ると、男と全く同じ動作で、眉を顰め、顔をしかめた。そして、前を向くと、少女に、そっと何かを耳打ちした。

 途端、今まで笑顔だった少女の表情が一変した。男のことをちらり、と横目で見て、不快気に表情をゆがめ、醜い少女に引き摺られる様にして、その場から去っていった。

 

 ――正直言って、男は意味が解らなかった。なぜ、危害を加えたわけでも、声をかけたわけでもない自分が、なぜ彼女らに疎外され、忌み嫌われなければならない?

 男は理不尽さを感じながら、汽車が来るのを待った。備え付けのベンチに腰掛ける。

 その途端、強烈な眠気が眠気が男の体を包んだ。まるで、ふかふかのベッティングに寝転がった様な心地よさを感じつつ、男の意識は、ゆっくりと深い深い、夢の中へと沈み込んでいった。

 

 そしてまた、男は少女と対峙していた。

 少女、というよりかは天使に近いそれは、何か血みどろの物体を片手に持ち、男のほうを見ながら、嫌な笑みを浮かべている。

 不思議と、男の心に恐怖、というような感情はみじんもなかった。おそらく、これは自らの夢であり、夢ならば自分自身で操ることも可能だ、とでも気が付いたのであろう。

 男は得意げに息を漏らすと、何も言わず、ただにこにこと、麗しい顔をゆがめる天使に、声を出した。

「――おい」

 それから間髪入れずに、男の目の前の地面に、何かが叩き付けられる。

 それは、少女がさっきまで握っていたであった。


 男はまじまじとその物体を見て、その物体の正体を視認した。そして、その正体に、絶句した。

 それは、人間だったのである――いや、正確にはという表現が正しいだろう。何故なら、男の目の前にたたきつけられたそれ、には、四肢と呼べる様なものが何一つとして無かったのだ。腕、足のあるはずの部位には、代わりに木の枝が突き刺されている。そして、顔がなかった。顔面部は石か何かで殴られたのかのような打撃痕が幾つもつき、それが何者なのか、判別するのはほぼ不可能な状態だった、といっても過言ではないだろう。

 男は猛烈な吐き気を催した。狂っている。あの天使は、狂っている。男が、目の前のそれに、自らの嘔吐物を吐きかけてしまいそうになったその途端、男の目の前にある『それ』が、もぞもぞと動き出した。まるで、芋虫のような動きで。

 ――意識が、あるのか。男は、全身の血の気が引いていくような錯覚を、した。

 目の前にあるそれは、顔をつぶされ、四肢を削られても尚、生きている。男は不意に、かつて読んだ小説の『芋虫』を思い起こした。

 手足を失い、耳、声帯を失い、それでもなお生きている軍人。まさか、まさか、まさか――これも、それと同じだというのか。

 男は困惑して、目の前にあるそれ、とそれを作り出したのであろう天使を、二度、三度、見比べた。そして、その最中で、その天使が、手に岩のような何かを持っている、ということに気が付いた。

 男は――その次、その天使が一体全体何をするのか察していた。しかし、止めよう、という気は些か起こらなかった。

 腰が抜け、まともに身動きがとれなかった、というのもあるだろう。しかし、男は、目の前に在る、手足もなく、顔もないこのもの、を不気味がっていた、というのが主な動機だった。

 目の前に在るそれは人、とはもはや名称し難い。手足もなく、顔もなく、ただもぞもぞと動くことしかできないこれは、最早もはやただの芋虫ではないのか。では、それを手に持っている石でつぶしたとて、この天使を咎めることはできないのではないだろうか。そして、この天使の行いを留めなかったからと言って、男が地獄送りにされるようなことは、ないのではないか。

 そう考えて、男はその場から動かなかった。表面上は、恐怖で動けない、哀れで憐れな男を装って。


 少女は石を片手に、その『物』にじりじりと近づく。そして、もぞもぞ、もぞもぞ、とやかましく動くそれの額を、岩の淵で撫でると――それを振り上げ、振り下ろした。ゴン、という鈍い音が、あたり一帯に響く。

 一撃目で、『物』は致命傷だったらしく、殴られた部分から血を流し、痙攣していた。が、やはり、あの老人の時然り、天使は攻撃の手を休めることはなかった。何度も、何度も痙攣するそれに、石を振り下ろす。無表情に。


 ――やがて、『物』の動きが完全に止まった。天使は玩具おもちゃに興味をなくした子供のように、石を『物』の上に落とすと、男のほうを向いた。

 一歩、二歩、三歩、じりじりと近づき、男の頬をそっと――その白魚の如き指で、そっと、かつ優しく――撫でた。

 そして、男に柔らかい、聖母のような笑みを浮かべると、男に、とある言葉を耳打ちした。その言葉の意味を理解するとき、男はもう、目を覚ましていた。



 ――少女に、なにか罪障ざいしょうが在った訳では無かった。

 

 腕と脚をもがれ、顔を岩で潰されて殺された、という友人の告別式へ向かい彼女との別れを悲しみ、学校の帰り際に、腹部を滅多刺しにされて殺されたという用務員の居た船に花を置いてやった。ただそれだけだった。

 だというのに少女は、今ある男に追われていた。男ははぁ、はぁ、と息を切らし、その醜い顔に薄気味悪い笑顔を張り付けて、少女のことを追ってくる。男が、友人と用務員を殺した殺人鬼だ、ということは、明白であった。それだけではない、その二人が殺された各日、少女は見てしまったのである。

 用務員が殺されたその日、舟置き場にいる用務員に詰め寄る男の姿を! 友人が殺されたその日、友人のことをにらみつける男を!

 一体この男は何が目的なのか。少女にはさっぱり分からなかった。だが少女は、今、自分の命が狙われている、ということだけは理解できた。 

 

 ――次第に、疲れからか、走るスピードが落ちてくる。それも当然だ。少女は魔女でもなければ陸上選手でもない、何の変哲もない少女なのだから。

 男は、ぐんぐんと少女に近付いて来る。危機感を感じた少女はあたりを見回して、周辺に、逃げ込めそうな建物はないか、と探した。

 が、付近に民家はおろか、建物の一軒もない。少女は息を切らしながら、もう一度辺りを見回した。しかし、そこに広がっているのはやはり、逃げ込めそうな建物はない、という現実ばかりで、少女はまるで崖に叩き落されたような絶望を感じた。

 

 が、不意に少女は足を止めた。突如目に飛び込んできた、駅。普段は全くと言っていいほど人の居ないあの駅も、黄昏時の今ならば、通勤、通学で汽車を使う人間が居るかもしれない。少女は僅かな希望を抱いて、駅へと走り出していた。その間も男は、ぐんぐんと距離を詰めて来る。


 が――、駅は、いつもの通り無人。少女は汽車さえくれば、どうにか逃げられるかもしれない、と、駅のホームから、汽車が来ないか覗き込んだ。そして、そこから肩を突き飛ばされた。

 頭から、体が線路に落ちていく。

 ――男だ。あの男の仕業だ。地面にゆっくりと着地しながら、少女は暢気にもそんなことを考えていた。

 地面に頭が付く。ボサン、という鈍い音とともに、砂ぼこりが舞った。少女は、ホームの笑みでニヤニヤ笑みを浮かべる男を睨みつけ、体を起こそうとした。

 が、体は何故か動かなかった。困惑する少女を、まるで全身の骨が折れたかのような痛みが襲う。

 幾度も幾度も体を起こす少女。突如、踏切の甲高い音が、あたり一帯に響いた。

 ――汽車だ。少女は恐怖に震える。こんな、線路の上に寝転がる少女のことなど、運転手や車掌ですら見えないだろう。

 どうすれば――一体、私はどうすれば、良い? カチ、カチカチ、と歯を鳴らして震える少女に、男は手を突き出した。え? 少女は訝しんだ。なぜ、自分で突き飛ばした少女を、自分で助けようとしているのだ、この男は。

 少女は何度も汽車と男、そして自分の体の三つを見比べ、一体全体、自分がどうすればいいのかを考えた。

 そして、手を伸ばし、男の手をつかんだ。両手で、しっかりと。少女は、自分が今助かるために、一番最適な方法は、恥を忍んで、男に手を借りる方法だ、と学んだようだ。

 男は非力なのか、小柄な自分を持ち上げるのにもかなりの時間を要している。あぁ、汽車はもう目前に。

 男はしばし時間をかけて、少女を引き上げた。ホームの、自分が今現在いる位置の隣に、少女の体を下す。

 ほっ、と安堵の息を、少女は漏らした。肩はまだ痛いが、なんとか立っていられる。

 汽車が、だんだんと少女の前目掛けて近づいてくる。嗚呼、あれにひかれなくて、本当に良かった――。少女が心から安堵した、その時。

 再び、少女の体はホームから落下した。え? え? 少女はまた混乱に陥る。見ると、先ほどの様に男が、ニヤニヤ笑いを浮かべながら、落下する少女を見下している。

 一体、どうして? 少女は地面に着陸する痛みを感じるのよりもその先に、そんなことを考えるようになった。どうして、どうして自分は、あんなに醜い、気持ち悪い男に殺されなければならないのだろうか。

 なんで、自分はこんなみじめな死を迎えなきゃいけないんだろう。少女は涙を流した。その涙には――薄黒い汽車が、反射していた。


「――私を、殺してあげて」

「こんな悲しくて辛い、醜い世界にいる――私を、殺して、天使にしてあげて」

「貴男はもう、二人もやったんだもの。きっと大丈夫。大丈夫よ――」 

 そんな声が、男の耳を貫いた。

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